二 明日、話します

文字数 8,700文字

 二〇二七年、十一月二十日、土曜、一時(午前一時)。

 帝都大学工学部の敷地ぞいに旧国道を南へもどり、旧国道から東へ市道を歩いてS川の支流R川の橋を渡った。対岸の県道を北へ数分歩いて家に着いた。敷地内の全棟がすでに寝静まっている。

 玄関のドアを開けると台所だ。
「入って・・・。あのドアの奥が風呂だ。洗面所はドアの向うの左」
 省吾はつきあたりのドアを示した。
「洗面所の右手がトイレになってる。ここの右が居間兼寝室・・・。
 まず最初に、手洗いと嗽をしてほしい。風予防だ。いつもしてるんだ。洗面も」
 省吾と女は上着を脱いで、つきあたりのドア横の小テーブルに置いた。省吾は洗面所に女を案内し、棚にある新しいフェイスタオルを渡した。

「ありがとう、使ったらここに置くね」
 女が空いているタオル掛けを示した。聞きおぼえある言い方だ。
「ああ、いいよ」

 女が手洗いと嗽をすませた。
 いれかわりに省吾も手洗いと嗽をした。

 居間に行き、電気ストーブと炬燵のスイッチを入れた。北側の壁の中央に机があり、両脇にスピーカーボックスを組みこんだ本棚がある。省吾は女のスーツの上着と省吾のブレザーを炬燵の上に置いて、
「姉のジャージがある。着換えるといい」
 居間のクローゼットから、姉が置いていったジャージをだした。
「洋服はここに」
 ハンガーをクローゼットの前のハンガー掛けにかけた。
「着換えたら、化粧を落として洗面するといい」
 省吾は化粧について知識はない。何気ない言葉が不思議だ。
「はい。わかりました」
 女はアタッシュケースから小さなバッグを取りだした。

 省吾は浴室へ行き、湯のコックを開いてバスタブに湯を流し、また、洗面所の棚から新しいフェイスタオルを取ってもどった。
「使ったら、洗面所に置いてくれ」
 ジャージに着換えた女に渡した。

「ありがとう・・・。洗面所を使うね」
 女が洗面所へ入った。
 女のスーツと省吾のブレザーはハンガーを通されて、クローゼットの前のハンガーかけにかけてあった。この気づかいも憶えがある。誰だろう・・・。
 省吾は室内着のジーンズとセーターに着換えて、ズボンとタートルのセーターをハンガーにかけた。

 台所から女に、洗面所からでたら炬燵に入るよう声をかけて、居間の炬燵の天板を濡れ布巾で拭き、台所にもどった。手鍋に水を入れてクッキングヒーターにのせて、
「インスタントラーメン、食べるか?長ネギとモヤシと半熟玉子入りのを?」
 と聞いた。
「食べる。インスタントは好きだよ」
「よかった・・・。食べてる間に、風呂に湯が溜る・・・。ウイスキーを飲むか?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、用意しておく・・・」

 できあがったラーメンを丼に入れて、グラス二個とウイスキーを用意し、女が洗面所をでて炬燵に座ると、炬燵の上にそれらを置いた。
「熱いうちに食べて・・・。上着、かたづけてくれて、ありがとう」
「ううん、いいの。あなたは食べないの?」
 女が省吾を見つめた。

 大学で見たより綺麗な大きな目だ。寒い戸外を歩いたためか頬が赤く、顔がひきしまって小さくなったようだ。かわいい・・・。やはり、このまなざしに憶えがある。
「夕飯は家庭教師先ですませた。あとは、これだけ」
 省吾は二つのグラスに半分ほどのウイスキーの水割りを作って女の前へ置き、一つをとって飲みながらいった。
「食べたら風呂に入るといい。冷えた身体をゆっくり暖めるんだ。風呂は中から鍵はかからない。のぞかないから心配するな」
「わかった。いただきます」
 女が箸を取った。スープをすすっている。

「風呂で寝ないでくれよ」
「だいじょうぶ、寝ないよ」
 女は熱いラーメンをふうふう吹きながら食べて、ウイスキーをちびちび飲んでいる。女の食べ方に憶えがある。誰だったか思いだせない・・・。

 炬燵から立った。浴室へ行きバスタブの湯を止めてもどり、クローゼットから女物のパジャマとカーディガン、トレーナー、Tシャツ、包装を開いていない下着をだした。すべて姉が置いていった物だ。
「よかったら、これを使ってくれ」
 炬燵の横に置いた。

