十八 出会えてよかった

文字数 3,574文字

 二〇二五年、八月三十一日、日曜、午前中。
 婚姻届を受理したN市役所の戸籍係は、コンピューター端末のディスプレイで、保健省が発行した理恵と省吾の健康診断書を確認して説明した。
「お二人とも健康ですから、これで手続きは完了です。
 民法が改正されたため、婚姻届が提出されると公文書と私文書が自動的に改姓されます。IDに記載された、保険証書から免許証や年金証書、健康保険証など、民間の証書から公の証書まで、全てが改姓され、菅野理恵さんから田村理恵さんに変わります。
 一週間以内に全ての証書を書き換えたIDが現住所へ書留で郵送されます。一週間後までに届かない場合はまたおいでください。再請求します。新しいIDが届くまで現在のIDが有効です」

「ありがとう。助かります」
 省吾と理恵は係員に礼を述べた。
「離婚届を出して、これで先生と暮せると思ったけど、今度は本当に先生の奥さんだあ!」
 うれしさのあまり、理恵は省吾に抱きついた。
 離婚届を提出した時と同しように、長身で美人の理恵が素直にうれしさを表現する姿は人目を惹いた。休日出勤している戸籍係は、離婚届を提出した時と同じ女性で、理恵を憶えていて拍手した。他の職員も笑顔で拍手している。
 理恵を抱きしめる省吾は、しなやかな理恵の身体と熱さと理恵の香りを心地良く感じながら係員たちに会釈した。他人に見られるのは恥ずかしかったが、他人を気にせずにうれしさを表現する理恵に、この上ない喜びを感じた。


 市役所を出てSUVに乗りながら、理恵は額に手を翳した。曇りだが、なぜか空が眩しい。
「歯科衛生士は二人とも、S通りのD歯科クリニックの先のマンションに住んでたの」
 S通りへ出て右手のD歯科クリニックを通りすぎた。理恵は右手前方を指さした。
「ああっ、マンションが貸事務所になってる!」
 省吾は走行レーンから停止エリアへSUVを移動した。後続のヴィークルが徐行してSUVを避けてゆき、バックモニターに映る数台後方で、徐行した白のボックスヴィークルに黒の大型ワゴンが追突した。

「先生、後ろで事故だよ」
「危ないな・・・」
 ヴィークルは追突防止装置と進路誘導装置を装備している。制御解除しなければ事故は起こらない・・・。
 省吾が妙だと思っていると、ただちにN検警特捜局のPV(パトロールヴィークル)と黒の大型ワゴンヴィークルが現れた。事故を起こしたボックスヴィークルとワゴンヴィークルを停止エリアへ誘導し、新たに現れた黒の大型ワゴンヴィークルが、省吾のSUV後方に停止した。
『PVが対処した。新たな一台の警備ヴィークルが警備を続ける。気にしなくていいぞ』
 マリオンの声が省吾の意識に響いた。
 ボックスヴィークルに尾行されてた。黒の大型ワゴンは警備ヴィークルだ・・・。理恵はバックモニターを見てるが、二台のヴィークルに気づいてない・・・。

 理恵が示した建物は、二階がある四軒の賃貸マンションを、ぞれぞれ一階と二階の二つに分割して、八つの店舗や貸事務所に改装したようだった。どう想像しても改装前はマンションではなく、最初から店舗や事務所だったように省吾は思えた。
「初めて来た時、私も変だと思ったの。四軒とも、一階の入口と一階が全面ガラス張りで、ブラインドを下ろさないと、歩道と車道から中が丸見えなの。店舗をそのままマンションにしたみたいだった・・・」

「最近は、いつここに来た?」
「六月に、三木から、ヴィークルが壊れた、と連絡が来て、モールで買った物を運んだの」
「タクシーを呼べばいいのに」
「あっ、そっか・・・。何で私に頼んだんだろう。恋人だっているだろうに・・・」

「それは日曜だった?菅野は家に居なかったんじゃないの?」
「そうだよ。私は日曜で掃除と洗濯してた。
 菅野はいつも仕事で、休日に居た事なかった・・・」
「嫌な事を思いださせて、すまない」
「ううん、いいの。今は先生の奥さんだから。
 でも、どうして菅野が居ないとわかったの?」
 理恵は省吾を見つめた。
「その前に教えて欲しい。頼まれて荷物を運んだ後、変った事がなかった?」
「私がその翌週の水曜日に買った洋服を、木曜に、三木と神保が知ってた。
 最初は私が話したんだと思ったけど、後で、洋服を買ったのは誰にも話してないのに気づいたの。
 菅野が夫婦生活に淡白なのも知ってた。私も淡白だと思われてた。私は自分の事を話さなかったから、はっきり憶えてる・・・」

