十一 他時空間からここに来た

文字数 4,124文字

 二〇二七年、十二月六日、月曜。
 穏やかで暖かい日和だ。
 午前の授業が終わり、高分子物性棟から中央管理棟一階の学生部へ行った。すでに十数名の学生が廊下に並んでいる。しばらく並んで学生部に入った。
 学生部に化学工学系列高分子物性工学科の高畑事務官は来ていなかった。

「いらっしゃいませ」
 日頃は事務官が学生に対応するカウンターに茄子紺の制服を着た三人の女子銀行員がいる。背後に二人の警備員を従え、業務上の笑みを浮かべてあいさつしている。
 三人の銀行員に会釈してカウンターへ歩き、奨学金支払依頼書に氏名と奨学生番号、金額を記入して届出印を捺印し、カウンターの銀行員にわたした。
 銀行員は二枚複写の支払依頼書に支払期日を打印し、一部をファイルし、もう一部を、隣の奨学金支払手続きを管理判断するポニーテールの銀行員にわたした。

「田村さん!」
 支払依頼書の控えを受けとった銀行員が省吾を呼んだ。
「はい?」
 銀行員を見た。
「おそれいります・・・」
 銀行員の胸のネームプレートは中林早苗だった。
「本人確認のため、奨学生手帳を拝見させてください」
 笑顔を見せているが目に笑みはない。省吾が記憶している中林早苗ではなかった。
「あっ、すみません」
 ブレザーコートの内ポケットから奨学生手帳をだして中林にわたした。中林のネームプレートを見たまま、省吾は中林に関する記憶を探った。

 記憶にある中林早苗の担当はカウンター業務で、奨学金の担当ではない。理恵より背が低く、太っても痩せてもいなかった。美人といえないが可愛く愛嬌があった。表向きは業務的態度をとっても、視線を交すと奥二重の目をわずかに細めて目尻をさげ、口角をほんの少しあげてほほえむなど、親しい者に会う喜びを微妙な変化にして顔に表した。

 目の前にいる中林は可愛いを通り越して奇麗といえる。椅子に座る中林は、理恵より背は低いが、記憶にある中林より背が高く、細身と想像できる。二重まぶたで目は大きく、鼻筋が通って唇はやや厚い。ほほえまなくても口角がわずかにあがり、業務的笑みを貼りつけた顔で学生に対応している。学生は気づかないが、学生を見下した態度が見てとれた。やはり、記憶の中林とこの中林はちがう・・・。

「ありがとうございます」
 中林は表情を変えずに、奨学生手帳を受けとった。ほほえむような顔で省吾を見て、手帳の写真と省吾を確認して台帳をチェックした。
「お待ちください」
 もう一人の小太りの可愛い銀行員に、支払依頼書の控えと奨学生手帳をわたして、奨学金の支払いを目で促している。

「はい、田村さん」
 小太りの銀行員が、数枚の紙幣と支払依頼書の控えと奨学生手帳の入ったトレイをカウンターに置いた。
 この女はたしか木下真理子。中林の友人だ。木下は何か訴えるようなまなざしでほほえんでいる。
「ありがとう」
 省吾は笑顔で奨学生手帳と紙幣と支払依頼書の控えを受けとって、ブレザーの内ポケットにいれながら中林を見た。
「ありがとうございました」
 中林はこちらを見ておじぎし、そのまま次の業務に取りかかっている。

 以前、中林が
「上司から、業務中の顧客との私的対応を厳重に注意されてる」
 と話したのを記憶している。中林が省吾に何も意思表示しなかったのは単にそういうことかもしれない・・・。
 俺は何を考えてる?理恵がいるのに中林と親密になりたいか?それとも避けたいか?
 いやそういうことじゃない。中林がどうなってるか、事実を知りたいだけだ・・・。

 省吾は、知ろうとする省吾自身の本質に気づいた。妙な気持ちで中央管理棟一階の学生部をでた。


 高分子物性棟にもどって、駐輪場から自転車をだした。
 十二月初旬の穏やかな日だ。空を見あげた。雲ひとつない空を偵察艦が飛行している。
 偵察艦が一瞬に降下した。窓のない装甲壁を無造作に幾重も重ね合わせた外壁を持つ、ブルーグレーの巨大な円盤型になった。

 省吾は驚いて周囲を見た。誰もいない。
 もう一度、空を見る。その飛行体はまだ浮かんでいる。携帯を取りだして撮影しようとすると急上昇した。高高度に停滞している。
 過去にも赤青黄色に輝くアステロイド型の巨大な飛行体を見たことがある。あの時も、撮影しようとしたら急加速して視界から消えた・・・。遠可視能力じゃない・・・。

 時として人は、晴れた夜の満月が巨大に見えるように、大気中の比較対象がない物体を巨大物として認識する。脳の比較認識機能が記憶に頼り、正常に働かないためらしい。
 あらためて空を見る。雲一つない青空だ。ブルーグレーの偵察艦が高高度を浮遊している・・・。
 航空路線はここの上空を通っていないはずだ。円盤型の旅客機なんて聞いたことがない。誰が何をしてる?地上の情報収集だけか・・・。
 考えがまとまらぬまま、省吾は自転車に乗った。