「元カノの?」
 女が箸を止めた。いぶかしそうに下着を見ている。
「昔も今も、彼女はいない」
 だが、親しい女友達は多いと思った。
「姉のだ。三年前、訪ねてきた。布団と衣類を置いてった。ここに来たのは・・・」

 たしか三年前の秋だった。連絡なしに姉が訪ねてきた。布団と衣類と何組か下着を買ってきて一晩泊り、また来る、何かあったら使ってくれ、と布団と衣類と使わなかった下着を置いていった。姉は離婚後一年が過ぎた頃で、何をしたら良いか考えていたらしかった。その後、姉は再婚し、今は一児の母だ。
 姉の夫、義兄は最近しきりに義兄の従妹を俺と見合いさせようとしている。そして、修士課程終了後、土木建築工学科へ編入学し、卒業後は義兄が経営する土木会社で技師をするよう勧めてくる。
 義兄が敷いたレールを進んでみたい気もするが、俺は無視している。編入学後の学費と生活費を負担すると話す義兄に借りを作りたくないし、義兄と義兄の従妹の関係に囚われたくない。義兄がそう思わなくても・・・。姉と義兄について記憶がはっきりしない。義兄との話が蒸し返す気がするから、確かめようとは思わない・・・。
 省吾は女に姉のことと、義兄が義兄の従妹と省吾を見合いさせようしていることだけを話した。

「ごちそうさま」
 女はラーメンを食べ終えた。ウイスキーを飲みながら、
「で、従妹に会ったの?」
 憶えあるまなざしで、省吾を見ている。
「姉の家に遊びに行った時、一度だけ顔を見た」
 省吾は空いた丼と箸を持って炬燵を立った。
 女はまだ何か食べたそうだった。

「もう少し何か作ろうか?飯があるから、レトルトのカレーを食べないか?」
 女の顔を見ながら返事を待った。
「もう少し食べたいけど、一人分は無理。あなたが半分食べてくれるなら食べたいな・・・。で、従妹の印象は?」
 女はのぞきこむように、省吾の目を見ている。
 やはり、このまなざしに憶えがある・・・。誰だったか思いだせない・・・。
「綺麗な人だった。それしか印象に残ってない」
「そうなの・・・」
 女は安堵の表情を浮かべている。
「俺もカレーを半分食べる。温めるまでウイスキーを飲んでてくれ」
 丼と箸を持って台所へ行った。


 温めた一人分のレトルトカレーを二つの皿に分けて炬燵に置いた。
「さっきの話、聞いていい?歩いてる時の話」
 女はスプーンで皿のカレーとご飯をつつくように混ぜて口へ運んだ。
「ああ、いいよ」
 省吾はスプーンのカレーを口に入れた。

「確かめたいことって何?」
 女はスプーンを動かしてカレーを見ている。
「何かを探してたんだ・・・」
 省吾はウイスキーを口に含み、カレーを飲みこんだ。
「ソファーベッドから落ちて床に頭を打った、と話しただろう。記憶がはっきりしないんだ。俺自身のこともわからない・・・。何を探してたかも、将来、何をしたかったかもわからない・・・」
「記憶を取りもどすってこと?」
 女が不思議そうに省吾を見ている。

「記憶がもどらなければ、何をしたいか、いろいろ考えて、探さなければならない・・・。
 日本の経済成長は続かないと思う。今のように産業のグローバル化がもっと進めば。不景気な時代がくる・・・。
 過去に、この地域を代表する日本の繊維産業がアメリカの繊維産業を潰したように、日本産業の市場はかつて発展途上国だった中国などに奪われてる。いずれ日本の経済成長は停滞し、新たな産業構造が成立するまで停滞する。ヨーロッパやアメリカが経験したことをこれからの日本が経験する。
 今後も現在のような、産業のグローバル化をより早く判断して対処した企業が生き残るだろうが、人件費だけを追って企業が海外進出しても、その場かぎりでしかない。長期的に見れば、技術を国外へ持ちだした結果、国外にライバル企業を作った現在のような状況になるだけだ。それと技術進歩だ。
 商品の小型軽量化が進んでる。パソコンはもっと小型化されるだろう。携帯にパソコンの機能全てが搭載される時代だ。外国語会話の翻訳ソフトも搭載されつつある。そうなれば会話の勉強は必要なくなるし通訳も必要なくなる。
 ああ、あんたの仕事をけなしてるんじゃないんだ。そうなるのは何年か先かもしれないがそういう時代は来る。かつての中国のように発展途上国が次々に発展すれば、同様な状況がくりかえされる。そのような状況で何をするかが重要だと思う」
 省吾は話しながらカレーを食べて、ウイスキーを飲んだ。これはモーザのパソコンに記録しておこう。経済変化のコメントは役に立つはずだ・・・。

