第二章 78
文字数 2,336文字
店に入ってきたジョンたちを見るや、バーテンは丸くした目をぐっとしぼって、驚きを怪訝な表情に変えた。
無理もない、ひとりは血まみれの男でもうひとりは半裸の女、そんなふたりを連れてきた歳若い男は疲労のせいで死に瀕しているか、あるいは死人そのもののような面相をしていたのだから。
カウンターをまわりこんだバーテンは、樽のような腹を揺らしながらこちらに近づいてきた。ジョンはシシーを後ろにさがらせると、男を縛ったベルトをつかみなおした。
「なああんたら、面倒事ならよそでやってくれ」
「迷惑はかけないよ」
ジョンの答えに店内から苦笑が漏れる。あれだけの大音量をまき散らしていたジュークボックスも音楽を止め、コイン片手に次の曲を選ぶ客もいなかった。
「電話を借りたいだけだ」
「なにか頼めとは言わねえよ、とっととまわれ右して出ていってくればいい。そこの女を置いてな」バーテンは熊ひげをたくわえた丸いあごでシシーをしゃくった。「家賃を払ってもらわにゃ。かれこれ二ヶ月も滞納してるんでね」
「それはできない」ジョンは答えた。「彼女はおれが預かる」
バーテンの表情がさらに険しくなる。彼がでっぷりとした肉をたくしあげて腹に隠れていたベルトのバックルに両方の親指をかけると、テーブル席に陣取っていた男たちがゆっくりと立ち上がった。
店の常連か、あるいは用心棒か。ある者はグラスを置き、ある者は手にしたビリヤードのキューをしごきながら、包囲網を縮めるようにジョンたちに近づいてきた。
ジョンは首を横に振りながら深々とため息をついた。苦労してたどりついたにも関わらず、おあずけを食らったのだ。いい加減、邪魔をされるのにはうんざりしていた。
ジョンは腰に手をまわすと、銃を抜き出した。
その瞬間、男たちが毒蛇にでも威嚇されたように後ずさる。彼らが充分にさがるのを見極めるとジョンは大きく頷いてみせ、バーテンに向き直った。
「最後まで穏やかに話をさせてくれないか」ジョンは言った。「頼むよ。電話を一本かけて、少し待たせてもらったらそれで終わりだ。そのあいだテーブルか、カウンター席を貸してくれればいい」
どうだい、とジョンは目で訊ねた。
「わかった。好きにやってくれ」
バーテンはそれだけ言うと、すごすごとカウンターの裏へと戻っていった。伏せられた目はすっかり怯えきっていた。
いかついバーテンをカウンターに退散させたのは銃だけのせいではなさそうだ。自分がいまどんな顔をしているのか、ジョンは鏡を見て無性に確かめてみたくなった。
だがその興味は棚上げして、彼は男とシシーを連れてカウンターへと歩いていった。
こちらへと歩み寄るジョンを見て、バーテンの目に沈みかけていた恐怖がふたたび大きくなっていく。テーブル席に向かっていたなら、彼もここまで怯えずにすんだだろうが、あいにくそちらは満席だった。
バーテンがカウンターに両手をそっと添えたのは、威厳を示すためというより手の震えを隠すためのように思えた。
「小銭あるか?」
「ああ、待ってくれ」
バーテンはそう言ってレジスターを操作したが、途中で何度かボタンを押しそこねたらしい、そのたびに舌打ちを繰り返し、それからようやく小銭や札のつまったトレイを引き出すことができた。その中から小銭をつかみ、ジョンの前のカウンターに差し出す。
店内の誰もが黙り込み、その様子を固唾を飲んで見守っていた。
ジョンはまずカウンター席にシシーを座らせると、散らばった小銭のなかから五十セント硬貨を一枚、それから念のためもう一枚つまみあげた。レオへの報告はすぐに済むだろうが、話の途中で電話が切れても面白くない。
「なあ、頼みがあるんだ」
