第二章 67
文字数 2,383文字
やがてジョンは、レオの稼業に本格的に加わることを許された。
アルベローニ・ファミリーの手広い稼業のなかで、その傘下であるピーノ一家に任されていたのは密輸品の管理と売春婦の斡旋だけだった。たとえ兄の言いつけであろうと、銃器の密売やドラッグの取引といった割のいい大きな仕事に携われないことに、ピーノはあきらかな不満を抱いていた。
レオが売春の仕切り役に抜擢されたのは、ひとえにそんなピーノの腹いせの巻き添えだったと言っていいだろう。ピーノは日頃から、あばずれのお守りはヘナチンの役目だとうそぶいていた。
それでもレオは、その紳士的な態度と魅力的な外見で娼婦たちから篤い信頼をよせられていた。
「これをおまえに渡しておく」そんなある日、そう言ってレオがジョンに渡したのは一丁の拳銃だった。「整備も簡単だし扱いやすい。いつも身につけておけ」
ジョンは頷きながら右手を差し出した。その手に置こうとした拳銃を、レオはふたたび持ち上げてしまった。
「いいか、これはくれてやるんじゃない。預けるだけだ。だからこいつを喜んで殺しに使おうなんて考えるんじゃないぜ。おれの銃だからだ。おれの銃でおまえが手を汚すことは許さん。こいつは身を守るためだけに使え。そのための訓練はつけてきたはずだ」
ジョンがもう一度、今度は幾分はっきりと頷くのを見て、レオはようやく拳銃を渡してくれた。
これがジョンの愛用する拳銃、P210との出会いだった。
マフィアの一員として幸か不幸かはわからないが、それまでジョンは人の命を奪う事態には出くわさずにいた。そしてレオとの誓いをたててから、ジョンは誰かの命を奪うことについてさらに深く意識するようになった。
だが一度だけ、レオとの誓いを破りかけたことがあった。
上納金を集めるためにレオが出入りしていたとある娼館に、シシーという若い売春婦がいた。
黒い髪をクールカット風に短くまとめた娘で、二十八歳を自称する見た目は、少なく見積もってもそれより十歳は若かった。目のまわりにアイシャドウをきつめに塗り、いつもメンソールの冷たい煙をぷかぷかとやっていた。
「ねえ、火を貸してくれない?」
その日、ジョンが店の裏口でレオを待っているとき、同じく裏口に居合わせたシシーはそう声をかけてきた。それまで何度か彼女のことを見かけていたし、目が合ったこともあるが、言葉を交わしたことは一度もなかった。
レオは娼婦に話しかけることを別に禁じてもいなかったが、ジョンにとって彼女たちとの会話はなんとなくはばかられるような行為に思えた。
「ねえ、火を持ってないかって訊いてんのよ」
「ああ……」
ジョンは言いながら上着をまさぐった。正直なところうろたえていた。
娼婦に声をかけられたからというより、普段女性と話す機会などほとんどなかったし、シシーとは顔見知り程度の間柄でさえなかったからだ。
ジョンは運良くポケットから出てきたブックマッチを取り出すと、すこしひきつった笑いを浮かべながらそれを見せた。
シシーはジョンに近づくと、銜えた煙草に指をそえて顔を近づけてきた。その様子にジョンがマッチを差し出したままきょとんとしていると、シシーは眉根を寄せてこう言った。
「ちょっと、早くしてくれない」
「え? ああ……」
ジョンは頷きながらブックマッチを開くと、もたつきながら一本ちぎり、着火ベルトに箱型マッチの要領でこすりつけた。
だが、火はつかない。焦って何度も繰り返していると、マッチはすっかりへたってしまった。
煙草を吸わないジョンにとっては、マッチもライターも無縁のものだった。
レオは誰かに火をつけられるのを嫌う男だったし、このブックマッチにしてもジョンがほんの気まぐれでバーのカウンターからくすねてきたものだった。
「挟んで」
「なに?」
「挟むのよ。じゃないと火はつかない」
