第三章 12
文字数 2,768文字
コートを着たこざっぱりとした格好の男は、右手にケースを持っていた。長い髪はうっすらと白さがまじったごま塩で、それを後ろに撫でつけている。その顔に大きなウェリントン型のサングラスをかけているのが、この距離からでもわかった。
男は迷いのない足取りで屋上のへりまで歩くと、立ち止まって携帯電話を取り出した。
すぐにわたしの携帯電話が鳴った。サム・ワンはこめかみにあてていた銃口をふって、わたしに電話をとるように促した。
「ジョン?」携帯電話を手に、わたしは訊ねた。
「リサか。待っていろ、いま助ける」
ジョンがそう言ったのを聞くと、サム・ワンはわたしに電話を切らせた。
わたしは相手の指示どおり携帯電話をポケットにしまい、屋上に立つジョンがケースからライフルを取り出すのを見守った。
サム・ワンもまた、彼が準備するのをじっと待っていた。無防備とさえ言える彼の不意を撃つことすらしなかった。
カルノーのペントハウスに訪れたときから気づいていたことだが、サム・ワンはこれこそが狙いだった。虚無の暗殺者はジョンにふたたび狙撃を失敗させるためにここを選んだのだ。
一昨日のわたしたちの会話は筒抜けだったし、事務所に置いてあった模型も見たはずだ。ジョンが最初の狙撃を失敗して以来、ここで仕事をするどころか、このあたりをうろつくこともできなくなったことを、やつは知っている。
サム・ワンはジョンがここでの狙撃にふたたび失敗し、絶望に打ちひしがれているところを殺そうとしているのだ。
ジョンは無駄のない動きでライフルの準備を終えると、伏射の姿勢でそれを構えた。サングラスをはずし、あの白い眼がスコープを覗きこむ。
悔しいが、わたしもサム・ワンと同じようにジョンが標的をはずす結果しか想像できなかった。
入念な下調べも、標的の場所を知る方法もここにはない。十九分署でのときのように、わたしがおとりになってジョンを手助けすることもできない。サム・ワンを狙う弾丸はあらぬ方向に飛び去るか、わたしだけに命中するだろう。
それでもジョンが狙撃に成功する以外、わたしに生き残る望みはなかった。
狙撃が失敗に終わったら、結果がどうであろうとサム・ワンはまずわたしを殺すはずだ。それからジョンを狙い撃つ。十九分署での負傷でライフルを持つことができなくても、競技用拳銃の精度とサム・ワンの腕前があれば、向かいの建物にいるジョンを撃つことなど造作もあるまい。
なにせジョンの恩人であるレオの言葉を借りれば、ここと向こうの距離など、狙撃手にとって「ちょっとした庭仕事」にすぎないからだ。
サム・ワンは、わたしの肩ごしにじっとジョンを見ていた。フードの奥で、あの恐ろしい笑い声が静かにぶり返していた。
わたしはジョンを見た。彼は、あの白い瞳をわたしに向けていた。
その瞬間、わたしから恐怖が消え去った。ジョンがわたしを見ていることに確信を持てたからだ。
時折、彼と話しているときなどにそう感じることはあったが、いまほど強くそう思えたことはなかった。
はじめてジョンと出会ったとき、盲目であるとわかるまでにかなりの時間を要したが、それは血の滲むような努力と経験によって、彼が自らに残された感覚を研ぎ澄ましていたからだ。
だがジョン・リップはいまこの瞬間、他の感覚で代補するのではなく、本当の意味で目が見えていた。
彼は見ていた。世界を、現在を、過去を、未来を、わたしを。
そして標的を。
ライフルが火を噴いた。ペントハウスの窓ガラスが激しい音とともに砕け散る。銃声が尾を引くなか、背後でサム・ワンの身体が跳ねるのを感じた。
わたしが反射的に身を低くするのと、サム・ワンの銃が弾丸を吐き出すのとはほとんど同時だった。サム・ワンの銃弾はわたしの頭上を越えて天井の一角にめりこんだ。
サム・ワンはフードの奥から血を吹き出した。毛皮が舞い、モッズコートの喉のあたりが生地よりもさらにどす黒い色に染まっていく。
サム・ワンは数歩ふらついたあと、突然わたしの手をつかんで窓のほうへと駆け出した。
咄嗟に倒れこまなければサム・ワンとともに空中へと投げ出されていただろう。それでもわたしの上半身は、窓枠からニューオーウェルの街路の真上へと乗り出していた。
サム・ワンはわたしの右手首をつかんだまま、ビルの壁にぶらさがっていた。