ジョンが言うと、バーテンは小さく飛びあがった。ここまで怯えた様子を見てしまうと、行きがかり上こうなったとはいえ、さすがに彼に同情をおぼえてしまう。
「彼女を見ていてほしい」ジョンはシシーに視線を向けた。「特段手を貸す必要はないが、馬鹿をしでかすようだったら止めてやってくれ……そこのアイスピックで自分の目玉をえぐろうとするようなことがあったときには」
ジョンがカウンターの裏側を見ながら言うと、バーテンは賢明にも無造作に転がっていたアイスピックをシシーから離れたレジスターのそばに置いた。
当のシシーはわめき疲れたのか、朦朧とする頭を回して空中に大きな円を描きながら、スツールの上で奇蹟的なバランスをたもっていた。
「ほんの数分だ。頼まれてくれるかい?」
バーテンは小刻みに何度も頷いた。その拍子に半開きの口の中で上下の歯がかちかちと音をたてた。
「それから滞納分の家賃だけど」
「なんだって?」
「彼女の家賃だよ。いくら滞納しているんだ?」
「あ、ああ……一五〇〇ドルだ」
「二ヶ月で? ずいぶん高いんだな」
叱りつけられたわけでもないのに、バーテンは身をすくめた。
「それじゃあ――」ジョンは懐からマネークリップでとめた数枚の札を取り出した。片手で勘定するのには難儀したが、もう片方の手は油断なく男を拘束したベルトをつかみ続けていた。「ここに七〇〇ドルある。これだけ先に払わせてくれ。残りも必ず払うよ。色もつける。それで勘弁してくれないか」
「もらえねえよ」
「遠慮するな、ほら」ジョンはあるだけの紙幣を差し出した。
バーテンがかたくなに受け取ろうとしなかったので、結局ジョンはカウンターに散らばった小銭の横に紙幣を置いた。
きっとバーテンはどんな形であろうとマフィアの金を受け取ったが最後、取り返しのつかないことになると思ったのだろう。それは店に居合わせた客たちにも言えたことで、誰一人として金に手をのばそうとしたり、あまつさえカウンターに近づこうともしなかった。
無理もない、ひとりは血まみれの男でもうひとりは半裸の女、そんなふたりを連れてきた歳若い男は疲労のせいで死に瀕しているか、あるいは死人そのもののような面相をしていたのだから。
カウンターをまわりこんだバーテンは、樽のような腹を揺らしながらこちらに近づいてきた。ジョンはシシーを後ろにさがらせると、男を縛ったベルトをつかみなおした。
「なああんたら、面倒事ならよそでやってくれ」
「迷惑はかけないよ」
ジョンの答えに店内から苦笑が漏れる。あれだけの大音量をまき散らしていたジュークボックスも音楽を止め、コイン片手に次の曲を選ぶ客もいなかった。
「電話を借りたいだけだ」
「なにか頼めとは言わねえよ、とっととまわれ右して出ていってくればいい。そこの女を置いてな」バーテンは熊ひげをたくわえた丸いあごでシシーをしゃくった。「家賃を払ってもらわにゃ。かれこれ二ヶ月も滞納してるんでね」
「それはできない」ジョンは答えた。「彼女はおれが預かる」
バーテンの表情がさらに険しくなる。彼がでっぷりとした肉をたくしあげて腹に隠れていたベルトのバックルに両方の親指をかけると、テーブル席に陣取っていた男たちがゆっくりと立ち上がった。
店の常連か、あるいは用心棒か。ある者はグラスを置き、ある者は手にしたビリヤードのキューをしごきながら、包囲網を縮めるようにジョンたちに近づいてきた。
ジョンは首を横に振りながら深々とため息をついた。苦労してたどりついたにも関わらず、おあずけを食らったのだ。いい加減、邪魔をされるのにはうんざりしていた。
ジョンは腰に手をまわすと、銃を抜き出した。
その瞬間、男たちが毒蛇にでも威嚇されたように後ずさる。彼らが充分にさがるのを見極めるとジョンは大きく頷いてみせ、バーテンに向き直った。