なおも首を傾げるジョンから、シシーはマッチを取り上げた。
「あんた本当にレオの子分なの?」
そう言ってシシーは新しいマッチをちぎりとった。赤い頭を着火ベルトの端にあてがい、マッチカバーではなく親指で直接挟み込んで引き抜く。火薬がぱっと燃えあがり、薄暗い路地がほんのりと明るくなった。
「いけない。またやっちゃったわ」そう言ってシシーは煤で黒くなった親指をこすった。「癖なのよね。火傷でもしたらオーナーに怒られるのよ。商売道具なんだから大切に扱えって……でもこの指さえあれば火なんて簡単につけられる。マッチでも、ヘナチンでも」
そう言ってシシーは火を煙草に移すと、マッチを投げ捨てた。水溜りに落ちて火が消えると、路地はふたたびもとの暗さに戻った。だが煙草の火が照らしたシシーの横顔だけは、丸窓で切り取った風景の幻となってジョンの視界の隅にいつまでも浮かんでいた。
幻ではない本物のシシーが目だけをジョンに向け、自分の言ったジョークに微笑んでみせた。
「シシーよ」
「ジョンだ。ジョン・リップ」
シシーはジョンが差し出した手の、人差し指の先だけを握り返した。
その仕草にジョンは女性らしさを感じた。生まれてはじめて感じる女性的な仕草に、ジョンの胸は温かさをおぼえた。
「よく店で見かけるわね」
「レオの子分だからね」
「ええ、そうね……やだ、もしかしてヘナチンって言ったこと気にしてる?」
「いや、別に」
「あなたのことじゃないわよ。昨夜のお客、クラゲみたいなアレだったからさ。ベッドで並んで座ってるとき、こっそり指輪をはずしてるのも見ちゃったんだけど、あれじゃ奥さんも可哀想よね……まあとにかく、あなたのことじゃないわ」
「別に気にしてないよ」
だといいけど、言いながらシシーは微笑んだ。ジョンの気持ちは相変わらず浮ついたままだったが、不思議とシシーにからかわれたことを不愉快には思わなかった。
これがシシーとのはじめての出会いだった。
アルベローニ・ファミリーの手広い稼業のなかで、その傘下であるピーノ一家に任されていたのは密輸品の管理と売春婦の斡旋だけだった。たとえ兄の言いつけであろうと、銃器の密売やドラッグの取引といった割のいい大きな仕事に携われないことに、ピーノはあきらかな不満を抱いていた。
レオが売春の仕切り役に抜擢されたのは、ひとえにそんなピーノの腹いせの巻き添えだったと言っていいだろう。ピーノは日頃から、あばずれのお守りはヘナチンの役目だとうそぶいていた。
それでもレオは、その紳士的な態度と魅力的な外見で娼婦たちから篤い信頼をよせられていた。
「これをおまえに渡しておく」そんなある日、そう言ってレオがジョンに渡したのは一丁の拳銃だった。「整備も簡単だし扱いやすい。いつも身につけておけ」
ジョンは頷きながら右手を差し出した。その手に置こうとした拳銃を、レオはふたたび持ち上げてしまった。
「いいか、これはくれてやるんじゃない。預けるだけだ。だからこいつを喜んで殺しに使おうなんて考えるんじゃないぜ。おれの銃だからだ。おれの銃でおまえが手を汚すことは許さん。こいつは身を守るためだけに使え。そのための訓練はつけてきたはずだ」
ジョンがもう一度、今度は幾分はっきりと頷くのを見て、レオはようやく拳銃を渡してくれた。
これがジョンの愛用する拳銃、P210との出会いだった。
マフィアの一員として幸か不幸かはわからないが、それまでジョンは人の命を奪う事態には出くわさずにいた。そしてレオとの誓いをたててから、ジョンは誰かの命を奪うことについてさらに深く意識するようになった。
だが一度だけ、レオとの誓いを破りかけたことがあった。
上納金を集めるためにレオが出入りしていたとある娼館に、シシーという若い売春婦がいた。