射撃場で抱き起こしたときはあんなに軽かった身体が、恐ろしいほど重くなっていた。まるで暗殺者の執念が実体を得たかのようだ。
脚が床の上を滑り、わたしの身体は窓枠から外へと徐々にせり出していった。銃を抜いてサム・ワンを撃とうにも、体重を支えるために突っ張った左手では自由がきかない。
「ジョン!」わたしは叫んだ。
そのとき、一陣の風が街を駆け抜け、サム・ワンの頭からフードを取り去った。その顔を見て、わたしは思わず息を呑んだ。
そこには死んだはずのエリック・マートンの顔があった。
だがそう見えたのはほんの一瞬(しかし右腕にかかるサム・ワンの重量を忘れるほど濃厚な一瞬)だった。
マートンの顔はさらにわたしの目の前でマイクの顔に変わり、写真と双眼鏡ごしでしか見たことしかないハニーボールの顔になった。
それからサム・ワンの顔は、わたしが会ったことも話したこともないシシーの顔になり、レオの顔になった。それはあらゆる死者の顔であり、同時に誰の顔でもなかった。
サム・ワンの顔はそれから、わたし自身の顔へと変貌した。どうかこの光景が、疲労と緊張が見せた幻覚であることを祈りたい。
ふたたび銃声が響いた。ジョンの弾丸は、わたしをつかむサム・ワンの前腕部を正確に撃ち抜いていた。
落下しながらこちらを見上げたサム・ワンの最後の顔は、ジョンのものだった。
鈍い音とともにサム・ワンが地面に激突する。
のちに行われた検死でも、この暗殺者の正体を解明するには至らなかった。地面に激突した衝撃で顔が完全に破壊され、歯型や網膜の照合は不可能だったのだ。
生前の本人の施術によるものか、指紋もすべて削り取られていた。現在もDNA鑑定による照合が継続されているが、こちらの成果も期待できそうにない。
わたしは思う。サム・ワンとは、ジョンと合わせ鏡のような存在だったのではないか、と。
ジョンが目の不調を感じはじめたときにあらわれた暗殺者……目の見えないジョンにとって、サム・ワンはことさら特定することのできない「誰か」だったのではないか。あるいは、ジョンと似たような境遇のまま、幽霊のように世界の裏側を彷徨っていた存在なのかもしれない。
あるいは、炎を持つことのできなかったジョン・リップの成れの果て、それがサム・ワンだったのではないか。
ともあれ、サム・ワンは誰でもない誰かのまま、この世を去った。
男は迷いのない足取りで屋上のへりまで歩くと、立ち止まって携帯電話を取り出した。
すぐにわたしの携帯電話が鳴った。サム・ワンはこめかみにあてていた銃口をふって、わたしに電話をとるように促した。
「ジョン?」携帯電話を手に、わたしは訊ねた。
「リサか。待っていろ、いま助ける」
ジョンがそう言ったのを聞くと、サム・ワンはわたしに電話を切らせた。
わたしは相手の指示どおり携帯電話をポケットにしまい、屋上に立つジョンがケースからライフルを取り出すのを見守った。
サム・ワンもまた、彼が準備するのをじっと待っていた。無防備とさえ言える彼の不意を撃つことすらしなかった。
カルノーのペントハウスに訪れたときから気づいていたことだが、サム・ワンはこれこそが狙いだった。虚無の暗殺者はジョンにふたたび狙撃を失敗させるためにここを選んだのだ。
一昨日のわたしたちの会話は筒抜けだったし、事務所に置いてあった模型も見たはずだ。ジョンが最初の狙撃を失敗して以来、ここで仕事をするどころか、このあたりをうろつくこともできなくなったことを、やつは知っている。
サム・ワンはジョンがここでの狙撃にふたたび失敗し、絶望に打ちひしがれているところを殺そうとしているのだ。
ジョンは無駄のない動きでライフルの準備を終えると、伏射の姿勢でそれを構えた。サングラスをはずし、あの白い眼がスコープを覗きこむ。
悔しいが、わたしもサム・ワンと同じようにジョンが標的をはずす結果しか想像できなかった。
入念な下調べも、標的の場所を知る方法もここにはない。十九分署でのときのように、わたしがおとりになってジョンを手助けすることもできない。サム・ワンを狙う弾丸はあらぬ方向に飛び去るか、わたしだけに命中するだろう。
それでもジョンが狙撃に成功する以外、わたしに生き残る望みはなかった。
狙撃が失敗に終わったら、結果がどうであろうとサム・ワンはまずわたしを殺すはずだ。それからジョンを狙い撃つ。十九分署での負傷でライフルを持つことができなくても、競技用拳銃の精度とサム・ワンの腕前があれば、向かいの建物にいるジョンを撃つことなど造作もあるまい。
