二十二 愛妻

文字数 3,113文字

 翌朝、(二〇五六年、九月五日、火曜、朝)
 ラビシャンとネリーは、上海西地区、居住区域内にある保健省ビルへ行き、民生局へ婚姻届を提出した。
「IDカードを提出ください」
 二人はIDカードを提出した。女性係官はID情報を書き換えて、新たなIDカードを渡した。
「奥さんの妊娠の可能性は?」
 係官は事務的に質問した。
「あります」
 とラビシャンは係官に答えた。
「医療局にこの書類を提出して検査してください」
 係員の言葉に、一瞬、ネリーが緊張した。
「尿検査ですよ。心配なさらないで。陽性ならこの書類を提出してくださいね」
 係官はラビシャンに書類を渡しながらネリーを気遣って微笑んで、ラビシャンを見た。
「ありがとう」
 ネリーはラビシャンを見ている係官に微笑んだ。
「ここは三階。医療局は五階よ。すてきな旦那様ね」
 係官はうっとりした顔でラビシャンを見ている。
「どうも、ありがとう」
 ネリーとラビシャンは礼を言ってエレベーターホールヘ歩いた。

 五階の医療局で手続して尿検査すると係官が説明した。
「検査は疑陽性です。妊娠はまちがいありませんが、一ヶ月後にもう一度検査してください。その方が正確な結果が出ますから、登録はその時なさってください。
 一応記録しておきますよ」
「わかりました」
 ラビシャンとネリーは礼を述べて医療局を出た。
 一階ホールに下りて、ホールの端末から雑誌サイエンスの上海支社へ、ラビシャンとネリーの結婚を示すID情報とネリーの退職願を提出した。


 保健省ビルを出たラビシャンはネリーの腕を取って歩いた。
「ネリーを家族に会わせようと思う」
「私、心配なの。先生の家族に会うの初めてだから・・・」
 ネリーは不安な様子だ。
「いつもと同じにしていればいいよ。皆、気さくだから心配ないよ」
「何を話せばいいの?」
「特別に話す事は無いさ。話したくなったら話せばいい」
「話さないと変に思われる」
 ネリーは困惑している。

「心配ないよ。その時は私と話せばいいよ」
 ラビシャンはネリーの腕を優しく撫でた。
「ネリー・・・」
「何?」
「私に考えがあるんだ。子供の事はまだ話さないでくれないか?」
「サンドラね。ええ、いいわ。先生の思うとおりにするわ」
「ありがとう。でも、どうして私の考えがわかるんだ?」
「今朝から、先生が真剣に話そうとする事がわかるの」
「では、今、私が考えている事は何?」
 ラビシャンはネリーの腕を取った。
 ネリーの顔がぽっと赤く上気した。
「うれしいな。そうでしょ?」
「うん」
「早く、家に帰ろうね」
 ネリーはラビシャンの腕を抱きしめた。


午後。
 上海北地区郊外にあるラビシャンの家で、ネリーは広い窓の見晴らしの良い部屋に通された。この家はラビシャンが前妻を亡くして数年後に建てた家で、前妻の面影はない。その事はネリーに話してある。

「アンドレとサンドラとアダムだ」
「ネリーです」
 ラビシャンにアンドレ、サンドラ、アダムを紹介されて、ネリーは違和感なくうち解けた。三人はネリーの聡明さと陽気、魅力に感激した。

「私はネリーと、ネリーの家で暮らそうと思う」
 ネリーを気遣ってラビシャンは話し始めた。
 アンドレとサンドラは新婚の二人に同意したが、アダムは寂しそうな顔をしている。
「家族が増えたのに寂しいな・・・」
「同じ市内に居るんだ。それにネリーはサイエンスを退職する。家に居るから、いつでも会えるよ」
 ラビシャンは孫のアダムに微笑んだ。
 ここ上海北地区郊外から西地区居住区域にあるネリーの居住棟まで、公共交通機関で一時間もかからない。ネリーの勤務先、サイエンス上海支社は中央地区西地域にあり、ラビシャンのアジア古生物研究所は中央地区北区域にある。

