一 楼蘭の乙女ローラ㈠

文字数 4,713文字




 二〇五六年、五月八日、月曜。
 夕刻。
 帝都大学理学部古生物学科の講義が終り、帝都西地区居住区域の自宅に帰宅した講師の大隅宏治(旧姓田村宏治)は居間のソファーに座った。
「宏治。コーヒーをいれた・・・」
 義父の大隅悟郎教授はコーヒーが満たされたマグカップを二つテーブルに置いてソファーに座った。心なしか元気がない。
「どうした、父さん?」
 宏治はマグカップを取った。

「最近の移植臓器の培養研究に疑問がある・・・」
 教授はマグカップを持って立ち上がった。窓辺へ歩きながら説明する。
「人間が誕生するのは配偶子によって成されるべきだ。移植臓器の培養は、自己細胞や自己の幹細胞による物だけが許されるべきで、有機体組織を機械部品の如く作ってはならない。
 かつてアインシュタインが語ったように、我々科学者は、神が創りたもうたこの世界の事実を解明するに過ぎない。
 だが、無条件で臓器培養とクローンニングを肯定してきた者たちは、こうした科学者の倫理を持っていない。ヒトゲノムが解読され、人類に明るい未来が訪れると騒がれたのはほんの一時だった。社会は危惧された状況に直面した・・・。

 ヒトゲノムDNAが解読されて遺伝子が解読されると、解読結果はその後の為政者の管理手段に利用された。遺伝子に癌因子を持つだけで、発病していない健康な若者が働けなくなり結婚もできなくなった。健康ではないと判断される遺伝子を持つ者たちの結婚が、彼らの子孫を危惧する者たちを社会に蔓延らせたからだ。
 しかし、過去にも生物学的に健康体と判断された者に病気の因子はあった。人類が健康な身体に再生できる能力を持てば良いと考える学者も居るが、人類に再生能力が無いのは、発病の可能性がある遺伝因子を持っていても、発病前の若い身体が子孫を残せるからだ。

 現在まで、生物は環境に適応する種が残って、適応しない種は滅んできた。世代交代する生物が突然変異をくりかえした結果が今日の生物だ。適者生存は人類も例外ではない。再生能力と子孫を残す能力の二つから再生能力を犠牲にし、子孫を残す能力を得た結果が現在の人間なのだ・・・」
 教授は一息ついた。考えをまとめている。

「・・・話を戻そう。
 臓器移植は人道的立場から行われるべきだ。臓器移植を行っても臓器欠陥の遺伝因子は子孫に受け継がれる。その種の存続を延ばしはしない・・・。
 クローンニングは、個体だろうと組織だろうと、注入される初期化された核のゲノムが若返らない限り、創られる個体も組織もゲノムと同年齢になる。それによる弊害は実験で何度も示されてきた。

 過去、移植臓器の培養に卵細胞を使うのは、人になるべき細胞の抹殺で人道的に許されないと言われた。その一方で人は自分の都合で堕胎し、イデオロギーの相違から他民族を抹殺した。遺伝子組み換え穀物を創り、人体に有害な物はすぐさま廃棄し、人為的に多くの適者生存を行った。
 遺伝子操作は未来に起こるであろう突然変異の時期を早めているに過ぎない。進化と名づけた突然変異の過程はいずれ終焉を迎える。
 あえて人類がそれを早める必要はない。医学者も生物学者もその事を充分理解しているはずだ・・・・」
 教授はソファー座った。コーヒーを一口飲んでいる。

「そこまで理解されながら、なぜ研究が人道から反れるんだろう?」
 宏治は教授に訊いた。
「いつまでも健康で若くありたいと願う人間の欲望と、それによって利益を得ようとする供給のバランスだよ」
「ローラとの関係は?」
「我々人類の遺伝子が多様性を無くしているとすれば、大いに関係する・・・」
 教授は持っているコーヒーを見つめてしばらく考えてから話し続けた。

