七 責任

文字数 6,003文字

 二〇二七年、十一月二十二日、月曜。
 良い天気がつづいている。
 十時前。
 省吾の要望で自宅に固定電話が設置された。ケーブルを長くしてもらったため、居間の中央に移動した炬燵にも電話を置ける。携帯も持っているが営業用は固定電話が役にたつ。受話器をコードレスにしないのは電波障害の影響が少ないからだ。

 電話を炬燵に置いて、理恵はバイリンガル本社に、入籍して田村理恵になった事と、事務所名『横山・会話教材機器販売』と住所と電話番号、理恵がバイリンガル本社社員のまま『横山・会話教材機器販売』の所長で、省吾を事務所雇いの非常勤所長代理にする旨を連絡し、専用のパソコンとデモ用機器と二人の名刺、入籍による理恵の各種名義変更の書類と営業契約書を手配した。
 事務所名に『横山』があるのは、将来、理恵が横山建設の経営に関与するなら都合が良いと考えたためだ。

 将来、理恵が独立し、バイリンガル本社と専属の営業契約を結びたい旨も伝え、承諾を取りつけた。
 本社の提案で『横山・会話教材機器販売』がバイリンガル本社と、営業ノルマのない専属の営業契約をすることになり、正式に、本社社員の理恵が理恵所有の『横山・会話教材機器販売』に所長として出向する形になった。
 理恵の給与は、最低営業ノルマの五契約が課せられたヒット・アンド・ペイ方式で、経費は全て会社負担である。
 省吾は事務所雇いの、つまり所長の理恵に雇われた非常勤の営業員、所長代理になった。
 理恵の提案した独立計画は、その後のバイリンガル社に新たな営業方針、独立営業所による営業フランチャイズ化をもたらすきっかけになった。

 バイリンガル本社への連絡後、省吾と理恵の実家に電話番号と事務所名を連絡し、昨日の連絡についで新垣さんと大槻さんにも結婚と事務所開設を連絡した。大家の木崎さんには手土産持参で直接会い、あらためて結婚と事務所開設と電話番号を伝えた。

 木崎さんと新垣さんと大槻さんが
「結婚祝いをしてあげる」
 というので日が重ならないよう、大家の木崎さんは次の日曜、新垣さんはジュエリー店が休日の今週水曜の夕方、大槻さんは今週土曜の夕方をお願いした。新垣さんには結婚指輪を依頼し、食事会の時に指輪の相談することになった。

 新垣さんと大槻さんはともに、
「家庭教師料は変らないが夕食は二人分用意するから、英語は理恵さんが指導してほしい」
 との要望だった。大槻さんの娘の家庭教師は月曜と木曜、新垣さんの息子は火曜と金曜。
 理恵はすぐさま承諾した。来月十二月から理恵が英語指導する。


「あなたが考えたとおりだ!あなたの決断が私たちを良い方向へ進めてるんだ!」
 理恵が省吾に抱きついた。顔を離して省吾の目を見ている。
「良かったな。理恵と俺の行いが良いからだ」
 このまなざしと思いに憶えがある、誰だろう。省吾がそう思ったとたん、記憶に三十代と思われる理恵が現れた。
『あなたの行いで生ずる現象は、全てあなたのものだよ。
 森羅万象に対する感謝を形にするの。言葉にするの。
 あなたの良い行いで生じた現象を他人のもののように語るのは、自己否定で美徳じゃないよ。自分を卑下するように語ったたらいけないよ・・・。
 正しいと思うことが、正しく実行されるように考えるんだよ・・・・』

「そうだね。森羅万象に感謝します」と省吾。
「なに、それ?」
「良いことが起った時の感謝。この世の全てにありがとう、ということ」
「わかった。神様、ありがとう、だね」と理恵。
 なるほど、うまい言い方だと省吾は思った。
「さあ、営業だ。アポイントを取ろう。
 土曜は夕方から大槻さんとの約束があるから、午前と午後の二件だ」
「わかった」
 理恵は、マーマレードといって省吾の頬に両手を触れた。