「ほんとっ?」
 アダムが驚いている。
「本当よ」
 ネリーは笑顔でアダムを見ている。

 サンドラが言う。
「サイエンスの記者を辞めるなんて、もったいないわね」
 ネリーは笑顔で説明する。
「以前から菜食の研究をしてるんです。先生といっしょになったのを機会にまとめたいと思ってるんです」
「我が家も菜食が主なんだけど本物に思える肉はあるの?」とサンドラ。
「あるわ。植物の蛋白質を合成して肉の食感にしたのがあるの。味も肉そっくりだから、本物と区別できないわ。味覚が敏感なら、かすかに大豆の味が分るかも知れないけど、黙って出されたら気がつかない代物ね」
「自分で作るの?それとも商品?」
 アダムが訊いた。
「自分で作る場合は、グルテンを買ってきて・・・」
 サンドラとアダムは、ネリーの話に夢中だ。

「父さん・・・」
 アンドレがラビシャンを隣室に呼んだ。
「昨夜、ホイヘンス総裁が、父さんが帰ったら連絡して欲しいと言ってきた。
 僕をアジア連邦考古古生物学会の連邦会長と統合考古古生物学会の統合会長に推すと言って・・・」
 アンドレは、昨夜、ホイヘンスが語った内容を説明した。
「それは良かったじゃないか!さっそく連絡するよ」
  ラビシャンは自室へ行ったて、ホイヘンスに連絡した。

 ディスプレイにホイヘンスの映像が現れた。
「連絡をもらったそうだね」
 ラビシャンは平静を装った。
「一ヶ月ぶりだが、元気かい?」
「ああもちろんさ。君にならって若い妻ができたよ。名はネリーだ。今はサイエンスの記者をしてる。結婚を機に退職して菜食の論文を執筆するんだ」
 ラビシャンはホイヘンスがネリーの存在に気づいていると確信して、そう説明した。

「おめでとう。例の件は、うまくいったよ」
「何の事だったかな・・・」
 ラビシャンは忘れたふりをした。
「アンドレの学会長の件だ。昨夜、統合評議委員長に会うのを事前に君に話そうと思ったが、当人に話した方がいいと思ってね」
「ああ、アンドレから聞いたよ」
「昨夜、統合評議委員長に会って、アンドレをアジア連邦考古古生物学会の連邦会長と、統合考古古生物学会の統合会長に推すよう話しておいたよ。
 統合評議委員長もアンドレの会長就任に賛成している。統合評議会はアンドレを会長に内定するよ」

「ありがとう。アンドレも喜ぶよ」
「統合議会がアンドレを二つの学会の会長に任命すれば、ただちに、アジア連邦議会はアンドレを承認して、アンドレは学術研究省に召喚されて会長に就任するはずだ」
「いや、本当にありがとう」
「何かあれば、また、連絡するよ」
「アンドレの件は、ありがとう」

「それでは、また」
 ディスプレイからラビシャンの映像が消えた。
 ホイヘンスは、ディスプレイにセシルを呼び出した。
「セシル。ネリー・キムの退職は事実か?」
「事実です」
「二人の住居は?」
「彼女の住居です」
「監視システムは?」
「周辺にありますが、住居内はありません。内部はシールドされて監視は不可能です」
「サイエンスは監視しないのか?」
「ジャーナリズムの精神から自由にさせてます」
「わかった。ありがとう」
 セシルの映像が消えた。

 ホイヘンスは、アジア古生物研究所のコンピューターをオンラインにして、ローラの観察データーをディスプレイに表示した。
 映像がスローで現れた。宏治に向ってローラから青色の光が放たれた。大隅教授は宏治の近くで光を浴びているが、ラビシャンはケースから離れたローラの足元側に居る。光を浴びていない。

「やはり、勘違いか・・・」
 ラビシャンが若い妻を持ったのはローラの影響だと思ったが、これまでラビシャンの生体サンプルから何も出なかったのを思えば、私の思い過ごしだったようだ・・・。
 ホイヘンスはアジア古生物研究所とのコンピューターをオフラインにした。
 ホイヘンスは、ローラからエネルギー波が放たれた瞬間だけを確認して、ラビシャンが反射波を浴びたのに気づいていなかった。
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