「宏治は、発掘時の映像のあの娘を見て、初恋の人に会ったように胸を締めつけられると言った。
 発掘当時、関係者のほとんどがあの娘を見て、宏治と同じに、胸を締めつけられたと言ったんだよ。皆、亡霊に魅入られたと冗談を言ったが、ミイラのあの娘は魅力的だった・・・」
 教授は、かつて、中国新疆文化庁ローラン発掘チームの一員だった。
 教授はコーヒーを置いた。盗聴を気にして小声になった。

「私も同じなんだ。あの娘の中で、何かが生きてる気がしてならない・・・。
 実は、アジア考古学会が、あの娘のゲノムDNAを分析し直した」
「結果は?」
「興味ある結果が出た・・・。あの娘の魅力と考えられる結果が・・・。
 DNA末端を比較した結果、テロメアが減少しているものと、初期状態のものがあった。二十二対の染色体のテロメアの多くが初期状態でX染色体は完全に初期状態だった。
 当初、ローラは少女と推定されていたが、減少しているテロメアから推定すると、ローラは三十代前半だ」

 宏治は驚いた。
「歳を取ってないのか?」
「初期状態のテロメアは胎児のままだそうだ」
 教授がうなずいている。
「老いないとでも?」
「減少してるテロメアもあるから、そうは言えない。局所的に老化していない、と言えるがね。
 それと、エクソンの塩基と配列が我々と異なり、未分化細胞が多量に認められる。単なる異常か、あるいは変異かは不明だ。
 変異なら、我々にはない遺伝機能があるはずだ」

「他にこれを知っているのは?」
「トーマスがアジア考古学会から依頼されて調べてた。結果がでたので、ただちに私にデータを送ってきた。知ってるのは、私と君とトーマスの三人だけだ」
 トーマス・バトンは、スウェーデンのストックホルム大学の分子生物学教授だ。

 宏治は遺伝情報が受け継がれていないか気になった。
「子孫が居る可能性は?」
「それはわからん」
 教授は冷めたコーヒーを口へ運んだ。

「これが他へ漏れる可能性は?」
 宏治は大隅教授を見つめた。
「無いね。トーマスはデータを研究所のコンピューターの一般化ファイルと暗号化ファイルに記録して解析している。
 一般化ファイルの三十代前半のローラは従来どおり彼らに送り、暗号化ファイルは暗号分割して衛星回線で私のパソコンに送ってきた」
「トーマスは我々しか信用しない・・・」
 宏治はそう呟いた。
「そうだ・・・」
 教授が頷いている。これで彼らの野望が少しは絶たれ、ると宏治は思った。

 宏治と大隅教授が勤務する古生物研究室は、帝都大学理学部古生物学科に所属し、帝都大学は帝都中央地区の行政区域に並ぶ学術研究区域にある。
 現在、法的に臓器移植として認められているのは、ドナーからレシピエントへの臓器移植と、レシピエント自身の幹細胞から培養された臓器の移植だけだが、どんな法律にも例外は存在する。
 帝都大学の医学者と生物学者の多くが、バイオテクノロジー向上のために、遺伝子操作とクローンニングによる移植臓器の培養、臓器移植目的の同一免疫型児の人為的出産などを無条件で肯定してきた。
 だが、彼らの中にも、過度のバイオテクノロジーを危惧する考えがあった。それは、
『種の遺伝子に多様性が無くなると、その種は絶滅する』
 という生物学の定説である。

「この事は、明日、僕からユリに話しておくよ」
 宏治の妻ユリは大隅教授の娘で、帝都大学付属病院に勤務する医師だ。今日は深夜勤務で自宅に居ない。
「そうしてくれると助かる」
 大隅教授は宏治に微笑んだ。


 翌日。五月九日、火曜。
 講義を終えた大隅教授と宏治は古生物研究室に居た。
 宏治は机の書類を整理している。
「父さん、もう一度、ローラを見てもいいか?」
「ああ、見たまえ」
 教授は論文の紙面から宏治へ視線を移して微笑んだ。
 宏治はコンピューター端末のディスプレイの前に座って、アジア古生物研究所のコンピューター専用通信回線を開いた。

