十六 高純度な意識

文字数 3,947文字

 二〇五六年、九月一日、金曜、夕刻。
 ユーロ連邦、ドイツ、バイエルン地方、フユルー郊外森林地帯、アネルセン宅。

 モーリンは自室をでて隣室のドアをノックした。
「バトンさん。夕食です」
 返事がしてドアが開いた。
「突然押しかけて来たのにいいのでしょうか?」
 トーマスは驚いている。
「気になさらないで・・・。下のダイニングルームですから、いっしょに行きましょう。ここで待ってます」
「わかりました・・・」
 トーマスはドアを閉めようとした。
 モーリンはドアを止めて、笑顔でトーマスを見つめた。無理にダイニングルームに連れてゆかなければ、トーマスは夕食を忘れて、論文と自分の考えに没頭する・・・。
「上着を・・・」
 トーマスはジャケットを着て部屋を出た。
 モーリンはトーマスに訊いた。 
「論文を理解できましたか?」
「ほぼ・・・。でも、もう一つ、不明な点があります・・・」

 モーリンはトーマスとともに大広間を見おろす回廊へ歩いて、階段を下りた。
「急がずに、おちついて理解してください」
「ええ。でも・・・」
 モーリンは足を止めてトーマスを見上げた。モーリンの手は、トーマスの心を鷲づかみするようにしっかり手擦りを掴んでいる。
「バトンさん。もう帰る所が無いんじゃありません?」
「調べたんですね・・・」
 見知らぬ男が訪ねてくればどのような人物か調べるのが当然だ。僕はローラのDNAの分析結果を隠蔽した。発覚すれば大学には戻れない。それは覚悟してる・・・。

「あなたが思っている意味で答えるなら、いいえよ・・・。
 いつまでもここに居てください。これは変らぬ運命ですから・・・」
 モーリンはトーマスに微笑んでいる。
「私の運命をどうやって知ったんですか?」
「私は宗教科学者で精神科学者です。精神と肉体に関する・・・」
 モーリンは向きを変えた。トーマスに背を向けて階段を下りた。
「僕の心を読んだんですか?」
 トーマスはモーリンの背に向ってそう言った。
「まあ、そんなところね・・・。
 慌てなくていいんです。あなたの考えは私の専門外で、詳しいことはわかりません」
「わかりました・・・」

 階段を下りた二人は、広いダイニングルームの大きなテーブルの相向かいに着いた。
「温かいうちにお召し上がりください」
 白髪を後ろに撫でつけた初老の執事が二人の前にスープを置いた。
「ありがとう、オリバー」
 モーリンは執事に礼を言ってトーマスを見つめた。
「夏でも、この辺りは夜になると冷えます。冷めないうちにどうぞ」
 暖炉に薪が燃えている。
「ストックホルムも同じです。暖炉の火はいい・・・。特に薪の火は・・・」
 スプーンを取って、トーマスはスープを口へ運んだ。

「自己意識領域は、意識、思考、心、霊、魂の順に無意識領域へ移行します」
 モーリンはスプーンを口へ運びながら話した。
「神経細胞の中にミラー細胞と呼ばれるシミュレーション細胞があります。スポーツをTVで観戦すると、あたかも自分がその人物になったように錯覚させる、脳の神経細胞の事です。この細胞を活性化するホルモン剤を投与すると、現実の自分を、自分の真上から第三者的に認識するようになります」
「幽体離脱ですか?」
 トーマスはスプーンを止めた。モーリンを見つめている。

 モーリンもスプーンを止めた。
「そのように呼ぶ場合もあります。実際は、宇宙意識や神の意識にシンクロしている状態です。本来は、人間とはそうしたものなのです」
 トーマスは驚いたようにモーリンを見つめている。
「意識は肉体から遊離できるのですか?」
「私たちの話から大事な事が欠けています。気づいていますか?」
 モーリンはスプーンを口へ運ぶ。
「仮定が違っていると?」

「バトン様。スープをお召し上がりください」
 執事がトーマスとモーリンの前にそれぞれのサラダの皿を置いた。
「私たちが意識や心や精神と呼ぶものが、常に私たちの中にあるとお思いですか?」
 モーリンはサラダをフォークで取った。視線はサラダに注がれたままだ。
「そうではないと?」
 トーマスはモーリンを見つめた。

「先ほど、あなたが過去の失態を思った時、あなたの意識はどこにありました?こう訊くのは変ですね・・・。どこに居ましたか?」
 モーリンはフォークでサラダを口へ運ぶ。
「私の中に・・・」
 そう話してトーマスは<はたと気づいた。意識は確かに僕の過去にあった。実際は僕の記憶の中の過去にあった。過去は僕の中の異空間だ。そこに僕の意識は存在した・・・・。

「おわかりのように、意識は必ずしも私たちの中に存在しません。
 ネイチャーの論文は、そこまでしか書いてありません。だから、論文をまとめた本をお渡したのです」
 モーリンはトーマスを見つめた。眼鏡の奥のトーマスの目が綺麗だ・・。

