第二章 100

文字数 2,279文字

「さて」わたしは引っ込めたボトルを両脚のあいだに置くと、ぽんと手を打ち合わせた。「いい加減昔話は終わりにしましょう。言ったように、大事なのはこれからのことよ」

 それからわたしは深呼吸をひとつした。これからする告白に備えて。

「あなたに言っておかないといけないことがあるの」
「なんだ?」
「金庫から取り出した点字書きのリストだけど、じつはあれはまだわたしの手元にある……燃やしてなかったのよ。警察署でマートンの事件の捜査資料をコピーしてて、火をつけたのはそっちのほう。すりかえた本物は雑誌と一緒に家に持ち帰ったの」

 わたしは傍らに置いていたリュックを引き寄せると、その中から分厚い紙の束を取り出した。
 点字で記された、ジョン専用のリスト。わたしはボトルの代わりにそれをジョンへ突き出した。

「受け取って。ここから先のやり方はみんなあなたに任せる。わたしはなにも言わずについていくわ。このくそったれな仕事をふたりでやり遂げましょう」

 わたしはジョンの答えを待った。
〝くそったれな仕事〟と揶揄したように、やはり公認であろうとそうでなかろうと、刑事として殺人を容認することはできなかった。

 だが、それでもジョン・リップという男が告白した過去を知ってしまったわたしには、こうする責任があるように思えた。ハニーボールのときのようなことがまた起きたとしても、わたしにはそれを見届ける義務があるようにも感じた。
 なにより、これからさらに過酷さを増すであろう職務をたったふたりでやり遂げるには、お互いにわがかまりを持ち込むべきではないと考えたのだ。それがわたしなりに出した結論だった。

「知っていたよ」そんなわたしの覚悟を、ジョンはそのひとことであっさりと片付けた。目を丸くするわたしをよそに、彼は続けた。「きみが燃やしたファイルからは、はっきりと焼けたインクのにおいがしたからね。わたしのものではないとすぐにわかった」

 一気に全身の力が抜け、持っていた紙束を落としそうになる。

「だったら、どうしてそれを黙ってたのよ?」
「どうでもよかった、というのは答えにならないかな? そもそもあのリストの中身は、受け取ったあとすぐに内容を暗記しておいたんだ。だからファイルが燃えようが月まで吹き飛ぼうが、なんの問題もなかった」

 確かめてみるかい。そう言ってジョンはリストの内容をすらすらとそらんじてみせた。わたしが覚えている範囲で、それは一言一句誤ってはいなかった。
 傑作だったのは、ハニーボールの次の標的である老弁護士が、痔ろうの治療で一ヶ月間に何回病院通いをしているかを彼が正確に言ったところだ(ちなみにこの老人は自宅で自らが手を染めた数々の犯罪の証拠に埋もれて縛られているのを、現場に駆けつけたティムによって連行された。もちろん、そのお膳立てをしたのはわたしとジョンなのだが)。

「すまない、わたしはきみを試してみたかったんだ。きみのことはダイナーでよく見かけていたし、刑事だということも知っていた。わたしと組むのがマートンではなく、きみのようにまっすぐな人間だったら、この仕事がどうなっていただろうかと……こうなる前からそんなことをよく考えもしていた。はたしてどんな運命のいたずらか、わたしの想像は現実のものになった。だからリストを燃やされたあのとき、わたしは次にきみがなにをするか知ってみたくなったんだ」それからジョンは微笑むと、「結果は期待以上だった」

 ジョンの言葉を耳に、わたしは棒を飲んだようにかたまった。まさか覚悟を決めた告白があっさりと許されただけではなく、逆に彼から告白をし返されるとは思ってもみなかった。
 わたしは置いてあったボトルをつかみとると、残っていた中身を一気に流し込んだ。酔いよりも、気恥ずかしさから顔が熱くなった。

「全部飲んだのか?」
「おあいにくさま。これはわたしが持ってきたものよ」

 わたしたちは黙りこんだ。正面から向き合ってはいたが、お互いの顔を見ることができたかどうかは疑わしい。
 なにせひとりはもともと目が見えないし、もうひとりは上質なワインへの冒涜により目が据わりきっていたからだ。

 やがてわたしたちはどちらともなく笑い出した。
 恋人同士のように上品で秘めやかな笑いではない。屋上の強風と寒さを吹き飛ばすような、友人同士のあけっぴろげな大笑いだった。

「なら、ジョン・リップ」わたしは空のボトルを置いて立ち上がった。少しふらついたが、倒れるほどではなかった。「それじゃあ、もう殺しは無しね?」
「必要なとき以外はね」そう言ってジョンも立ち上がった。その所作は酔いも疲れも感じさせなかった。「悪党を殺さず捕まえるのも、なかなか悪くない」
「あら、刑事になりたくなった?」
「まさか。元マフィアとしては願い下げだ」

 わたしたちは見つめ合った。お互いの体温が感じられるほど顔を接近させて。
 わたしがジョンをからかってみせたのは、あるよからぬ直感がはたらいていたからだった。
 まったく冗談にもならない考えだったが、ジョンも同じことを予感していたのだろう、口元に意味ありげな笑みを浮かべていた。

「まさか、キスなんてしないわよね?」
「もちろんだ。刑事となんてごめんだね」
「同感。わたしだって、殺し屋となんて」
「なら握手は?」

 わたしたちはまず手を握り合い、次に肩を抱き合った。
 ジョンの右手はわたしの乳房に当たっていたし、わたしは恋人のように額を彼の肩口に押し当てていたが、ふたりとも気にもとめなかった。

 そしてこれが、わたしがジョン・リップと触れ合う最後の機会となった。
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