第二章 4
文字数 1,923文字
「ここでいいわ」
午後十時過ぎに<ユニヨシ>を出たわたしは、キャシーを自宅のアパートの前まで送っていった。
話題はあれからミスター・ウェリントンでもちきりで、話が一段落するごとにキャシーの前には空のグラスが積まれていった。
店を出るときにはわたしが肩を貸さなくては歩けない始末で、おまけに帰り道の路地裏のゴミ箱のかげを「注ぎなおす別の瓶」にまでしてみせた。これが店内でなくてよかったと思う。そうでなかったら、わたしたちはどことなく雰囲気がビルに似た、だが歳は彼よりもずっと若い東洋系の店主にこってりしぼられていたことだろう。
「部屋まで送らなくて平気?」
「へっちゃらよ」
そう言って大きく胸を反らせた拍子に、キャシーは二、三歩よろけた。わたしが抱きかかえていなかったら、頭を地面に打ちつけていただろう。
「送ってくれてありがとう」キャシーはわたしの腕から抜け出すと、手を後ろに組んで振り返った。「また飲みに行きましょ。それに、お店でも待ってるから」
「ええ。ミスター・ウェリントンを見かけたら、彼にもそう言っておくわ」
わたしの言葉に、キャシーは「うぅん」と曖昧な返事をするだけだった。それから彼女はアパートに入っていった。ふらつく後ろ姿を見ながら、わたしはキャシーが勢いあまってアパートのドアに頭をぶつけるものだと思った。だがわたしの意に反し、彼女はドアを開けてすんなりと奥へ消えていった。
強い夜風は、刑事として街を歩き馴れたわたしにとっても厳しいものだった。平日のこの時間は通りも閑散としており、そのうら寂しさのせいで寒風が心まで滑り込んでくるようだ。
家に向かうあいだ、わたしはミスター・ウェリントンことジョンのことをずっと考えていた。
ジョン・リップ。ニューオーウェル在住の視覚障害者。わたし同様<ノアズ・パパ>の味をこよなく愛する紳士的な壮年男性……だがその正体は、この街に潜む法律で裁けない悪を秘密裡に抹殺する警察組織御用達の殺し屋だった。
思わず苦笑してしまう。やれやれ、これではまるでコミックスの世界だ。
それまで<ノアズ・パパ>でしばしば見かけていたジョンと本格的に知り合うきっかけとなったのは、ある殺人事件だった。被害者はわたしの同僚であるエリック・マートン。
生前マートンは殺人課刑事の傍ら、ジョンの助手兼監視役としての職務についていた。彼の死後、その後任として選ばれたのが、当時相棒のリッチーとのコンビを解消したばかりのわたしだった。
いまにして思えば、マートンの後任になるくらいなら、リッチーの不遜な軽口に付き合っていたほうがよっぽどましだった。
この表沙汰にできない職務について知っている人物はジョンとわたし、それから十九分署内では前任者にして故人のマートンと、この職務のいっさいを管理するマクブレイン署長の四人だけだ。
職務の特性上、その実態を知ってしまってから放棄することはできない。なんの事情も知らないまま前のめりになるわたしに、ジョンは何度も考えなおすよう説得してくれた。だが、意固地になったわたしは愚かにも警察組織の暗部に首を突っ込んでしまったのだ。
わたしにとって最初の、そしてジョンにとっては何人目になるとも知れない標的は、ニューオーウェルの裏社会を牛耳るアルベローニ・ファミリーの会計係、マーク・ハニーボールだった。
ジョンは亡きマートンの入念な調査の成果もあり、盲目でありながら三百ヤード……ジョンの試算では三百三十二メートル……離れた標的を見事撃ち抜いてみせた。防弾ガラスの寸分違わぬ位置に、二発の弾丸を命中させることによって、わたしが直前まで彼のこめかみに銃口を向けていたにも関わらず。
神業ともいえるジョンの狙撃技術を見て、わたしの頭にある仮説がひらめいた。マートン殺しの犯人こそこの男、ジョン・リップであるという仮説だ。
マートンは、わずか数インチしか開いていない換気窓の隙間から飛び込んだ凶弾によって自宅で命を落とした。周囲にマートン宅よりも高い建物がないことから、犯人はヘリコプターなどの乗り物から狙撃をしたのではないか、というのが元相棒であるリッチーの推理だ。
そんなことをやってのける狙撃手など、この地球上でジョン・リップ以外にいるだろうか。わたしには信じられなかったし、彼が目の前で人間離れした狙撃をやってのけたという事実は、自白以外のなにものでもないように思えた。
ハニーボール殺害の直後、わたしはその強い確信を抱いてジョンに銃を突きつけた。
自分の新しい職務の正体を知ってから十日あまりが経っていた。
いまもわたしは、ふとした瞬間にあの早朝のジュール街でのやりとりを思い返している。