 月曜午前は大学院修士課程の授業はない。理恵が電話する横で、省吾は高分子の分子振動と伝導性に関する専門書を読むがおちつかない。理恵がそばにいるせいではない。金曜の夜から四日目だが、省吾は理恵とは何年もいっしょに暮らしてきたように違和感も緊張もない。むしろ、いっしょにいるのが当然で、いないのが不自然だ。
 省吾は炬燵から立った。机にしろ炬燵にしろ、座ったまま動かずに思考活動するのは効率が悪い。筋肉運動による血流変化と刺激が上半身にかぎられて、下半身、特に下肢の筋肉運動による刺激と血液循環が活かされないからだ。台所で昼飯の準備をしながら考える方が性にあっている。

「バイリンガル・北関東営業、『横山・会話教材機器販売』です。午後二時にうかがいますから準備しておきます」
 省吾は電話営業中の理恵に、事務所名と大学院の講義時間を低い大きな声でいった。現在ここは個人事務所で、省吾の立場は所長代理だ。

 世の男たちは美人に甘い。そうでない女を軽視する。それを表にだすか否かは本人の道徳心による。多くの男は感情を抑制し自己管理する。基本は本人の人間性である。だが、どんなにその場を繕っても、人の本質は変らない。
 たがいの顔を知らず、二度と話す機会がない電話の場合、心のどこかに潜む下衆な思いを口にする男もいる。そういう男はいつか本質を露呈する。だから、理恵が男の顧客を相手する場合、常に警戒が必要だ。

「ああ、お願いね」
 理恵は意図に気づいて、上司らしくいい、
「すみません。所長代理です。大柄で、声が大きくて低いんですよ」
 電話を再開した。
 事務所に男がいるとわかれば、男女にかぎらず、電話相手は所長の理恵の話を真剣に聞く。上背があり、腕っ節が強そうと知ればなおさらだ。

 省吾は台所で湯を沸かしてコーヒーをいれてもどり、炬燵に置いた。理恵が、ありがとうと仕草で示し、受話器を押さえて唇を尖らせている。省吾は音をたてないよう理惠に唇を触れて肩と首筋を揉み、台所にもどった。

 省吾も理惠も土曜日曜はあまり野菜を食べていない。食物繊維が不足すると体調が悪い。魚肉量と同量以上、あるいは二倍は摂らないと不調だ。昼飯に野菜炒めを食べよう。そう思いながら省吾は編入学について考える。

 現在、省吾は帝都大学大学院工学研究科修士課程一年だ。化学工学系列高分子物性工学系、第一研究室に所属している。現在までの単位所得科目で土木建設工学に関係するのは、基礎工学科目の機構学、材料力学、設計概論、構造力学、振動工学、電気工学、電子工学と、工学基礎科目の数学、物理、化学などだ。
 大学院修了後に土木建設工学系列へ編入学した場合、一般教養科目と工学基礎科目は免除されるはずだが、土木工学、建築工学に関する専門科目が少ない。三年次へ編入学するのだろうか?教務部で土木建設工学系列への編入学試験について調べてもらう方が早い。事前に、所属研究室の指導教授本田武雄先生に知らせておこう。それが順序だ・・・。


「所長代理ですか?私の夫ですよ。身長は・・・」
 理恵が、省吾の身長、百八十五センチメートルや、省吾の実家が運送業しているため、鍛えられた身体をしている事などを話している。
 省吾の記憶では、省吾の実家は大手宅配便の下請け運送会社「田村運輸」だった。