「七月に、俺に会った時は買い物だった?」
 六月初旬、省吾は、いずれ理恵を妻にしていっしょに暮したい、と日記に書いている。
 省吾の元妻は別れる機会を探していた。
「ううん、モールの書店に、私が探してる専門書があるよ、と神保に言われて出かけたの」
「おそらく、菅野の留守の日曜日に、三木が理恵をモールに誘いだして、神保が理恵のマンションに盗聴器をしかけたんだ。
 そして、俺が買い物に行くのを街宣ヴィークルで邪魔し、理恵のタイミングを計って、俺と理恵が出会うように仕向けた」

「出会わなかった方が良かった?」
 不安そうに理恵は省吾の眼を見ている。
 省吾は理恵を抱きよせた。
「出会えてよかった・・・」
 理恵の身体が熱い。香りも強い。
「出会わなかったらいっしょに暮せない。こうして抱きしめられない。一生後悔する」
「私も会えてよかったよ・・・」
 理恵は頬を省吾の胸に押しつけて呟いた。

「神保の住所は?」
「三木の隣」
「三木と神保は、私たちの敵なの?」
「味方だと思う。盗聴は疑問だけどね・・・。
 モールで俺たちを拉致しようとしたのが敵で、守ったのが味方だろうな」

「街宣ヴィークルの右翼は?」
 理恵が省吾の腕を解いた。省吾の顔を見ている。
「モールから逃げてきた時、街宣ヴィークルと白のボックスヴィークルが家を監視してた。俺たちを拉致しようとした仲間に思えるが、俺と理恵を出会わせたのは街宣ヴィークルと三木と神保だ。
 大政同志会の近藤と街宣ヴィークルと白のボックスヴィークルは同一組織だろうか?
 理恵はどう考える?」
「そうなると、誰が味方か、わからないね・・・」

「一度、家に帰ろう」
「パソコンが原因だから、パソコンの事を聞けないかな?」
「それなら戻ろう。永嶋さんの家はK区だ」
「日記は、永嶋さんに話さないでね」
「ああ、もちろんだ」
 省吾は永嶋に、理恵と二人で訪問したい、と連絡した。十一時を過ぎてる。
 永嶋は快く、二人の訪問を待っている、と言った。


 SUVを路地に乗りいれて方向を変え、S通りを戻りながら食料品店で食品と、永嶋家の三人分と省吾たちのランチを買った。

 永嶋家に着くと、永嶋夫妻は笑顔で省吾たちを招きいれた。
 省吾は、近くまで来たので寄った、と手土産を渡して理恵を紹介した。
「永嶋さんは、どうやってパソコンを手に入れて販売するんですか?
 知人は、俺が思っている以上に多いんですか?」
「おそらく、田村さんが考える以上に多いと思いますよ。
 今まで話しませんでしたが、若い頃に、色々ありまして・・・」
 かつて永嶋は、日本で最初の高速ヴィークル族と言われたグループのヘッドだった。
 ある事件の冤罪で逮捕され、拘置所でY市O区の右翼集団、八洲会の会長と知りあい、それ以来、「先生と崇められている」と言った。

「何の先生ですか?」
神乍(かむながら)、古神道を教えました。昔の話です・・・。
 八洲会の会長からパソコンを得たのは五年前です。彼が、会社のパソコンを新しい機種したいと言うので、それまで使っていたパソコンを引き取る条件で、導入した新機種をセットアップしました。
 引き取ったパソコンは、彼らに必要ない特注の高級機種でした。礼金を貰うより価値がありました・・・。
 デスクトップパソコンとタブレットパソコンを三十台引き取りました。
 私の所にデスクトップとタブレットがそれぞれ三台ずつで計六台、田村さんにデスクトップとタブレットが二台ずつの四台。他の二十台は知人たちに譲りました・・・」

 永嶋は言葉を選ぶように説明している。
「引き取ったパソコンを部品交換して、グレードアップして売るんです・・・」
 永嶋は小型の電磁波探知機を見せた。盗聴波や雑音波など全ての周波帯の電磁波をキャッチする特殊装置だ。パソコン内の干渉波を防ぐのに使っている。

『引き取ったパソコンの中に、ハードディスクの増設とフォルダ名パスワードで、通信が稼動する物があったの。話題を変えるよ』
 省吾は理恵の熱さと香りを感じた。永嶋は感じていないようだった。

 理恵は永嶋に尋ねた。
「知人ってどんな人たちですか?」
「音楽や工学の専門家、様々な人たちです。体制側ではありません。
 ああ、新体制になったんでしたね。旧体制側ではありませんよ」
 永嶋は笑った。
 その後、永嶋の知人の話を聞いて、省吾と理恵は永嶋の家を出た。
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