「私の仕事が無駄になるの?」
 女はスプーンを止めた。不安そうに省吾を見ている。
「無駄じゃない。翻訳ソフトは今の話じゃない。だけど英会話機器を買っても、一人で学習できない人が多い。携帯やパソコンの会話学習アプリを使わなくても、テレビやラジオで英会話番組を放送してる。一人で学習できるなら、それらを使ってるはずだ。放送時間帯が合わないなんて、学習しない口実だ。英会話放送のCDも売ってる。今では珍しくなったが、ラジオ英会話を録音して学習し、通訳してる人もいる」
「山岸さんね。兄から聞いてる」
 女はスプーンを動かした。省吾の話をもっともだと理解しているが、自分の仕事をけなされたと思ったらしい。いらついたようにカレーを食べて、ウイスキーを飲んでいる。

「人が学ぶ場合、人の感情を受けとりながら学ぶ・・・」
 省吾は女のグラスにウイスキーを注いだ。
「赤ちゃんが教育用のテレビ番組より、母親の言葉と表情からから多くの言葉を学ぶのはそのためだ。同様なことが、一人で英会話学習をできない人にもいえる。
 英会話の教材機器を販売するんじゃなくて、あんたが会話を教えたらいい。あんたが英会話できないなら、英語を話せるアルバイトを雇うんだ。大学に留学生がいる。彼らは、たいてい、母国語と英語と日本語を話せる・・・」

 女が妙な顔をした。

「すまない。俺のことを聞かれてたのに話がそれた」
 俺が女の立場ならどうするか、余計なことを話してしまった。案外、何気なく話したこの事が、俺のする事かもしれない・・・・。
 省吾は内心、苦笑いしながら、口へ入れたカレーをウイスキーで喉に流しこんだ。
「人生の夢と能力の違いは理解してるが、俺の夢が何で、どんな能力があるかわからないんだ・・・」

「まだ記憶がもどらないんだね・・・。どこを打ったの?頭、見せて」
 女はスプーンを置いた。省吾の背後にまわり、後頭部に手を触れて髪の毛を分けている。
「打った様子はないよ。痛みはある?吐き気とか首や腕や身体の痺れと麻痺はないの?」
 女の手が後頭部から首筋、肩をマッサージするように移動した。
 首筋と後頭部から鈍い感覚が消えていった。ヒーリングだ。気持ちがいい。誰かからこのようにされた記憶がある・・・。誰だろう・・・。
「吐き気も痺れも麻痺もないよ・・・。頭がすっきりしてきた」

「肩と首のこりがひどいよ。頭を打った時、体勢が悪かったんだね」
「ありがとう。冷めないうちに、カレーを食べて・・・。
 組織の中で働きたいと思わないんだ。組織の中で働けない性格じゃない。組織の中で、誰よりもうまく働く自信はあるけど、組織のために、他人の下で他人の意思に従って働くのは性に合わない・・・。
 工業試験所を受験しようと思う・・・。早く記憶をとりもどさなければならない。だから、あんたのことを知りたい。気になるんだ」
「私とあなたは・・・。記憶が・・・、まあ、いいか。
 カレー、食べないと冷めちゃうね!」
「ああ、食べよう」
 省吾と女はカレーを食べた。

「歯ブラシとタオルをだしておく」
 カレーを食べた終えて、ウイスキーのグラスを炬燵に置いたまま、空いたカレーの皿を台所へ運び、浴室へ行って湯加減をみた。
 洗面所の棚から新しい歯ブラシと歯磨き、洗ったバスタオルと浴用タオルを持ってきて、さきほどだした着換えの上に置き、女がカレーを食べ終えるのを待ってインスタントコーヒーを二ついれて炬燵の上に置いた。
「皿は俺がかたづける。コーヒー、飲むと眠れないか?」

「じゃあ、かたづけ、お願い・・・。
 コーヒーはだいじょうぶ。どんなに飲んでも眠れる」
 女は両手を暖めるように、炬燵の上にだされたコーヒーカップを両手で取った。カップの中を見て、ふぅっと息を吹きつけている。熱いココアが冷ます子どものようだ。
「しばらく休んだら、風呂に入るんだぞ」
「うん」
 満腹になったらしく、女はおちついた口調になった。表情も明るくなった。
 省吾はこの和んだ雰囲気を記憶している。いっしょにいたのは、この女だったのではないか・・・。

