三 はじめてのキスはマーマレード

文字数 5,883文字

 二〇二七年、十一月二十日、土曜。
 マフラーを巻いた耀子を抱いて紅葉を見ている。耀子の身体が柔らかで暖かく気持ちがいい。耀子の体温が高いためだ。柔らかな髪から耀子の匂いがする。髪が首筋に巻きつき、髪の匂いが子どもの耀子から大人の耀子に変った。耀子は大きくなった・・・・。

 目が覚めた。腹と胸に女の背が密着している。首に髪が巻きつき、女の髪に顔を埋めたまま、省吾は背後から女を抱きしめて寝ていた。
 明け方、寒かったのか、女が懐に入りこんで抱きつき、腕枕して眠った。そのあと、女は寝返りをうって省吾の腹と胸に背を密着させ、省吾の左腕を枕にして省吾の右腕を女の腰に絡むように引いて眠った。
 これが、女の結論か・・・。
 省吾は抱いている柔らかな身体と匂いで完全に目ざめたが、そのままの姿勢で寝ていた。 女とどこかで、こうしていた気がする・・・。

 省吾が目ざめたのに気づいて、声がする。
「まだ、眠ってていい?」
 七時前だ。
「ああ、いいよ」
 休日の起床はいつも十時近い。あわてなくていい。腕の中に女がいて、いつもと勝手がちがうが、なんとかもう一度、眠ろう・・・。
 女の身体を仰向けにして、省吾も仰向けになった。
「寒くないか?」
「寒くない。暑いくらいだよ」
 女が抱きついてきた。
「私の背に手をまわして抱きしめて」
「これが結論?」
 女の背に手をまわして抱きしめた。
「うん」
 女はまた眠った。


 十時すぎ。、起床。トイレと洗面をすませた。快晴で風もなく部屋は暖かだ。湯を沸かしてコーヒーをいれる間にパン四枚をトーストし、バターとマーマレードを塗った。二つのカップにコーヒーと牛乳と砂糖をスプーン二杯を入れてミルクコーヒーを作り、。トレイに乗せて枕元へ運び
「コーヒーがはいったよ」
 女に声をかけた。どこかで何度もくりかえした朝だ・・・。

 女が省吾の布団の中から顔をだした。
「久しぶりに良く眠ったぁ~」
 伸びをして眠そうな顔を上げている。
 女は布団からでてトイレをすませ、ふたたび布団に潜りこんだ。布団の中から顔をだしてうつぶせになり、枕を胸の下に引きよせ、
「バスタオルを敷いていい?」
 枕元にトーストが飛び散るのを気にしている。

 省吾が、使わなかった女の布団を女の背後に引いて、女が寝転んだまま寄りかかれるようにした瞬間、記憶が現れた。

 朝、妻の枕元へトーストとコーヒーを運ぶ。
 娘が、
「お母さんみたいに、お布団の中で食べたい」
 という。
「お母さんは疲れてるからだよ」
 言い訳して納得させる。
 あの説明はまちがってた。体験させるべきだった。うつ伏せのまま食事するのが、いかに大変かわかるが、娘も妻も亡くなった。今はいない・・・。
 この記憶は体験か?それとも、映像や文章の記憶か?


「こういう食べ方は疲れた時だけだ・・・。、毎日はだめだ・・・」
 母親がこんなことをしたら娘が真似する・・・。
 枕元の布団にバスタオルを敷いてトレイを置き、枕元に座布団を置いて省吾はそこに座った。

「うん、それなら、愛しあった翌朝だね」
 女はさりげなく話してミルクコーヒーに手を伸ばし、
「今日、ここの大家さんへ、あいさつに行っていい?」
 ミルクコーヒーを飲んでいる。
「昨夜、出会って、愛しあいましたって?」
 省吾は冗談めかしていい、ミルクコーヒーを飲んだ。女が何をしたいかわかっている。