「ええ、荷物運びは助かりますよ・・・。はい、わかりました・・・。では、土曜の午前十時、二人でうかがいます。理事長の松島さんですね・・・。はい、契約は、その時、デモ機器を見て納得したら契約してください・・・」
 デモ機器は、いつも理恵の営業用アタッシュケースに入っている。
「それでは、失礼します」
 理恵が電話を切った。同時に、電話説明だけで契約が取れそうだ、こんなにうまくいっていいの?心配になっちゃう!と暖かい風のような思いが飛んできた。
「やったあっ!」
 理恵が台所に来て、野菜炒めと味噌汁を作る省吾の背に抱きついた。
「ごくろうさん!昼飯は野菜炒めと鮭と味噌汁だ」
 省吾は作っている野菜炒めを皿に移し、フライパンにサラダオイルをしいて熱し、臭みを取るため、鮭の切り身を皮から焼きはじめた。
「鮭が焼けたら昼食にする・・・。
 俺の会話をパソコンに録音しておく。俺がいつも事務所にいたほうがいい。
 パソコンを操作して、俺が留守中の時でも、いるように思わせるんだ」
「わかった。やっぱり、女だと馬鹿にされるか・・・」
 うれしさと悔しさの思いが理恵から伝わってきた。
「気にするな。いつも俺がついてる」
 味噌汁を暖めなおした。
「うん!」
 理恵が省吾の向きを変えて顔を見上げている。
「マーマレード」 
「朝のトーストのはとったぞ」
 省吾は理恵の唇と鼻先に指を触れて、マーマレードが残っていないか確かめた。
「もおっ!」
 理恵が笑顔で頬を膨らませた。
「わかってる。結婚してよかったな」
 理恵の頬に両手を触れて上をむかせた。
「うん」
 理恵の目がキラキラしている。
 あまりにうまく進みすぎている。やるべき事をやっているからではなく、どこかに俺たちの人生のシナリオがあって、誰かが状況に合せて加筆しているように思えてならない。省吾はそう感じた。


 昼食後。
 家で電話営業する理恵を残して、省吾は大学へ歩いた。
 金曜の夜、理恵と歩いて帰宅したため、自転車は大学の高分子物性棟の駐輪場に置いたままになっている。

 化学工学系列高分子物性棟十階、高分子物性工学系第一研究室の教授室で、省吾は本田武雄指導教授に結婚を報告した。義兄になった横山譲には触れずに、家庭事情を説明し、修士課程終了後、工学部建設工学系列の土木建築工学科へ編入学したい旨と、修士課程の学業に手を抜かない覚悟を伝えた。

「わかりました。環境が急変して大変ですね。
 君の性格とこれまでの成績から判断して、編入学できるでしょう。
 ちょっと待っててください」
 教授は講義まで一時間ほどあるのを確認して、その場で教務部に電話した。修士課程の省吾は成績も教授たちに対する印象も良いらしかった。
 定かでないが、省吾が記憶している省吾自身は、成績も評判も悪くはないが極端に良くはなかった気がする。新垣さんや大槻さんが気にかける省吾の本質を、教授や事務官、技官、学友は知らないらしい。

「高分子物性工学系第一研究室の本田です。所属の大学院生から、修士課程終了後、工学部の土木建築工学科で学びたい、との要望がありました。これから本人をそちらへ行かせます。編入学試験についてくわしい説明と、資料提供をお願いします・・・。
 大学院修士課程一年の田村省吾です・・・。
 ええ、講義は二時からですから、一時間あります・・・。
 お願いします」
 教授は受話器を置いた。
「親族の責任を負うのだから、教務部で編入学について聞き、必ず、大学院修士課程終了後に編入学するよう頑張ってください。活躍を期待してますよ」
 省吾は教授に、笑顔で励まされた。

 帝都大学大学院工学研究科は帝都大学工学部に併設している。管理部門は一つだ。
 教務部の説明では、工学部土木建設工学系列の土木建築工学科の第三学年次、実際の内容は第二・五学年次へ編入学するため、単位取得で忙しくなるとの事だった。専門科目で共通するのは基礎工学科目だけのため、土木建築に関する専門科目を履修する。

