第一章 31

文字数 1,344文字

 わたしは怯えていた。つい先日まで一介の刑事だったのに、いつの間にこんな深いぬかるみに足を突っこんでしまったのだろう。
 いや、遅きに失したせいで、すでに足だけではなく全身がどっぷりはまりこんでしまっている。おまけに、最後の決断をしたのがほかでもないわたし自身だというのは、とんだお笑い種だ。
 それでもわたしはどうにか銃口を支え続けた。ひとりの警官として、こんな暴挙は見過ごせないという思いだけがそうさせていた。

「ダメ……ダメよ」だが意志とは裏腹に、わたしの口調はみるみる弱まっていた。「そんなこと、させない」
「リサ、『地獄への道は善意で舗装されている』という格言ぐらいは知っているだろう。きみのその信念がさらに多くの人々を殺すかもしれないんだぞ。トロッコ問題の応用だよ。さっき話したじゃないか。いまきみはまさにトロッコに乗っているんだ。考えてみてくれ。なにもせず悪党たちを見殺しにするか、ポイントを切り替えていま目の前にいるひとりの男を殺すか。そのすべてがきみの指先ひとつにかかっている。失われる命はいずれもひとつきりだが……もっと先を見据えてくれ。目の前の男が立つレールの先には、さらに大勢の人々が立っているんだ。悪党たちを見殺しにできなかったことで、さらに多くの無辜の人々の血が流れるとしたら、きみはどちらを選ぶべきなんだ?」
「だからって、わたしがなにもしなかったら? あなたのいう無辜の人々が悪党たちの先にいたとしたら? おためごかしで言いくるめるのはやめて」
「ああ、もちろんだ。わたしがここで死んだとして、そのせいで犠牲になる人間の命が、わたしがこれからも奪っていく命よりも多くないという保証はない。もっともだ。わたしがこれまで奪い、これからも奪っていく命の数が少ないと、どうして言いきれる? 言わないさ。事実そのとおりなのかもしれないからね。だがリサ、わたしがこれまで手にかけてきた連中はみんな悪人だ。このわたしと同じような……きみが止めようが止めまいが、目の前で起きているのはただの悪人同士の殺し合いなんだよ」

 ジョンは言い終えると、半開きにした口から舌先を突き出した。どうやらこれも、煙草とおなじで風向きと風速を計るための動作らしい。牛乳を注ぐ工夫を、こうして狙撃へ応用しているのか。

 牛乳の応用。トロッコ問題の応用。もう、たくさんだ。

「その引き金に少しでも触れてみなさい。わたしがあなたを撃つわ」わたしは銃を構えなおしながら言った。
「いいや、きみは撃てない」断言し、ジョンはためらうことなく引き金に指をかけた。

 わたしはなにもできなかった。

「きみはわたしを撃てない」ジョンは繰り返した。「いや、誰に対しても命を奪う冷酷さを持ち合わせていないんだよ、きみは。あの晩、わたしを襲った強盗も撃てなかっただろう。あの距離なら、しかるべき訓練を受けた者であれば命中させられたはずだ。つまりきみは優しいんだよ、リサ。そして、その優しさがときとして仇になる」
「もののはずみということもあるわ。見えてないだろうから教えてあげるけど、わたしももう引き金に指をかけてるし、その引き金は驚くほど軽いのよ」
「それでもきみは撃たないさ、それがきみの信条だから。もののはずみごときに負けるわけがない」
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