 女がぷっと頬を膨らませた。
「今日から同居しますってあいさつするのっ」
 ミルクコーヒーを飲む女の目は笑っている。
「それなら、俺が、婚約者だと紹介する」
 そうなれば、あとへ引けなくなる気がする・・・。
「昨夜はそのつもりで兄に話してもらうはずだったの。今日、兄に連絡する。
 親たちも納得してるんだから」
「うん・・・」
 省吾は、記憶に存在する、三十代の理恵を思いだそうとして話を聞き逃した。

「あなた、食べないの?
 ねえ、なんて呼んだらいい?決めようか?省吾でいい?小さい時は省ちゃんだったから、それでいいよね?」
 自分のトーストを食べ終えて、理恵が省吾のトーストに手を伸ばした。

 省吾は、軽く理恵の手の甲を叩いた。
「痛いな。食べないなら、食べていいでしょう?」
 理恵がまじまじと省吾を見ている。
「さっき、何ていった?」
「何のこと?」
 理恵は三枚目のトーストを取った。
「兄に話してもらうはずだった、っていうのは何?」
 昨夜、会った時から、俺は理恵に、田村と自己紹介しただけだ。なぜ、俺の名前を知ってるのだろう・・・。

「正式に交際するってこと。兄の紹介で、二週間前の日曜に喫茶店で会って、先週は二人だけで会って、正式に交際しよう決めて、今日も会うはずだったでしょ・・・。
 頭、打って、記憶がはっきりしないから、まっ、しかたないよね」
 理恵は髪をよけながらトーストを口へ運んでいる。

「俺の両親も納得してたって何だ?」

「私のお父さんとあなたのお母さんが再従姉弟だってこと」
 理恵はトーストをかじりながら、驚いている省吾を見つめた。
「頭を打って忘れたんだね。兄に親友の後輩を紹介してもらったら、あなただったの・・・。ここからは、あなたに話してないよ・・・。
 以前、兄が実家に帰ってきた時、私もいて、あなたのことが話にでて、田村省吾の苗字に父が気づいたの。あなたのお母さんに連絡して、あなただとわかった。あなたの両親からは、二人とも小さい時に会っただけで、たがいに忘れてるだろうから、おつきあいは本人同士が良いならまかせるといわれたの」
 と話しつづけている。

 省吾は理恵の説明を何も記憶していなかった。実家はどこだろう?

「だから大家さんに、同居しますってあいさつして、ここに電話をひかせてもらう。
 それからM市の私とあなたの親たちに連絡して、こっちのあなたの関係者にあいさつして、私は会社に連絡して、ここを営業の事務所にするの。
 会社には、見合いする、と話してあるんだぁ」
 理恵はまくしたて、
「ねっ、そうしていいよね?」
 四枚目のトーストをくわえたまま省吾を見ている。

 ここまで筋書きが整っているとは知らなかった・・・。過去の俺は理恵に何度も会っている・・・。
「親たちが納得してて、知らなかったのは俺だけか・・・」
 たしか、俺の実家はN市、母の再従弟の姓は吉井、娘の名は史恵のはずだ・・・。記憶と現実が一致しない。研究室の床で頭を打ったせいか?うかつなことはいえない・・・。
 省吾はゆっくり理恵に手を伸ばした。

 理恵は、くわえたトーストを手に取った。
「そんなことない。私が知ってるのは・・・、三歳の時のあなただから」

「だけど、もう知ったんだ」
 省吾は腰を浮かせて理恵の手首をつかんだ。

「ああっっ、だめっ・・・、だめっ」
 理恵が逃れようとして、仰向けになった。

 省吾は膝立ちになって、もう片方の手首もつかんだ。理恵の顔が目の前に迫る。

「手をだしたら、だめっ。いきなりはだめっ。まだ、この身体は経験ないんだから、まだ、トースト食べてないから、だめっ。シャワーも浴びてないのっ」
 理恵は妙なことを口走っている。この身体は経験ないって、どういうことだ・・・。