 編入学試験は工学基礎科目の数学、物理、有機・無機化学、英語と、基礎工学科目の材料力学、設計工学、構造力学、振動工学、機構学、電気・電子工学だった。試験日は来年十月半ばだ。もう一年もない。
 なお、帝都大学大学院工学研究科修士課程から帝都大学工学部への編入学は前例がないので、編入学試験について検討会を開く、との理由から
「帝都大学工学部、土木建設工学系列、土木建築工学科、編入学特別申請書」
 を書かされた。
 省吾は、すぐさま、教務部から高分子物性棟十階の所属研究室にもどって、本田教授に報告した。


 報告後。
 八階へ下りて教室に入った。理恵との入籍が事務官の高畑さんや、所属研究室の大谷利夫技官や小野寺久恵事務官から伝わったらしく
「田村、入籍したんだって?」
 と馬谷が訊いた。
「ああ、親たちが決めた。嫁さんの親が建設業をやってる。ここをでたら、土木建築工学科へ編入学だ。入試は来年秋。大変なんだ」
 省吾はそっけなく答えた。大学院修士課程の授業と実験、理恵の仕事のサポート、編入学試験の準備、家庭教師、すべきことだらけだ。

「で、新婚生活はどうかなっ?」
 馬谷の隣で、眼鏡をかけた猛禽類のような立原がにやけている。
「想像に任せるよ。立原が週末してるのと同じだろう」
 立原には都内のJ大学に通う二歳年下の婚約者がいる。毎週末、会いに行く。まさに通い婚状態だ。
「そのうち、奥さんをご披露してもらわないと」
 婚約者を披露していない立原が気まずそうにいった。

 省吾と学友たちは、立原の婚約者を写真で見ただけだ。皆、立原が写真の婚約者と結婚すると信じている。立原が結婚するのはあの写真の婚約者ではない。年上の女性で小学校の先生だ・・・。立原の未来を記憶しているのはなぜだ・・・。
 そう思いながら、省吾は教室の最後部の席に座り、ショルダーバッグから専門書とノートをだした。
「そうだな。家は嫁さんと母親の物でいっぱいだから、自宅は無理だな・・・。
 今度、どこか予約して、皆で飲もうか?」
「母親がいるのか?」
 馬谷が驚いている。省吾は二人を見た。
「ああ、嫁さんがおちつくまで、しばらくいる。入れ代りに俺の母親が来るんだ」
 眼鏡の猛禽類の立原が真顔になった。
「それなら、都合がいい時を教えてくれ。
 俺たちが会場を設定する。費用は持つよ。結婚祝いだ。
 これでいいかなっ。田村くん?」
 立原の表情が急変して和やかになった。
「悪いな。連絡するよ」
 教室に本田武雄教授が入ってきた。


 省吾は教室の最後部の席にいる。馬谷は最前部、立原は中ほどだ。
 本田教授が「高分子の分子振動と伝導性」の百七十一頁を開くようにいい、講義がはじまった。省吾はテキストのページを開き、板書をノートし、講義の重要点を書きくわえた。

 講義を聴きながら、省吾は銀行員の中林早苗を思いだした。
 学生の在学確認のため、奨学金は毎月第一月曜日、学内に出張した銀行員によって直接支給される。中林早苗は、奨学金の支給業務で帝都大学工学部に来る銀行員たちの同僚だ。
 奨学金支給時、銀行員は高畑さんと顔を合せる。銀行員を通じて、高畑さんは中林早苗と省吾の友達づきあいを知っている。学内で奨学金を受給できない場合、銀行で受給しなければならない。中林早苗の担当は銀行のカウンター業務だ。
 高畑さんを通じて、理恵との結婚が、銀行員の中林早苗に伝わるのは時間の問題だ。
 省吾は中林早苗について記憶がはっきりしなかった。
 来月十二月は奨学金を学内で受給せずに、銀行で受給して、中林早苗を観察する手もある・・・。いや、今は講義に集中しよう・・・。
 省吾は黒板に板書する本田教授の言葉に集中した。
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