午後十時過ぎに<ユニヨシ>を出たわたしは、キャシーを自宅のアパートの前まで送っていった。
話題はあれからミスター・ウェリントンでもちきりで、話が一段落するごとにキャシーの前には空のグラスが積まれていった。
店を出るときにはわたしが肩を貸さなくては歩けない始末で、おまけに帰り道の路地裏のゴミ箱のかげを「注ぎなおす別の瓶」にまでしてみせた。これが店内でなくてよかったと思う。そうでなかったら、わたしたちはどことなく雰囲気がビルに似た、だが歳は彼よりもずっと若い東洋系の店主にこってりしぼられていたことだろう。
「部屋まで送らなくて平気?」
「へっちゃらよ」
そう言って大きく胸を反らせた拍子に、キャシーは二、三歩よろけた。わたしが抱きかかえていなかったら、頭を地面に打ちつけていただろう。
「送ってくれてありがとう」キャシーはわたしの腕から抜け出すと、手を後ろに組んで振り返った。「また飲みに行きましょ。それに、お店でも待ってるから」
「ええ。ミスター・ウェリントンを見かけたら、彼にもそう言っておくわ」
わたしの言葉に、キャシーは「うぅん」と曖昧な返事をするだけだった。それから彼女はアパートに入っていった。ふらつく後ろ姿を見ながら、わたしはキャシーが勢いあまってアパートのドアに頭をぶつけるものだと思った。だがわたしの意に反し、彼女はドアを開けてすんなりと奥へ消えていった。
強い夜風は、刑事として街を歩き馴れたわたしにとっても厳しいものだった。平日のこの時間は通りも閑散としており、そのうら寂しさのせいで寒風が心まで滑り込んでくるようだ。
家に向かうあいだ、わたしはミスター・ウェリントンことジョンのことをずっと考えていた。
ジョン・リップ。ニューオーウェル在住の視覚障害者。わたし同様<ノアズ・パパ>の味をこよなく愛する紳士的な壮年男性……だがその正体は、この街に潜む法律で裁けない悪を秘密裡に抹殺する警察組織御用達の殺し屋だった。
思わず苦笑してしまう。やれやれ、これではまるでコミックスの世界だ。
それまで<ノアズ・パパ>でしばしば見かけていたジョンと本格的に知り合うきっかけとなったのは、ある殺人事件だった。被害者はわたしの同僚であるエリック・マートン。
生前マートンは殺人課刑事の傍ら、ジョンの助手兼監視役としての職務についていた。彼の死後、その後任として選ばれたのが、当時相棒のリッチーとのコンビを解消したばかりのわたしだった。
いまにして思えば、マートンの後任になるくらいなら、リッチーの不遜な軽口に付き合っていたほうがよっぽどましだった。
この表沙汰にできない職務について知っている人物はジョンとわたし、それから十九分署内では前任者にして故人のマートンと、この職務のいっさいを管理するマクブレイン署長の四人だけだ。
職務の特性上、その実態を知ってしまってから放棄することはできない。なんの事情も知らないまま前のめりになるわたしに、ジョンは何度も考えなおすよう説得してくれた。だが、意固地になったわたしは愚かにも警察組織の暗部に首を突っ込んでしまったのだ。
わたしにとって最初の、そしてジョンにとっては何人目になるとも知れない標的は、ニューオーウェルの裏社会を牛耳るアルベローニ・ファミリーの会計係、マーク・ハニーボールだった。
ジョンは亡きマートンの入念な調査の成果もあり、盲目でありながら三百ヤード……ジョンの試算では三百三十二メートル……離れた標的を見事撃ち抜いてみせた。防弾ガラスの寸分違わぬ位置に、二発の弾丸を命中させることによって、わたしが直前まで彼のこめかみに銃口を向けていたにも関わらず。
神業ともいえるジョンの狙撃技術を見て、わたしの頭にある仮説がひらめいた。マートン殺しの犯人こそこの男、ジョン・リップであるという仮説だ。
マートンは、わずか数インチしか開いていない換気窓の隙間から飛び込んだ凶弾によって自宅で命を落とした。周囲にマートン宅よりも高い建物がないことから、犯人はヘリコプターなどの乗り物から狙撃をしたのではないか、というのが元相棒であるリッチーの推理だ。
そんなことをやってのける狙撃手など、この地球上でジョン・リップ以外にいるだろうか。わたしには信じられなかったし、彼が目の前で人間離れした狙撃をやってのけたという事実は、自白以外のなにものでもないように思えた。
ハニーボール殺害の直後、わたしはその強い確信を抱いてジョンに銃を突きつけた。
自分の新しい職務の正体を知ってから十日あまりが経っていた。
いまもわたしは、ふとした瞬間にあの早朝のジュール街でのやりとりを思い返している。