「俺のトーストだ・・・」
 省吾は理恵が持っているトーストをかじった。ついでに、理恵の唇のまわりについてるマーマレードを指で拭って舐めた。
「ふ~ん、襲われると思ったのか?たがいの親が認めてる相手だから、何とかなるだろう、と俺が考えてると思ったんだな・・・。マーマレードを垂らすなよ」
 理恵の口のまわりを見ながら、省吾は理恵を起こして立ちあがった。炬燵のティッシュペーパーを箱ごと取って、呆然としている理恵に渡し、理恵が持ったままのトーストを、もう一度かじった。
「もう少しパンを焼く。何枚食べる?」
 理恵の顔をのぞきこんだ。

 理恵の顔がしだいに上気して赤くなった。
「わかんない・・・。二枚かな」
 のぼせたようにぼうっとしている。すでにトーストを三枚食べたのも忘れているようだ。

「口のまわりを拭いて・・・」
 理恵が持っているトーストを取りあげて皿に置き、唇のまわりをティッシュで拭いてやった。ついでに、両頬に手を当ててこっちをむかせ、マーマーレードが付いている上唇と下唇を交互に舐めた。
「・・・」
 理恵の唇からトーストの香ばしい匂いとマーマーレードとバターの味と匂い、そして、布団の中で嗅いだ理恵の匂いがする。懐かしい匂いだ。誰だったろう・・・。

 理恵から離れると、理恵は目を見開いている。もう一度、顔を引きよせて上下の唇を舐めると、理恵が省吾の首に手をまわして引きよせた。
「待って、パンを焼く・・・」

 理恵は何もいわずに、省吾の下唇に上下の唇を擦りつけて、唇を舐めた。
「もっと・・・、なんだか、いい気持ち・・・。キスって、こんななんだ・・・。もっと・・・。初めてだったんだぞ、私・・・・。初めては、マーマレードの味」
 理恵は省吾の首に腕を絡めて放さない。唇を離すと、省吾の唇を見ている。

「俺も初めてだ・・・。パンを焼く。もう手はださないよ」
 省吾は理恵の目を見た。
 確かにこの世界では初めてだ・・・。この世界ってことは・・・。

「いいよ、キスは・・・。何度でもいいよ」
 理恵は省吾の目と唇を交互に見ている。
「だんだんエスカレートするぞ」
「そうなったらそうなった時だよ。婚約したんだから」
 理恵は省吾の唇を見つめている。

「さっきは拒否したくせに。婚約は同居の口実だろう」
 省吾は理恵の目を見つめた。
「私の同居は婚約だよ・・・。初めてのキスだったんだぞ。こんなにいいものと思ってなかった」
 理恵は省吾の唇を見つめたままだ。
「相手が俺だからだ」
 省吾は理恵の髪を撫でた。茶に近い柔らかい髪の手触りが懐かしい・・・。

「ばか・・・」
 理恵は省吾の首に絡めている腕に力を入れて引きよせた。
「マーマレードのせいだ」
「それなら、今度は、イチゴジャムのトーストにする」
「イチゴもいいかもね」
 理恵が上唇にキスした。

「むっ・・・、だっ・・・から・・・、腕を・・・放せ」
 理恵の両頬に両手を触れて、唇を離した。
「パンを焼いてコーヒーをいれる。今日は忙しくなるぞ」
 そういったとたん、大家にあいさつして、それからM市の両親に連絡して、こっちの知りあいにあいさつして、会社に連絡して、ここを仮営業務所にする、と理恵の思いが伝わってきた。もう後へ退けない。訂正も修正も不可だ。理恵のしたいようにさせよう・・・。

「そうだった!早くパンを焼いてコーヒーをいれてね!私、布団をかたづける。
 ああ、ちょっと待って・・・。よいしょっと・・・」
 理恵は、立ちあがろうとする省吾に抱きついて、首にぶら下がるようにして顔を引きよせ、省吾の唇にキスした。
「イチゴジャムもしたい。いいでしょう?」
 じっと省吾の目を見ている。
「ああ、いいよ」
 省吾は理恵の腰に手をまわした。と同時に、三歳の理恵の尻を思いだした。これは理恵自身の記憶だ・・・。