 二十一世紀初頭、考古学者と古生物学者から成る中国新疆文化庁ローラン発掘チームは、砂漠に埋もれた廃墟の楼蘭から少女のミイラ、通称ローラを発掘した。
 その後。ローラは中国新疆文化庁ローラン発掘チームから、アジア連邦政府がある上海の、アジア連邦学術研究省学術局アジア考古学会の管理下に移されて、学術研究省研究局アジア古生物研究所の地下保存庫に保管されたまま現在に至っている。

 ディスプレイにガラスケースに覆われたローラが現れた。
 感情を湧き起こす雰囲気は発掘当時の映像の方が遥かに多い。今は身体から放出される何かをガラスケースが妨げている。それでもディスプレイを通して宏治の胸を締めつけるに充分な何かが伝わってくる。
 宏治はこの感覚に覚えがあった。初めてローラの映像を見た時、初恋の人に会ったような感覚がした、と教授に話したが、自分の記憶から消えていった大切な何かや、かつて自分の中にあって今は忘れている何かに、再び会った感覚なのだ。非常に大切で決して失くしてはならないのに、それが何かわからない・・・。

 お前に会いたい・・・。
 突然、思いが湧きあがった。
 何だ?僕が思ったのか?

「どうかしたかね?」
 宏治の変化に気づいて、教授は論文から顔を上げて宏治を見ている。
「ローラから感じるこの感覚は何だろう?」
 宏治はディスプレイを見たまま教授に答えた。
「人類が忘れかけている、民族や人種としての郷愁のような物かも知れないね」
 教授は論文の紙面に視線を戻した。

「一度、会いたいな・・・」
 ディスプレイを見たまま宏治は呟いた。
「近いうちに上海へ行くよ。ローラから感じるものを知りたいからね。
 見るだけだから何も収穫は無いかもしれないが、宏治も同行するかね?」
教授は論文を見たままだ。
「はい、ぜひ連れてってください」
 宏治は教授を見つめた。
「では、君も行けるように手配しておくよ」
 教授は論文から目を離さない。
「ありがとう、父さん。じゃあ、これで、先に帰るよ」
 宏治はコンピューターの専用通信回線を閉じて端末の電源を切った。

「ユリといっしょに帰るのか?」
 大隅教授が論文から顔を上げた。宏治を見ている
「もちろんだよ」
 宏治は笑顔で答えた。
「それは、いいね」
 教授も微笑んでいる。


 夕刻。
 大学近くの公園のバラ園で、宏治はユリを抱きしめた。このバラ園はバラの種類が多く、ほぼ一年中バラが咲いてる。夕暮れ時はいつもバラ目当ての恋人たちが多い。

「最近、学内にドナー募集人が増えた」
 宏治の口元でユリの髪が揺れた。宏治は、ユリの耳に唇を触れて囁いている。
 二人が恋人たちに紛れて話すのは、他人に聞かれてはまずいからだ。
「病院には来てないけど、若い人たちが集まる所に必ずドナー募集人が居るわ。
 ところで、話って何?」
 宏治の耳にユリが囁いた。

「連中に変化は?」
「研究所で組織培養してる組織の年齢は、体細胞の遺伝子年齢と同じそうよ」
「凍結幹細胞を使っても、凍結期間だけ発病が延びるだけだ。
 細胞初期化じゃなくて、遺伝子正常化が必要になるな・・・」
「それは不可能よ」
「トーマスがローラのゲノムDNAを再解読した。
 テロメアは初期段階のものと、三十代のものがあった。
 少女と思われてたが、三十代後半らしい。それと・・・」
 宏治は、トーマスが伝えた全てをユリに話した。

「それで、彼女に会いに行くの?」
「うん」
「魂、抜かれたらだめよ」
 顔を離して、ユリは笑顔で宏治を見つめた。
「あははっ、わかってるよ」
 宏治もユリを見つめかえした。
 その後、二人は取り留めない話をして帰路についた。
 帰る先は帝都西地区の居住区域、大隅教授の家である。
 大隅ユリは宏治の妻である。
 宏治の実の両親と姉、田村省吾と村理恵と田村耀子は、二十九年前、航空機墜落事故に巻きこまれて、行方不明になったまま発見されていない。大隅教授は宏治の父田村省吾の友人で宏治の養父であり、妻ユリの父だ。
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