五 代理人㈠

文字数 5,137文字

 二〇五六年、六月一日、木曜。
「本日の講演会に、ご寄付をお願いします」
 帝都西地区居住区域にある区域公会堂の、公演会場入口に立って、山本須美は、会場の来客に寄付を求めた。
 ドナー登録が増えれば、優性保護財団から手数料が得られる・・・。山本はそう思っていた。

 善意で始った会合が臓器移植の講演会に発展した。登録者を増やしたかった山本は、客を集めるために講演者を説き伏せて、自腹を切ってわずかな謝礼で講演させた。
 だが、講演会に集まるのはドナーになった者ばかりで、新規にドナーになろうとする者は増えなかった。優性保護財団とドナーとを取り持つ彼女の負担は増え続けて、講演者の謝礼に事欠いた。
 定期的に講演会やイベントを行って、ドナー登録者が優性保護財団のドナーだと示さなければ、気の短いドナーたちは登録を抹消して他の団体にドナー登録した。臓器を奪われるのは死後なのに、メディアに毒されたドナーたちは現在の肉体から臓器を抜き取られる恐怖に駆られて、ケアーの行き届いた団体に登録し直していたのである。
 優性保護財団はドナーを失うのを恐れた。法律に触れぬ範囲で商品やギフト券や医薬品を送るなど、あらゆる手段を講じてドナーたちを優遇した。
 だが、望んでドナー登録したドナーたちは、会合で見知った顔ぶれと会って互いの境遇を嘆いて納得した。財団が考えた以上にドナーたちの精神は脆かった。
 山本は、講演会に集まる顔ぶれに愛想をふりまいて会釈した。もっとお金が欲しい。もっと未登録者を探さなければ・・・、と思いながら。


 数日後。六月六日、火曜。
「この書類にサインしてくださいね。何も心配ありません。あなたの死後、眼球が活かされるの。視力を失った人が再び光を取り戻すのよ。すばらしいわ。どうかサインを」
 帝都中央地区学術研究区域にある部帝都大学の食堂で山本はサインを促した。。
「眼球を移植されて視力を得た者の子孫は失明を免れると考えてるのか?」
 宏治はサインする気になれなかった。
「それは私にはわからないわ。でもね、当人は物を見れるようになるのよ」
 山本は宏治に愛想笑いした。

 宏治は山本の言葉に疑問が湧いた。
「そのレシピエントの形質が若い頃に失明する遺伝因子によると仮定する。
 遺伝的形質は子々孫々に受け継がれる。子孫は永久的に健康な眼球を必要とする可能性があるのを知ってるか?」
「そのような遺伝を受け継ぐ者はこの世から消えろとお思いなの?」
 山本は憤慨したようにそう言った。眼球を必要とする者たちの擁護ではなかった。ドナー登録者を募集して金を得ようとする自分を批判されたと思えたからだ。
「そうは言ってない。一人を救えば、子孫を永久的に救わなければならない場合だってあるんだ・・・」
 昼飯時に眼球などと臓器移植の話をされた挙句、ドナー登録してくれと言われ、宏治は無神経な中年女に腹が立った。
「そうなった時、あんたは責任を持てるか?子孫は一人の親の遺伝子全てを受け継ぐわけじゃない。失明の遺伝を受け継がないかも知れないが・・・」
 口へ運んだチキンサンドのチキンとテーブルのビーフシチューが妙に生々しい・・・。
 宏治はすっかり食欲を無くした。口の中のチキンを飲みこむため、耳にかかった髪を指でよけながら、コーヒーカップを口へ運んだ。

 山本は宏治を見て笑顔を見せた。
「私はわかりません。視力を失った人にもう一度光を見せてあげたいの」
「ドナー登録はしないよ」
 宏治はトレイを持って席を立った。その時、肩から毛髪がテーブルに舞った。

 宏治がテーブルから去ると、山本はハンカチを握って中年太りの手を伸ばした。テーブルにある書類と宏治の毛髪をハンカチに包んで摘まみ、何食わぬ顔で書類バッグに入れ、毛髪をバッグ内の採取用粘着テープに貼りつけた。その様子は、ハンカチを握った婦人がテーブルの端へ腕を伸ばして書類を取って、バッグに入れたように見えた。


 宏治は腹だたしいまま食堂を出た。
 今年になって、胸に立入り許可証を付けた見慣れぬ者たちが学内に多く出入するようになった。多くは、『生命を守る』と大儀名分を唱えてドナーを募集する者たちだ。

