第二章 10

文字数 2,237文字

 書斎に戻ったジョンは椅子に座ると、背もたれに深く身をうずめた。
 わたしも定位置である籐椅子に腰をおろす。足を組もうとしたが体がひどく痛んだので、おとなしく両脚を投げ出した姿勢で落ち着くことにする。
 ジョンの言うとおり彼の銃は机の上、それも手のすぐとどくところに置かれていた。

 ジョンはしばらく彫像のようにじっとしていたが、やがて深いため息をついて、「確認させてくれ。きみが燃やしたのは、間違いなくわたしのファイルだな?」
「ええ」わたしは答えた。
「そうか」ジョンはまたため息をついた。「本来ならきみを始末しているところだ。怒りからではないがね……もっとも、腹をたてていないといえば嘘になるが……きみが今後の仕事に大きな支障をきたしたからだ。わからないか? わたしたちの立場は以前よりもずっと苦しいものになったんだぞ」
「わかってる。それでも、あなたはわたしを殺せない。だってファイルはもうひとつあって、それを読むことができるのは世界中でわたしだけですもの」

 世界中で、というのは誇張しすぎかもしれないが嘘ではない。わたしは続けた。

「点字のファイルはもうこの世のどこにも存在しない。でも同じ内容が活字で印刷されたファイルは残ってる。わたしの手元にね。わたしを殺して奪ってみる? あなたには読めもしないこのファイルを?」
「たしかにわたしはそれを読めないが、わたしはマクブレインにファイルの代わりを頼むことだってできるし、必要ならきみの代わりだって頼める」
「たしかに、あなたが新しいファイルと相棒を要求すれば、その時点でわたしはおしまいでしょうね。でも、そうはならない」
「なぜそんなことが言える?」サングラスごしにもわかるほど、ジョンの表情が曇る。
「だってあなたは署長のことが嫌いだもの。その証拠に、これまで一度も彼を頼ろうとする素振りを見せなかったじゃない。署長だって、あなたのことを有益だと考えてる反面、厄介とも思ってる。だってそうでしょ。いくら認可されてるからって、合法的な殺人なんてものが世間の明るみに出るのはまずいんじゃないかしら? だから署長はあなたと必要以上に接触することを避けているんだわ」
「だが限度というものがある。仕事の妨げになると判断して、わたしがきみを始末しないともかぎらないじゃないか」
「それもないわ。もしそうするつもりなら、いまごろわたしは隣の部屋で死んでいて……そうね、煉獄で神に慈悲を請うているはずだもの」

 ジョンが顔をしかめる。
 数日前のハニーボール暗殺の直後、銃を向け合ったときにジョンがわたしに言ったセリフをそのまま拝借したからだ。はたして、彼の表情を見るに意趣返しは成功したらしい。

「たしかにそうだな」ジョンは頷いた。「現にきみは生きている。だが、途中でわたしの気が変わるかもしれないぞ」

 言うが早いか、ジョンはふたたび銃を手にしてわたしに突きつけた。

「隣の部屋か、ここか。場所が違うだけで死ぬことに変わりはないだろう」

 こめかみから頬へ、ぬらりとした汗が伝う。ジョンとの格闘で全身汗みずくだったが、それとは質感が違うものだった。

「それでも撃てない」震えそうになる声をおさえてわたしは言った。
「なぜ?」
 わたしは深呼吸をして気を落ち着けた。それから大きく息を吸い、「だってあなたはわたしのことが好きだもの。そうでなくても、好きになりかけてる。違うかしら。そうでなければ、わざわざ『始末する』なんて断りを入れたりしない。ただ実行するだけよ、ハニーボールのときみたいにね」

 わたしはそう言って、口をかたく引き結んでいるジョンを見つめ続けた。

 次の瞬間、閉じられた唇がほころんだかと思うと、ジョンは吹き出していた。
 わたしが見ているそばから笑いが爆発すると、次に彼は天井を仰いで高笑いした。それから今度は体を折り曲げ、咳きこみながら笑いをしぼりだす。
 笑うたびに彼の銃がわたしの目の前で危なっかしく揺れたが、その指はもう引き金にはかかっていなかった。

 ひとしきり笑うと、ジョンは銃を置いてサングラスをはずした。笑いの発作をひきつけのように断続的に繰り返し、浮かべた涙をぬぐう様子にはどこか親しみ深いものがあった。

「きみのことが、ね……」不規則な笑いを散発的に漏らしながらジョンは言った。「わたしが、きみのことを好きだと? こいつは傑作だ」
「ならそうじゃないって言うの?」わたしはむっとしながら訊ねた。
「いや、少なくともマートンよりは気に入ってるがね。それにしても……好きだとは!」
「もういいでしょ」

 さすがにだんだん恥ずかしくなってきた。
 だがついさっきまで恥や外聞どころか、命さえもかなぐり捨てるつもりで大きな賭けにでていたのだ。いまさら少々の恥がなんだというのだろう。少なくともわたしの捨て身の覚悟は報われたわけだ。

「いいだろう」

 ジョンは両手を机の上に組み、サングラスをはずしたまま身を乗り出した。その顔からはさきほどまでの朗らかさは消え失せ、視力を失った白い瞳に真剣な表情をたたえてわたしを見つめてきた。

「それで、きみの目的はなんだ? わざわざこんな危険をおかして、わたしを口説くだけでは割りに合わないだろう。これできみはわたしと対等の立場になったんだ。これからなにをするつもりか、教えてもらえないか?」

 わたしは口の両端をぐっと持ち上げてみせた。
 笑い声こそ出さなかったが、ジョンにはわたしがどんな表情をしているか想像がついているはずだ。
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