なにせジョンの恩人であるレオの言葉を借りれば、ここと向こうの距離など、狙撃手にとって「ちょっとした庭仕事」にすぎないからだ。
サム・ワンは、わたしの肩ごしにじっとジョンを見ていた。フードの奥で、あの恐ろしい笑い声が静かにぶり返していた。
わたしはジョンを見た。彼は、あの白い瞳をわたしに向けていた。
その瞬間、わたしから恐怖が消え去った。ジョンがわたしを見ていることに確信を持てたからだ。
時折、彼と話しているときなどにそう感じることはあったが、いまほど強くそう思えたことはなかった。
はじめてジョンと出会ったとき、盲目であるとわかるまでにかなりの時間を要したが、それは血の滲むような努力と経験によって、彼が自らに残された感覚を研ぎ澄ましていたからだ。
だがジョン・リップはいまこの瞬間、他の感覚で代補するのではなく、本当の意味で目が見えていた。
彼は見ていた。世界を、現在を、過去を、未来を、わたしを。
そして標的を。
ライフルが火を噴いた。ペントハウスの窓ガラスが激しい音とともに砕け散る。銃声が尾を引くなか、背後でサム・ワンの身体が跳ねるのを感じた。
わたしが反射的に身を低くするのと、サム・ワンの銃が弾丸を吐き出すのとはほとんど同時だった。サム・ワンの銃弾はわたしの頭上を越えて天井の一角にめりこんだ。
サム・ワンはフードの奥から血を吹き出した。毛皮が舞い、モッズコートの喉のあたりが生地よりもさらにどす黒い色に染まっていく。
サム・ワンは数歩ふらついたあと、突然わたしの手をつかんで窓のほうへと駆け出した。
咄嗟に倒れこまなければサム・ワンとともに空中へと投げ出されていただろう。それでもわたしの上半身は、窓枠からニューオーウェルの街路の真上へと乗り出していた。
サム・ワンはわたしの右手首をつかんだまま、ビルの壁にぶらさがっていた。
射撃場で抱き起こしたときはあんなに軽かった身体が、恐ろしいほど重くなっていた。まるで暗殺者の執念が実体を得たかのようだ。
脚が床の上を滑り、わたしの身体は窓枠から外へと徐々にせり出していった。銃を抜いてサム・ワンを撃とうにも、体重を支えるために突っ張った左手では自由がきかない。
「ジョン!」わたしは叫んだ。
そのとき、一陣の風が街を駆け抜け、サム・ワンの頭からフードを取り去った。その顔を見て、わたしは思わず息を呑んだ。
そこには死んだはずのエリック・マートンの顔があった。
だがそう見えたのはほんの一瞬(しかし右腕にかかるサム・ワンの重量を忘れるほど濃厚な一瞬)だった。
マートンの顔はさらにわたしの目の前でマイクの顔に変わり、写真と双眼鏡ごしでしか見たことしかないハニーボールの顔になった。
それからサム・ワンの顔は、わたしが会ったことも話したこともないシシーの顔になり、レオの顔になった。それはあらゆる死者の顔であり、同時に誰の顔でもなかった。
サム・ワンの顔はそれから、わたし自身の顔へと変貌した。どうかこの光景が、疲労と緊張が見せた幻覚であることを祈りたい。
ふたたび銃声が響いた。ジョンの弾丸は、わたしをつかむサム・ワンの前腕部を正確に撃ち抜いていた。
落下しながらこちらを見上げたサム・ワンの最後の顔は、ジョンのものだった。
鈍い音とともにサム・ワンが地面に激突する。
のちに行われた検死でも、この暗殺者の正体を解明するには至らなかった。地面に激突した衝撃で顔が完全に破壊され、歯型や網膜の照合は不可能だったのだ。
生前の本人の施術によるものか、指紋もすべて削り取られていた。現在もDNA鑑定による照合が継続されているが、こちらの成果も期待できそうにない。
わたしは思う。サム・ワンとは、ジョンと合わせ鏡のような存在だったのではないか、と。
ジョンが目の不調を感じはじめたときにあらわれた暗殺者……目の見えないジョンにとって、サム・ワンはことさら特定することのできない「誰か」だったのではないか。あるいは、ジョンと似たような境遇のまま、幽霊のように世界の裏側を彷徨っていた存在なのかもしれない。
あるいは、炎を持つことのできなかったジョン・リップの成れの果て、それがサム・ワンだったのではないか。
ともあれ、サム・ワンは誰でもない誰かのまま、この世を去った。