黒い髪をクールカット風に短くまとめた娘で、二十八歳を自称する見た目は、少なく見積もってもそれより十歳は若かった。目のまわりにアイシャドウをきつめに塗り、いつもメンソールの冷たい煙をぷかぷかとやっていた。
「ねえ、火を貸してくれない?」
その日、ジョンが店の裏口でレオを待っているとき、同じく裏口に居合わせたシシーはそう声をかけてきた。それまで何度か彼女のことを見かけていたし、目が合ったこともあるが、言葉を交わしたことは一度もなかった。
レオは娼婦に話しかけることを別に禁じてもいなかったが、ジョンにとって彼女たちとの会話はなんとなくはばかられるような行為に思えた。
「ねえ、火を持ってないかって訊いてんのよ」
「ああ……」
ジョンは言いながら上着をまさぐった。正直なところうろたえていた。
娼婦に声をかけられたからというより、普段女性と話す機会などほとんどなかったし、シシーとは顔見知り程度の間柄でさえなかったからだ。
ジョンは運良くポケットから出てきたブックマッチを取り出すと、すこしひきつった笑いを浮かべながらそれを見せた。
シシーはジョンに近づくと、銜えた煙草に指をそえて顔を近づけてきた。その様子にジョンがマッチを差し出したままきょとんとしていると、シシーは眉根を寄せてこう言った。
「ちょっと、早くしてくれない」
「え? ああ……」
ジョンは頷きながらブックマッチを開くと、もたつきながら一本ちぎり、着火ベルトに箱型マッチの要領でこすりつけた。
だが、火はつかない。焦って何度も繰り返していると、マッチはすっかりへたってしまった。
煙草を吸わないジョンにとっては、マッチもライターも無縁のものだった。
レオは誰かに火をつけられるのを嫌う男だったし、このブックマッチにしてもジョンがほんの気まぐれでバーのカウンターからくすねてきたものだった。
「挟んで」
「なに?」
「挟むのよ。じゃないと火はつかない」
なおも首を傾げるジョンから、シシーはマッチを取り上げた。
「あんた本当にレオの子分なの?」
そう言ってシシーは新しいマッチをちぎりとった。赤い頭を着火ベルトの端にあてがい、マッチカバーではなく親指で直接挟み込んで引き抜く。火薬がぱっと燃えあがり、薄暗い路地がほんのりと明るくなった。
「いけない。またやっちゃったわ」そう言ってシシーは煤で黒くなった親指をこすった。「癖なのよね。火傷でもしたらオーナーに怒られるのよ。商売道具なんだから大切に扱えって……でもこの指さえあれば火なんて簡単につけられる。マッチでも、ヘナチンでも」
そう言ってシシーは火を煙草に移すと、マッチを投げ捨てた。水溜りに落ちて火が消えると、路地はふたたびもとの暗さに戻った。だが煙草の火が照らしたシシーの横顔だけは、丸窓で切り取った風景の幻となってジョンの視界の隅にいつまでも浮かんでいた。
幻ではない本物のシシーが目だけをジョンに向け、自分の言ったジョークに微笑んでみせた。
「シシーよ」
「ジョンだ。ジョン・リップ」
シシーはジョンが差し出した手の、人差し指の先だけを握り返した。
その仕草にジョンは女性らしさを感じた。生まれてはじめて感じる女性的な仕草に、ジョンの胸は温かさをおぼえた。
「よく店で見かけるわね」
「レオの子分だからね」
「ええ、そうね……やだ、もしかしてヘナチンって言ったこと気にしてる?」
「いや、別に」
「あなたのことじゃないわよ。昨夜のお客、クラゲみたいなアレだったからさ。ベッドで並んで座ってるとき、こっそり指輪をはずしてるのも見ちゃったんだけど、あれじゃ奥さんも可哀想よね……まあとにかく、あなたのことじゃないわ」
「別に気にしてないよ」
だといいけど、言いながらシシーは微笑んだ。ジョンの気持ちは相変わらず浮ついたままだったが、不思議とシシーにからかわれたことを不愉快には思わなかった。
これがシシーとのはじめての出会いだった。