「まわりくどい話はよしましょう。結論を話します。
 私たちの意識や精神は宇宙意識とシンクロしています。いえ、そうじゃないわね・・・。
 私たちの意識や精神は宇宙意識や宇宙精神の一部です。
 私たちの肉体は、宇宙意識や宇宙精神を糧にして、私たちの肉体と意識と精神を私たち固有なものに成長させます。
 同時に、宇宙意識や宇宙精神をいつも受信しているのですが、成長とともにその記憶は薄れて消え、自己の意識になります」

「発生段階で宇宙意識や宇宙精神が入りこむのですか?」
「基本的には遺伝子、あるいは遺伝子に順ずるものが存在する場合です。それらに宇宙意識や宇宙精神が入って肉体が形成され、肉体の中に宇宙意識や宇宙精神が留まり、記憶を形成して自己意識になるのです」
「DNAの分子記憶はそうしたものだと?」
「そうです。宇宙意識や宇宙精神としての自己意識です。
 我々が自己意識は自己の中にだけ存在すると思いこんだまま、宇宙意識や宇宙精神に気づかずに成長するためです」
 モーリンはフォークを置いて、自分の頭部を指さしている。
「有機体だけですか?」
「無機物質についてはまだわかりませんが、基本的には同じと思います」
「それなら・・・」
 トーマスは考えこんだ。フォークでサラダを口へ運ぶが、味がわからない。

「人が自分の運命を思考する場合、事象の時系列を経ずに飛躍して未来を思考する場合があります。
 この場合、運命の時系列が途絶えていますから、運命は成立しません。言い換えれば、自分のものではない他の運命を、つまり宇宙意識や宇宙精神の一部である、他人の運命を思考している場合と言えます・・・。
 一方、祈りは自分の意思を述べるだけです。運命を思考しません。単なる方向付けですから運命の時系列は連続します。結果は祈りの成就です」

 執事が、トーマスとモーリンの前に鱒のムニエルを置いた。
「温かいうちにお食べください」
「わかったわ、オリバー・・・。
 おわかりのように、私たちは宇宙意識や宇宙精神を通じて、他の運命も思考も感じ取れます。そして、宇宙意識や宇宙精神の一部が私たちの中に入ったのですから、元に戻るのも可能です」
 モーリンはナイフとフォークを取った。

「そんな事をしたら、宇宙意識や宇宙精神に吸収される、つまり死ぬのでは?」
「強固な自己意識なら意識と肉体は分離して生存できます」
「どんな意識ですか?」
 トーマスもナイフとフォークを取った。
「宇宙意識や宇宙精神です」
「えっ?」
 思わずトーマスは、モーリンを見つめた。

「ローラが発した光は、ローラの肉体に留まっていた宇宙意識や宇宙精神が物質化したものです。単独で存在可能な高純度な意識です」
「光を浴びた者はどうなります?」
「肉体も精神もローラと同じ能力を持つでしょう。意識は宇宙意識です」
 モーリンはムニエルを口へ運んだ。
「三人とも?」
 トーマスはモーリンを見つめた。トーマスの手がモーリンの手の動きにシンクロしている。だがトーマスは気づいていない。

「ただし、光を浴びた者がローラの意識を受け入れる能力があればの話です」
 モーリンは、トーマスの手の動きを見ながらムニエルを口へ運ぶ。
「・・・」
 そのような能力が三人にあるだろうか?我々とローラの違いは遺伝子構造だ。三人とも、ローラのような遺伝子構造ではないはずだ。

「あなたの考えの一部は事実と相違しています。光を浴びた者たちは微妙に私たちと遺伝子構造が異なります。その結果、DNAが変異して未分化細胞が現れた。つまり・・・」
 モーリンは言い淀んだ。
「端的に言えば、記憶力に優れた長生きの家系です。モーリン様」
 執事がモーリンにそう言った。
「ありがとう、オリバー。
 バトンさんの専門分野ですから、記憶力と長生きの関係はおわかりね?」

「遺伝子が老化しにくいことです。それでは・・・」
 トーマスは宇宙意識の目的を訊こうと思った。
「宇宙意識は宇宙の存続を願っています。破壊ではありません。
 存続のエネルギーは良心、破壊は邪心です。つまり善と悪です。
 子孫の誕生は宇宙の存続にシンクロします・・・。
 二人に早く変化が現れて、一人はゆっくり変化します・・・。
 私がシンクロできるのは、私の研究分野だけです。
 わかるのはそこまでです」
「わかりました・・・」

 それから話題は論文から離れた。
 トーマスは自分の過去から現在に至るまでと研究分野、そして所属団体について話した。トーマスの年齢は三十七歳でモーリンの五歳下である。だが二人とも三十歳前後にしか見えない。
 モーリンは、久しぶりに会った弟トーマスが、積もり積もった話をして、姉である自分が聞いているように思えた。モーリンはほとんど聞き役で、トーマスが愛情に飢えているのを感じた。トーマスの話が難しくてもいい・・・。トーマスの意識全てが私に向けられている・・・。
 なぜか、モーリンはトーマスを見ているだけで幸せを感じた。
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