 人類は己の繁栄のために多くの種を絶滅させた。資源開発を名目に自然環境を破壊して、地球も破壊した。こんどは個人が永らえるため、他人の組織を利用しようとしている。死者の尊厳もない。死肉を食らって永らえるハイエナやコンドルと同じだ。
 臓器提供は無償だ。いったん団体にドナー登録すると、その団体はドナーが役割を果たすまでドナーに接触してはならないと法律で定められている。だが、団体は山本のような代理人を使って、ドナーの生活全てを管理負担している。このような者たちが法を犯して動きまわるのを、当局はなぜ黙認するのだ?

 帝都大理学古生物研究室に戻った宏治は、義父の大隅教授に疑問を質問した。
「君の疑問に答える前に、君が生まれる前の、社会変化を説明しないといけないね・・・。
 君は経済学者のガルブレイスを知っているかね?」
「いいえ・・・」

「ガルブレイスは二十世紀末の経済学者だ。彼は、豊かな社会が抱える経済的な歪みを指摘したが、政治的にも経済的にも検証されずに時が流れた。
 二十一世紀へ進むにつれて、ガルブレイスの予言通り、富める者は限りなく富み、貧しい者はさらに貧しくなって貧民層が現れた。だが、その社会格差を嘆く者はなく、行政は何も対処しなかった。理由は、経済界がメディアを通じて、暗黙裏に、国民に中流意識を植えつけたためだった。

 経済界が中流意識を意図してCMを流したんじゃない場合もあるから、こう言うのは正しくないかもしれないが、メディアを通じて消費の優位性が伝えられて、消費者の心が、資本家や経営者の手の内に引き留められていたのは否定できない事実だった。
 つまり、需要があって生産されるんじゃない。中流階級を対象に、企業利益をもたらす製品の需要と優位性がメディアを通じて意図的に大きく報じられて、自分たちを中流階級と思いこんだ消費者が、跳びつくように製品を購入した。

 メディアを通じてされたのはこれだけじゃなかった。ドラマや映画だけでなくニュースも、設定されるのは常に中流以上の社会で、暗黙裡に下層社会の映像は避けられた。
 その理由は、消費を扇動するために、国民に下流意識が存在してはならなかったからだ。貧民層の存在を知られてはならなかったからだ。
 経済は人間の欲望だ。この経済が創りだした仮想社会の幻想的豊かさに、ガルブレイスが指摘した矛盾点があったんだね・・・・」

「経済界は、メディアをそんな風に利用してたのか・・・」

「君は、製品は産業が産む物とは限らないのを理解してるね」
「ええ、理解してます」
「株式投資の本質は企業資本の拡大と新規企業の資本調達にあるが、二十世紀末期、利潤のみを追求する市場経済下で株式売買と企業売買が行われて、株式投資の本質が無視された。
 それを懸念するように、二十一世紀初頭、ポール・クルーグマンは、変動為替相場では、投機家の思惑が自己成就的な相場変動を作って、変動為替相場が本質的に不安定だと示した。株式相場でも同じ事が言える。

 考えてもみたまえ。何も生産しない資本家が株式売買や企業売買で利益を得ても、経済発展とは呼ばない。当時はこんな当前の事を、多くの経済学者と行政担当者が無視したんだよ。

 二十一世紀初頭、各国政府は税収を増やすために、利益を優先する財界の要求を聞き入れて、労働力の無駄を省く名目で派遣法を成立させ、労働者を物のレンタルの如く扱った。その結果、多くのワーキング・プアーと呼ばれる貧民層が生まれた。
 さらに、かつての合衆国の市場経済は金融工学なる物を使い、金融商品を作り出してグローバル市場へばらまいた。だが、サブプライムローンの破綻をきっかけに、大手投資銀行と証券会社が破綻して金融保証できなくなり、世界的経済破綻が生まれた。

 しかし、大国の権威を傘に合衆国は金融工学を批判しないばかりか、グローバル市場に対して責任を取らなかった。小国がこんな事をしたら、合衆国は小国を大批判しただろうね。
 ところで、君は金融工学を知っているかね?」

