第61話

文字数 1,458文字

いま、障害者の方の生活支援の仕事をしています。

流れ者のように、この年になるまで色々な仕事をしてきて、いまは障害者の支援の仕事についている。

ぼく自身がADHDと統合失調症という精神の特性を抱えながらの人生、仕事であるが、だからか、いままでもトラブルが多かった。そのなかで、今の職場は、勤めてもうすぐ一年になるが、ようやくここでしばらく腰を据えたいと思うようになってきた。

障害者支援の仕事は楽しい。

満たされるのだ。

利用者様とコミュニケーションを取るだけでも、心が満たされていくのがわかる。一見、コミュニケーションが成立しがたいような方とのコミュニケーションが成立すると、それだけでもう、一つ徳を積んだかのようなありがたい気持ちが生じてくることもある。

そんななかで、自閉の方とのコミュニケーションと、そして彼らの人生について最近色々と考えるようになった。

自閉の方の中には、知的な障害を持たれない方も多く、それでも、ただ自閉であるというだけで、今のこの社会では一般で就労したり、『普通の人が普通に送っている生活』を送るなんてこと、夢にも思えなかったりする。漢字や英語に興味を持たれる利用者様もいるが、どうしたらその方の興味を伸ばし、実際の人生に結び付けていけるのか考えると、その才能が無駄にならないことをただ祈る事しか、今はできない。

自閉の方は静寂を好み、気性が穏やかで、やさしい印象を受ける。

ぼくは、自閉の利用者様との間には友情が成立しうるのではないかという気がしている。それも、一般の人との間よりも深いきずなが、より簡単に結べるのではないかという気がするのだ。

それくらい、自閉の方とのコミュニケーションは、満足をもたらすことが多く、それになによりそこには余計な夾雑物が入り込むことがまずない。あったとしたら、定型の人をおもんぱかってのことが大抵だ。

自閉の方とのコミュニケーションは、「秘密の回路」を通じて行われる。

ひとはみな、なにかを秘めて生きているのだが、この秘められた興味、秘められたメッセージに焦点を合わせてコンタクトを取ろうとすれば、自閉の方はすんなりと心を開いてくれることがあるように思う。

ここで考えてみると、ぼく自身も子供のころ、この秘められたコミュニケーションの回路を持っていた。

小学生の頃の私事を振り返るが、そのころぼくは、一度「思想的なこと」をしゃべった相手とでなければ、本当に面白い冗談は言えないなと感じていたのだ。

ぼくの秘密の回路は、自分の頭の中で日々こねくり回している思索的な性質によって門戸を閉ざし守り固められていたのである。

こういう風に、コミュニケーションというものは、本来防衛的な側面を持っている。でなければ人は人によって簡単に狂わされ、だまされ、汚されてしまうだろうから。

であるならば、自閉症の方との間に、『いわゆるフツーのコミュニケーション』とやらが成立しがたいからと言って、それを『ショーガイ』だと決めつけるのは大いに誤ったことだと想うのである!!

それよりもむしろ、『いわゆるフツーのコミュニケーション』というセンスのない、ほとんど無意味な代物を、解体すべき時期がそろそろ来ているとかんがえるべきではないだろうか?

コミュニケーションの可能性は、もっともっと大きな広がりを持っているはずだ。少なくとも自閉の方の人生を今現在ここまで狭めているのは、定型的なコミュニケーションという、誰もが内心では嫌気がさし、心底馬鹿馬鹿しいと感じているくだらないおしゃべりに対する、腐った信仰なのである。
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