第二章 9

文字数 1,915文字

 マッチを落とすのとジョンが走りだすのはほぼ同時だった。
 盲目の彼に躊躇はなかった。きっと、暗闇を駆けることに対してわずかばかりの恐怖心も抱かないのだろう。

 ニューオーウェルの模型の横をすり抜けて工作室に踏み入るジョンを食い止めるべく、わたしは真っ向から突進した。背後ではマッチの火がみるみるふくらみ、貪欲な飢えを満たそうとぼろきれを舐めまわしていく。
 ジョンと組み合ったわたしは、彼のサングラスがオレンジの炎にきらめくのを見た。

「ファイルを燃やしているんだな!」ジョンは叫んだ。
「おあいにくさま! あんなところに置いているからだわ!」わたしは叫び返した。

 わたしは腰を落とした姿勢でジョンのベルトを両手でつかむと、事務室へ押し戻そうとした。
 だがジョンはびくとも動かないばかりか、倍の力でわたしを押し返してきた。それに負けじと両脚を踏ん張った途端、足元の床がふっと消え去る。そう思った直後、わたしは宙に投げ出されていた。

 こちらが抵抗する力を逆に利用されて投げ飛ばされたのだと理解する前に、わたしはぼろきれを置いていた壁際の棚に背中から激突していた。
 衝撃で肺がしぼりあげられ、おまけに棚から落ちたガラクタが、肩や頭に降り注いできた。そのあいだにジョンは火を消そうと作業台に近づいていった。
 わたしは身を起こしてバケツに手を伸ばすと、中からつかみとった空の薬莢をジョンの顔めがけて投げつけた。彼がひるんだすきに立ち上がり、姿勢を低くしたままふたたびその横っ腹に体当たりする。
 ジョンが低く呻きながらふらつくと、工作室の壁に肩を打った。追いすがったわたしは、その背中に飛び乗って彼を羽交い絞めにする。

 しかしジョンはすぐに体勢を立て直した。彼は倒れることなく両足で二人分の体重を支えると、首に巻きついた腕をつかむなり、腰を落としてわたしを背負い投げたのだ。
 世界が見事なとんぼ返りをしたと思ったが、実際に回ったのはわたしのほうだった。
 ろくな受け身もとれずに床に叩きつけられ、視界に黒い幕がおりていく。

 気を失っていたのはほんの数秒間だった。健闘むなしくこてんぱんにされたわたしだったが、負けたわけではない。
 むしろこれだけ時間を稼げれば充分だった。少々寝入ってもおつりがくるほどに。

 空中を小さなかたまりがゆらゆらと漂い、わたしの頬に落ちてきた。それをぬぐうと、指先に黒い汚れがこびりつく。肩で息をしながらゆっくりと起き上がった拍子に、痛みで全身が跳ね上がる。きっとあちこち痣だらけになっていることだろう。

 ジョンは作業台に両手をついた姿勢のまま、身じろぎひとつしていなかった。

「自分がなにをしたかわかっているのか?」ジョンが背中を向けたまま言う。その声音は静かで穏やかだったが、それがかえって彼を恐ろしげなものにしていた。「銃を手にしてたらきみを撃ってやりたい気分だ」
「なるほど。つまり、わたし相手に丸腰でいるのがあなたなりの優しさってこと?」
「そうじゃない」ジョンは言いながらこちらに向き直った。「銃を書斎に置いたままなんだ」
「だったら取りにいけば?」わたしは半ば捨て鉢になりながら言った。
 ジョンは首を横に振ると、「戦いの途中で手を離れている武器を拾うような真似はしない」
「へえ、それって殺し屋の矜持?」
「戦闘の基本だ。同時にわたしの師の教えでもある」
「あなたの先生は味方を気遣うことは教えてはくれなかったの?」
「教えてくれたさ。そうでなければ、投げ飛ばしたきみの顔面を踏み抜いていたところだ」
「けど、あなたはそれをしなかった」
「そうだな。きみもそれがわかっていて、こんな馬鹿をしでかしたんだろう?」

 わたしは少し考えた。答え次第では事態はもっとまずいことになるであろうことはわかったが、不思議と恐怖心はわいてこなかった。もしかしたら、ここ数日間の嘘のような出来事がわたしの神経をすっかり麻痺させてしまったのかもしれない。
 つい二週間前まで自分が上司に怯え、同僚に苦しまぎれの虚勢をはっていた小娘だったとは信じられない。

「そう、かもね」わたしはこう続けた。「でも本当はもう、どうでもいいだけなのかもしれない。死ぬのは恐ろしいけど……死んだときは、それはそれよ。ひょっとしてこれもフロイトめいてるっていうのかしら?」

 わたしの問いかけにジョンはなにも言わないまま、先ほどの力強さから打って変わって、ふらつくような足どりで事務室へと引き返していった。
 わたしもそのあとに続いた。

 途中、作業台を横目で見たが、ファイルはすべて灰と化していた。
 灰の中から、真鍮製の空薬莢が冬の寒さで凍え死んだ黄金虫のような表面をのぞかせていた。
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