「間違った理論と聞きました。実態は知りません」

「金融工学は大国のエゴが生んだ馬鹿げた理論だ。
 リスク10%の事象が同時に五回起こる確率は0.001%だ。だから、リスクの高い金融商品を、リスクの低い商品と組み合わせて一つの商品にすれば、できあがった商品は安全だとしたのだよ。
 この考えの間違いは、商品リスクが確率的に低いから安全だ、と考えた事だ。
 リスク1%の意味は、一事象の安全性を99%保障する事じゃない。
 数限りなく事象をくりかえした場合、くりかえした回数の1%の割合で、リスク100%の事象が起こる事を意味するが、リスク100%の事象がいつ起こるかは、誰にも予測できない。
 同時に、商品を発行する銀行が、常に健在であらねばならないのを忘れてる。

 これらの事から、民主主義の基本理念に従って、市場経済は国際的に根本から見直された。
 民主主義の三原則は、
『最大多数の最大幸福、社会的正義、道徳的責任』だ。
 地球温暖化防止策を実行しなかった先進諸国は、発展途上諸国から大批判されて、先進国を主軸にしない、新たな民主主義の協力体制が強まって大陸ごとに国家が統合された。

 二〇三〇年。
 アジア連坊、
 オセアニア連邦、
 北コロンビア連邦、
 南コロンビア連邦、
 ユーロ連邦、
 アフリカ連邦、
 が誕生して、それらの民主的な統括政府として、
統合議会(地球国家連邦共和国統合政府議会)に基づく統合政府(地球国家連邦共和国統合政府)が誕生して、新たな法律、
 証券取引法、
 労働法、
 環境保護法、
 製造基本法、
 が制定された。

 統合政府下で施行された証券取引法と労働法により、経済を狂わせる世界的社会悪の元凶として、
 投機を目的とする株式売買の禁止、
 投機を目的とする企業売買のための株式売買の禁止、
 支配的または強制的な企業買収を目的とする株式売買の禁止、
 企業や国家への投機を目的とする投資の禁止、
 企業や国家への投機を目的とする金融商品の開発と販売の禁止、
 派遣と称して雇用関係を物のレンタルの如く扱う、労働者の非正規雇用の禁止、
 労働者の派遣や紹介によって利益を得る事の禁止、
 等がなされた。
 その結果、株式配当のみを得る資本家は生き残って、投機家はその職を無くした。
 新たに企業を起こす投機家もあったが、大半は投機による利鞘を考えるしか脳のない者たちで、過去に築きあげた膨大な自己資本を子々孫々にわたって食い潰し、現在社会から消えつつある。

 市場経済に限らず産業構造も変化した。長年考えられたとおり、
『人類を育成する素地は、十八世紀後半から十九世紀にかけて起こった工業生産方式の大変革(産業革命)以前の地球環境にある』
 と認められ、
 環境保護法、
 製造基本法、
 が制定されて、地球環境を悪化させる物質の廃棄の厳禁と、地球環境を汚染する物質の生産が厳禁され、これらを守れぬ個人と企業と国家は、環境保護法と製造基本法の下に、統合政府から厳罰処分が下された。

 産業廃棄物を産出する企業は根こそぎ摘発されて、無廃棄物生産を強制された。
 製品を梱包する物質は再利用可能物質や自然界に存在する物質に限られた。分解して自然へ戻らぬ製品は生産を厳禁された。
 仮に、将来的に廃棄せねばならない製品で自然分解が不可能な物を生産する場合があれば、企業は統合政府の監視下で、未来永劫に全製品を再利用するよう強制された。通信やエネルギー開発目的の宇宙開発も例外ではない。

 二十世紀の人々は欲望のままに望む物を生産して、得たい物を手に入れ、不要と判断した時に廃棄した。彼らから見れば、二十一世紀は途方もなく制約だらけで経済的欲求の暗黒時代と言える。幸いにも、二十一世紀初頭にメディアに洗脳された一般大衆は、社会変革と環境保護に違和感を抱いていなかった。
 二十一世紀半ばの現在の産業は、生産過程で廃棄物を産出せず、製品その物は自然分解可能か再利用可能な物でなければならない。そして、再利用される資源はとことん利用されるようになった。
 だが、どのように法律を整備しても例外が認められて、社会の裏で蠢く者が現れる。
 財界にも新たな経済理念を求める者たちが現れた。彼らは統合政府が認める完璧な製品を見つけた。そしてそれらを創り出そうとしているんだよ・・・・」
「臓器ですか?」
「そうだ・・・・」
 宏治は苦い薬を飲んだような胃の痛みを覚えた。
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