「ごちそうさまでした。
 じゃあ、お先に・・・。洗剤と洗濯機を使うよ。脱水だけしたいの」
「ああ、使ってくれ。洗剤は下着用も毛糸用も脱衣所の洗濯機の上の棚にある。洗濯機の使い方と風呂の湯の沸かし方はわかるか?」
「わかるよ。さっき見たから」
 女は炬燵から立った。着換えなどを持って浴室へつづくドアの向うへ行った。

 グラス二つと、飲まなかった省吾のコーヒー一つを炬燵に残し、カレー皿とカップを台所のシンクへ運んだ。クローゼットの棚から布団をだして、たがいの布団の横から脚を炬燵に入れるよう、二組の布団を炬燵をはさんで平行に敷いた。省吾の布団は省吾に合せて少し大きい。

 一時間ほどすると、浴室のドアが開く音がして洗濯機の脱水の音がし、
「いい湯加減だった。洗剤、使ったよ」
 頭にバスタオルを巻いた女がドアからでてきた。
 化粧を落とした顔は潤いが増してかわいい。やはりどこかで見た気がする。

「ドライヤーを使ってくれ・・・」
 北側の壁の中央に机があり、左右にスピーカーボックスを組みこんだ本棚がある。
 左側の本棚からドライヤーを取って机のコンセントに接続し、炬燵に置いた。最近、髪を短めにしたため、省吾はドライヤーを使っていない。
「洗濯物はここに・・・」
 厚手のカーテンが閉めてある南側の出窓際の洗濯物用ハンガーを示した。
「外からは見えない。俺に見られて嫌なら、まわりにタオルをかければいい。乾燥してるからすぐに乾く。
 こっちの布団に入って、テレビでも見て、眠くなったら先に寝てくれ。俺は、風呂から上がったら、もう少し飲むから」
 本棚のTVと、姉が置いていった真新しい布団を示した。

「ありがとう。お風呂に入ったら喉が渇いた。なんとなくお腹も空いた。お茶を飲んで、何か食べていい?」
 女は炬燵を境にして平行に並んだ二組の布団を見ている。どこかで聞いた憶えがある話し方だ。
「ああ、いいよ。冷蔵庫にパンやチーズやケーキが入ってる。適当に食ってくれ」
 就寝前だから、そんなに食べないだろうと思った。
「食べたら、歯磨きするんだぞ」
「うん、わかったよ」
 答えながら女がうれしそうな、妙な顔をした。親に答える子どもみたいだ。


 風呂から上がると、女は布団に入って足を炬燵に入れ、TVを見ていた。二組の布団はぴったり寄りそって足元が炬燵に入り、掛け布団と毛布が枕側へ巻きあげられて背もたれになっている。炬燵の上にイチゴのショートケーキの皿があり
「コーヒーをいれて食べてるよ」
 女は二個めを食べていた。
 洗ったターキスブルーにピンクのピンストライプの女の下着と、薄ピンクの肌着と厚手のストッキング、使ったタオルは、窓際の洗濯物用ハンガーに吊るされている。女は下着を見られても気にしていなかった。

「なんでこんなことを?」
 バスタオルと浴用タオルを、洗濯物のハンガーにかけながら、布団を示した。
「日付が変ったから、酒を飲むなら、おたがいに近い方が小声で話しやすいよ。それとも、私が近くだといや?」
 女は皿にフォークを置き、省吾を見つめた。口のまわりについた生クリームを指で拭って舐め、指をティッシュで拭いて、省吾のグラスにウイスキーを注いだ。
「そんなことない。俺はまだ、あんたのことを知らない」

「あなたは頭を打って記憶がないから、私を知らない・・・。なのに、家に連れてきて、ラーメンとカレーを食べさせて、風呂に入れて、こうして泊めてる。お酒もコーヒーも飲ませた・・・」
 女はフォークをとった。何か考えている。
「ショートケーキもおいしい。まだ食べたい物があるんだ・・・。今じゃないよ」
「食べたい物を当てようか?食べたくない物も」
 右側の布団に入り、賭け布団の上にある、姉がおいていったピンクのカーディガンを女の肩にかけた。女が何を食べたいか省吾は知っていた。食べたくない物も・・・。

「うん、当ててみて」
 女がケーキを食べながら目を大きく見開いた。まるで子どもの表情だ。やはり、女の仕草に憶えがある。
「朝、布団の中でミルクコーヒーを飲んで、トーストを食べたい。バターとジャムのトーストだ。マーマレードでもいい。寝ぼけまなこで、甘い物を食べたいんだ。バナナは嫌いだ。肉と鰻とすき焼きも」
 グラスをとった。
「ええっ!どうしてわかるの?」
 女は驚いている。