「興奮してるぞ」
 理恵が下腹部を、興奮している省吾の下腹部に擦りつけた。
「理恵のせいだ!」
 理恵のちょっと後ろに突きでた尻を撫でて、省吾は身体を密着させてキスした。

「手をだしたのは省吾だぞっ」
 唇を離して、意地悪するように、理恵は下腹部を省吾に密着させ
「お尻フリフリ~」
 左右に擦っておどけている。三歳の理恵のままだ。双方の両親が認めたとあって、完全に省吾を信じきっている。

「理恵がかわいいからだ・・・。パンを焼く」
 理恵から身体を離した。昨夜、省吾が理恵を家に誘う前から、理恵は紙の手提げ袋に手土産持参で、省吾の家に宿泊するつもりだったらしい。それも、ずっと以前からそうなることを知っていたらしい・・・。
「私の何が好き?私が納得したらいいよ」
 女は省吾が何を言うか気にしながらトーストを食べている。

「すべてかわいい。女ぶらないのがいい。はっきりものをいうところがいい。さりげない気配りができるのも好きだ。営業の時とちがって朗らかな感じがする。身体も好きだ。いっしょに寝てて感じた」
 省吾は感じたままを話した。

 女は省吾より頭一つ背が低い。
 腰のくびれがはっきりしているため尻が大きく見えるが、実際は横に大きくなく、後ろに突きでた感じだ。肩が小さいため見た目より小柄な感じでかわいい。布団の中で抱きしめた身体は全身が柔らかい。小顔の大きな目が優しく、ほほえむような唇はちょっと厚く、幼子の面影がある。最初に感じた投げやりな印象はなく、明るく朗らかな性格のようだ・・・。俺はこの女を知っていた・・・。いや、この女じゃない。女の未来・・・、三十代か・・・。そんな馬鹿な。未来を知っていたなんて、あり得ない・・・。

「そうか・・・。だけど、胸は小さいぞ」
 女は省吾を見ずに、二枚目のトーストを取った。
「その分、腰のくびれが尻を形良く見せて大きく感じる。俺は好きだ」
 女は省吾を見ずに頬にかかった髪をよけて、トーストを食べながらいう。
「でっ尻ずきか・・・。物好きだな・・・。鼻がちょっと上をむいてて、いやなんだ」
「鼻筋が通ってて、俺は好きだ。特にこのラインが」
 省吾は女の顔に手を伸ばした。自分でも驚くほど手慣れている。誰に対してもこうなのか、それとも、この女にだけか・・・。

 ピクッと身構える女を無視し、女の鼻から唇にかけてなぞった。
「多くの人は、このラインが鼻の下で、魔女のように鋭角になるけど、あんたは綺麗なカーブだ。横からも前からも綺麗だ。雰囲気はルノワールの肖像画、イレーヌ・カーン・ダンヴェールだが、あんたの方がかわいいよ」

「あんたじゃない。私は理恵でしょう。理恵と呼んで」
 そういいながら、唇のまわりにマーマレードがついたのも気にせず、トーストを食べている。
「わかりました」
 省吾は理恵を見ながら、また一口ミルクコーヒーを飲んだ。

「イレーヌってルノワールの、巻き毛をポニーテールにした感じの娘?」
 理恵が省吾を見た。
「そうだ」
「私の方がかわいいならいいよ。大家に私を紹介したら、婚約のこと、私が説明するから、話を合せてね。ほんとは、私もそうするつもりだった。あなたを好きだから、本当にあなたの婚約者になるよ」

 好きと愛はちがう、好き嫌いはその場の状況で変化するが、愛はその場の環境とそこに存在する全てを育む、普遍的励起力だ。基本的に対象を育む領域内に特定の対象がいて、倫理にかなわぬ行動を諌めはするが、その対象を嫌うことはありえない。それがわからぬ者は、行動を嫌うと同時に、その対象まで否定して嫌う・・・。
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