第101話

文字数 1,052文字

記念すべき、『統合失調症・三昧』100話目で、エイジズムともいうべき考えを披露してしまった。

年寄りは、死ね、という考えだ。無駄に年を重ねても、なにも良いことなんかない。年金その他の社会保障費を無駄に浪費し、磨滅し切った感性とわずかな受給額で細々生きるくらいならば、働けなくなったらもう、いっそひと思いに死にましょうか、という『考え』だ。

47歳、人生の敗北者の、切実なる望みである。

今、週四日九時五時で働いていて、一応厚生年金もかけてもらっている。でも、このまま65歳まで働いてその間年金を納め続けたとしても、もらえる年金は月7万円になるか、ならないか、というところなのだ。(後記 ねんきんネットで試算してもらったところ、60まで今の働き方をし、65歳でもらったとして、月々57,000円くらいだった。こうなると、死ぬまで何らかの働きをせなばなるまい)

それを考えると、暗い気持ちになってしまう。今の生活ですら、妻と二人、三十万円くらいは月に使っている。それでも旅行もできないし、贅沢をしているという面白みもあまり感じない。それが、月7万円で生きていけるか、を考えると、ひどく暗い気持ちになるのだ。

年金をもらいながら、就労継続支援A型事業所で働く、という選択肢も考えられえる。あるいは一日四時間の仕事を続けるとか。あるいは今の仕事を、70歳になってもやっていてもいいかもしれない。福祉の現場は人手不足だ。

それにしても、いつか働けなくなった日に、ぼくは死を望むだろうか?

がんばって、生きていてもいいかもしれないという思いが頭をよぎる。今日みたいな穏やかな気持ちの日には。

生にしがみついて、成し遂げられることも、何かはあるかもしれないのだ。歳を取ろう。思い切り、歳をとってやろう。ROUZINNに、なってやる!!!

三十年後、ROUZINNになった俺が、生きているかいないか、まだ目は見えているか?見えない眼でキーボードを打つ日もあるのか、ないのか。ああボクは、無駄に生きた。無駄に生きている。無駄に、空をかく手の動きよ。

自由はあったのか、なかったのか。
幾つかの、契機となった人との出会いはあった。今も少しずつ、本を読んでいる。浪人生の時にも、親の金で風俗に通っていた大学時代にも、本は読んでいた。目が見えなくなっても、今は本を読む方法がいくつもある。それを利用するだろう。

生きる事に何の望みも考えられなくても、「どうで」あと三十年ぐらいの人生だ、なんとか生きてみようと思う。生き切れるかどうかは分からないが(笑)
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