「最後まで穏やかに話をさせてくれないか」ジョンは言った。「頼むよ。電話を一本かけて、少し待たせてもらったらそれで終わりだ。そのあいだテーブルか、カウンター席を貸してくれればいい」
どうだい、とジョンは目で訊ねた。
「わかった。好きにやってくれ」
バーテンはそれだけ言うと、すごすごとカウンターの裏へと戻っていった。伏せられた目はすっかり怯えきっていた。
いかついバーテンをカウンターに退散させたのは銃だけのせいではなさそうだ。自分がいまどんな顔をしているのか、ジョンは鏡を見て無性に確かめてみたくなった。
だがその興味は棚上げして、彼は男とシシーを連れてカウンターへと歩いていった。
こちらへと歩み寄るジョンを見て、バーテンの目に沈みかけていた恐怖がふたたび大きくなっていく。テーブル席に向かっていたなら、彼もここまで怯えずにすんだだろうが、あいにくそちらは満席だった。
バーテンがカウンターに両手をそっと添えたのは、威厳を示すためというより手の震えを隠すためのように思えた。
「小銭あるか?」
「ああ、待ってくれ」
バーテンはそう言ってレジスターを操作したが、途中で何度かボタンを押しそこねたらしい、そのたびに舌打ちを繰り返し、それからようやく小銭や札のつまったトレイを引き出すことができた。その中から小銭をつかみ、ジョンの前のカウンターに差し出す。
店内の誰もが黙り込み、その様子を固唾を飲んで見守っていた。
ジョンはまずカウンター席にシシーを座らせると、散らばった小銭のなかから五十セント硬貨を一枚、それから念のためもう一枚つまみあげた。レオへの報告はすぐに済むだろうが、話の途中で電話が切れても面白くない。
「なあ、頼みがあるんだ」
ジョンが言うと、バーテンは小さく飛びあがった。ここまで怯えた様子を見てしまうと、行きがかり上こうなったとはいえ、さすがに彼に同情をおぼえてしまう。
「彼女を見ていてほしい」ジョンはシシーに視線を向けた。「特段手を貸す必要はないが、馬鹿をしでかすようだったら止めてやってくれ……そこのアイスピックで自分の目玉をえぐろうとするようなことがあったときには」
ジョンがカウンターの裏側を見ながら言うと、バーテンは賢明にも無造作に転がっていたアイスピックをシシーから離れたレジスターのそばに置いた。
当のシシーはわめき疲れたのか、朦朧とする頭を回して空中に大きな円を描きながら、スツールの上で奇蹟的なバランスをたもっていた。
「ほんの数分だ。頼まれてくれるかい?」
バーテンは小刻みに何度も頷いた。その拍子に半開きの口の中で上下の歯がかちかちと音をたてた。
「それから滞納分の家賃だけど」
「なんだって?」
「彼女の家賃だよ。いくら滞納しているんだ?」
「あ、ああ……一五〇〇ドルだ」
「二ヶ月で? ずいぶん高いんだな」
叱りつけられたわけでもないのに、バーテンは身をすくめた。
「それじゃあ――」ジョンは懐からマネークリップでとめた数枚の札を取り出した。片手で勘定するのには難儀したが、もう片方の手は油断なく男を拘束したベルトをつかみ続けていた。「ここに七〇〇ドルある。これだけ先に払わせてくれ。残りも必ず払うよ。色もつける。それで勘弁してくれないか」
「もらえねえよ」
「遠慮するな、ほら」ジョンはあるだけの紙幣を差し出した。
バーテンがかたくなに受け取ろうとしなかったので、結局ジョンはカウンターに散らばった小銭の横に紙幣を置いた。
きっとバーテンはどんな形であろうとマフィアの金を受け取ったが最後、取り返しのつかないことになると思ったのだろう。それは店に居合わせた客たちにも言えたことで、誰一人として金に手をのばそうとしたり、あまつさえカウンターに近づこうともしなかった。