 昨年末。
 省吾はアルバイトで、中林が勤務する銀行の駐車場整理をした。寒風吹きすさぶ曇天の寒い日で、身体の芯から冷えた。時々、庶務課長が様子を見にきて、
「駐車場が空いている時は、交通整理する必要はないから、様子を見ながら守衛所の石油ストーブで温まるように」
 といった。省吾は客がまばらになった時間帯を見はからって、冷えきった身体を温めるが、いったん冷えた身体はなかなか温まらない。


 あの時、中林は銀行内にいた。銀行員が交代でとる昼休みに、中林の同僚は外出したが、昼食持参の中林は外出しなかった。
 当時、俺は中林と友だちや知りあいでいたいが、それ以上になろうとは思っていなかった。中林と縁がなかったからだろう。もしかしたら、中林と親しくなりたいと思えば、もっと親しくなれたかもしれない。実際はそうではなかったから、出会う機会が少なく、中林は友人だった。親しくなりたいと思えば、何らかの連絡があるはずだ・・・。

 大学構内をでる前、省吾は自転車をとめた。ブレザーの内ポケットから支払依頼書の控えと紙幣と奨学生手帳をとりだした。奨学生手帳から薄黄の紙の端が見えた。
 やはり、そうだ・・・。
 手帳を開くと、小さな紙にメモが書かれていた。

「急な御結婚おめでとうございます。事情を高畑さんから聞きました。
 お兄様を他の人に奪われて、悔しいよ~、なんてね!嘘で~す。(でも、ほぼ、本当なのだ。うえーん(泣き声だよ))
 これからも、真理子と卓磨の良きお兄様でいてください。
 今度、奥さん(お姉さま)を紹介してください。彼(卓磨)と、お兄様たちの結婚のお祝いをしようと相談中です。(請うご期待)
 田村様              木下真理子」


 自宅でメモを見ながら理恵がいう。
「この人が親しい銀行の人?」
 肩から力が抜けた理恵の安堵感が食卓に漂い、しだいに自信に満ちた雰囲気に変った。
「ああ、そうだ。卓磨は機械工学科の四年だ」
 卓磨は伊藤卓磨、機械工学系列機械工学科四年だ。そして、木下真理子は中林早苗の同僚で、省吾や中林早苗や伊藤とともに出歩いた仲間だ。
 伊藤は中林に夢中で、木下に興味はなかったはずだ。俺と親しかった中林はどうなっているのだろう。記憶と現実が一致しない。うかつなことはいえない・・・。

「本当に親しいだけなんだ・・・。
 でも、お兄様なんて、この娘、あなたに憧れてるよ。卓磨がかわいそう・・・」
 理恵はメモを見ながら野菜サラダを食べている。
「そうでもない。伊藤は木下に夢中だ。気持ちは充分、木下に伝わってる」
 省吾は、中林に対する伊藤の気持ちを思いだしながら、鮭の切り身がのった大皿を省吾の前にひいて、理惠が食べやすいように身をほぐし理恵の前にもどした。

「ありがとう。食べやすい。うれしいな」
 理恵は鮭を食べながら。
「大学病院に勤務してる人とは会わないの?」
 省吾を見ている。
「もう二年以上会ってない。これからも会わないだろう」
 省吾は鮭に箸を伸ばし、記憶している小田京子を説明する。


 小田京子がM大医学部看護学科の三年、省吾が工学部の教養課程一年の時だった。
 地元のMオーケストラのコンサートで、横顔の奇麗な小田京子は人目を惹いた。正面から見ると少々丸顔で小太り気味の中肉中背、健康そのもので奇麗だった。
 当時、学生寮に住んでいた省吾は、学生寮の二年生から、小田京子を紹介された。

 その後、小田京子の失恋の相談にのったのがきっかけで、友人以上で恋人になりきれない付き合いがはじまった。こまった時は、どこにいても連絡しあう不思議な関係だった。

 工学部三年になる前の春休みだった。
 小田京子はM大医学部付属病院に勤務が決っていた。小田京子が卒業して大学の女子寮からアパートへ引越す時、看護学科の同期の友人が引越しの手伝いに来るというので、省吾は手伝いに行かなかった。そのことを小田京子は母親に話したら、母親から、引越しの手伝いに来ないような相手とつきあっているのかとなじられた、と省吾に話した。
 小田京子は省吾とのつきあいを恋愛対象としてすべて母親に話していたらしかったが、省吾に意思表示はなかった。
 以来、省吾と小田京子は連絡をとっていない。

 その後、工学部の学友近藤亮の姉、医学部事務官の近藤恵美子から、省吾が修士課程へ進学したのは伝わったはずだが、小田京子から連絡はなかった。


「なんだか、寂しいね」
 理恵が鮭の切り身から小骨を除けた。
「寂しいね」
 省吾は当時を思いだしてそういった。
「友だちづきあいはしないの?」
 理恵が省吾を見た。
「会えば、相手が、今まで以上の関係を期待すると思う」
 省吾は鮭の身を口へ運ぶ。

「いつも私がいっしょにいたい人はあなただけだよ。
 だから、省ちゃんをその人に会わせたくないのが本音だよ」
 理恵が箸で鮭をつっついた。
「あなたは私だけのあなた・・・。過去も未来も」
 鮭の切り身を見たまま、理惠はほほえんでいる。

「うん、わかってる」
 やはり、理恵は他時空間からここに来た。俺も理恵を探してここにきた。その理由は何だろう?
 今の俺は、周囲に変化がないか観察するくらいしかできない。思いきって理恵に話してみるのも手かもしれない・・・。
 いや、もう少し様子を見よう。あわてても現状に変化はないはずだ・・・。
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