 思ったとおりだ・・・。だが、誰の好みだろう・・・。 
「ミルクコーヒーとトーストは、映画を思いだしただけだ」
 たしか、映画で見たような気がする。
「寝る前に、もう一度、歯を磨くんだぞ。虫歯は?」
 女に話したあとで、娘に話してるような気持ちになった。なぜか、気まずい・・・。
 ウイスキーを口に入れてゆっくり喉へ流しこんだ・・・。アルコールが歯茎にしみる・・・。
 歯ブラシで力任せに磨きすぎた。加圧しすぎて歯ブラシの毛先が曲がれば、歯間や歯と歯茎の間を磨けない。何事も加減がある。
 省吾は虫歯が一本もない。そのためか、いい加減な歯磨きをしている。これでは歯科衛生士に注意される・・・。歯科医院なんて行ってないぞ・・・。

「さっきもいわれたよ・・・。わかった。虫歯は一本もないよ」
 女はほほえみながらフォークをとった。ケーキを口に入れて、。
「だけど、子ども扱いしてない?」
 妙な顔をしてるが、子ども扱いされるのも満更でもなさそうだ。
「してないけど・・・」
 気をつけねばいけない。
「無意識にそうしているかもしれない。迷惑ならあやまる。すまなかった」
「・・・」
 女が言葉に詰っている。
「もしよければ、この家から営業に行かないか?いやなら、無理強いはしない」
 俺なら効率的な営業をするため・・・。

「あなたが記憶をとりもどすために、私にここに居ろというの?」
 女がフォークを置いた。女から不信感でなく、不満が伝わってきた。
「いやそうじゃない。北関東が営業区域なら、ここと隣の県だろう」
 省吾は女の営業区域を聞いていないが知っていた。女はそのことに気づかずにいる。
「あんたの住居は都内だと思う。営業でこっちに来てビジネスホテルに泊るのは経費がかかる。兄上の所へは行きにくそうだ。理由をつければ、そういう事になる」
 女の気配を探った・・・。推測は的中してる。
「本当の理由は、一目惚れだ・・・。かわいくて懐かしい。かわいいあんたがここにいれば、俺はここに帰ってくるのが楽しみだ。だからここにいてくれ。時間をかけて、もっとあんたを知りたい。だめかな?」

「あなたと私は・・・」
 女は話しかけて、食べかけのケーキを見つめている。
「最初は、皆、そうだ」
 省吾はウイスキーを口に入れた。
 女は省吾を見た。
「順序が逆になっただけなの?」
 省吾が思っている言葉を口にしている。
「ああ、そうだ。ここにいたいと納得できたら話してくれ。そしたら」
 親戚の従妹が同居する、と大家にあいさつするつもりだ・・・。

「そしたら、手をだす?」
 女の目が省吾の左右の目を追っている。
「そうかもしれない」
 省吾は女の目を見た。
「なら、私は今納得した。手をだしていいよ」
 女はフォークを持ったまま、しばらくじっと省吾を見つめ、目を細めて笑いころげた。
「あははっ、うっそだよ~。
 でも、今のままのあなただったら、いいかな~、なんて思ったりして」

 女がフォークを皿に置いた。炬燵をでて布団に正座した。
「では、正直に答えます。兄を同席させて、あなたと正式に話そう思ってたの。でも、営業で手こずって遅れて、兄に連絡したけど、携帯の電源を切っててでない。それで、あなたの所へ行ったの」
 省吾は女の説明より、横山讓が妹と連絡を取れずに心配してると思った。

「ああ、心配しないで。兄には、仕事で遅くなったらビジネスホテルに泊るって話してあるから・・・。
 あなたは、女友だちが多いといってたけど、思ったより堅物だね・・・。
 昔の見合結婚はいきなり結婚だから、こんな交際もありかもね・・・。
 明日、目がさめたら、どうするか話します。
 記憶がはっきりしないから、大変かもしれないね」
 女は省吾を見てほほえみ、
「早く食べて寝ないと、夜が明けちゃう!」
 ぺこりと頭を下げた。炬燵に入りなおしてフォークを取り、残りのケーキを口に入れた。
 省吾はグラスのウイスキーを飲んだ。女が、もう飲まない、というので女のウイスキーも飲んだ。

 二人で歯を磨き、電気ストーブのスイッチを切って布団に入った。女は仕事で疲れたらしく、しばらく仕事の話をしたあと、すぐ眠った。
 省吾は天井を見たまま、女の素性を思いだそうとした。
 女に憶えはあるが、記憶がはっきりしない。俺自身が何者かわかれば、女のこともわかるだろう。あわてずに観察して、俺と女が何者か知ろう・・・。
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