第一章 23

文字数 2,682文字

 一度は自宅に向きかけた足を転じて、わたしは二階の殺人課に立ち寄った。

 殺人課オフィスに同僚の姿はなかったが、わたしはさして驚かなかった。この時間帯、大抵ここはからっぽなのだ。

 リッチーとコンビを解消したあとも、わたしのデスクの位置は元のままだった。
 わたしは腰かけた椅子の背もたれに身をあずけると天井を見上げた。換気用のシーリングファンがぶらさがっていたが、回ってはいない。掃除もろくに行き届いていない警察署では、プロペラの上には埃がたくさんたまっていることだろう。
 マートン殺害の捜査から正式に外された挙句に自宅待機まで命じられた身にとって、差し当たり署内でできることはなにもない。胸中では、日々の激務からある意味で自由になったことへの解放感と、それに対する焦りとが拮抗していた。

 ふと誰かの声を耳にして、わたしは我に返った。

 慌てて跳ね起きたわたしの視界に殺人課オフィスの出入り口と、その先にある廊下と階段が飛び込む。すぐにその階段をのぼってきたリッチーと、彼の新しい相棒のマイクの姿が見えた。彼らが談笑しながら、まっすぐこちらへと向かってくる。

 選択の余地はなかった。
 わたしは机の上で両腕を組むと、それを枕に突っ伏した。隠れる時間もなければ、リッチーと顔を合わせる勇気もなかったからだ。そもそも一方的にコンビ解消を叩きつけておきながら、いまさらなんと言えるだろうか。

〝ごめんなさい、リッチー。わたしったら前の晩に恋人と別れたばかりで、すこし機嫌が悪かったの〟

 そんなふうにしおらしくしてみせるか? できるわけがない。

 寝たふりをきめこむわたしに、先に気がついたのはマイクだった。

「あれは……おいリサ、こんなところで寝てたら風邪ひくぜ」

 声が近づき、背中ごしに手がのびる気配がする。わたしは石のように動きを止めたまま、マイクの手が肩に置かれるのを待った。

「よせよマイク。リサだって疲れてるんだ」

 リッチーの声に、マイクの手が止まるのを感じる。彼の指先はかすかに肩に触れていた。
 マイクの手があと一インチ先に伸びていたら、わたしは観念するか下手な寝たふりを続けるかの選択を迫られていただろう。

「疲れてるったって、今日はいままでオフィスに顔を出してなかったんだぜ」
「おれたちとできるだけ顔を合わしたくないのさ。向こうっ気の強いお嬢ちゃんだからな」
「言えてるね」

 ふたりは笑いあった。本人が寝ているのをいいことに、頭の上で馬鹿げたやりとりをするふたりは遠慮がない。それでもわたしはじっと我慢し続けた。

「ところでリッチー、知ってるか?」ひとしきり笑ったあと、マイクが言った。「例のマートンの件、あの<ザ・ブラインド>の仕業だって噂だぜ」
「へえ、あの殺し屋のね」

 リッチーがふん、と鼻を鳴らす。すぐにわたしの隣の椅子が軋む音がした。椅子の背もたれに尻を置く彼の姿が脳裏に浮かぶ。立ち話となると、彼は普段からそうするのが癖だった。

「おれもやつに違いないと思うね」と、マイクが声を落として言う。「あんな芸当、そのへんの素人にできるもんじゃない」
「そいつを調べるのがおれたちの仕事だろ」リッチーの反応は素っ気ない。
「そう。だから刑事として可能性を検討した結果がやつなんだ。ところで、ケネディ大統領を暗殺したのもオズワルドじゃなくやつだって話だぜ」
「存在もしないやつの仕業だなんて、どうかしてる」
「やつのことは誰も知らないのさ。なにせ、会ったそばからみんな殺されちまうんだからな」
 リッチーはため息をつくと、「だったら、誰がそいつの噂を流してるんだ?」
「そこがミステリーなのさ」
 得意げに終えるマイクに、リッチーはため息を繰り返すと、「とにかく、もう一度事件を洗いなおそう」

 言いながらリッチーは隣の机の上になにかを置いた。突然耳元であがった物音に、わたしは身をすくませないようこらえた。

「抽斗にしまわなくていいのか?」
「いいさ。こんなもの誰が持っていくんだ。現金ならまだしも?」
「たしかにな」
「行こう。聞きこみがてら昼飯にしたい」

 ふたりの足音が消えたあとも、わたしはしばらくじっとしていた。
 やがて人の気配がしなくなったことに確信を得てから顔をあげると、まずリッチーの机に目を向けた。

 机にはファイル綴じされたマートン殺害事件の中間報告書が置いてあった。
 普段なら抽斗にしまって施錠までするリッチーが、捜査情報をこんなところに置きっぱなしにするのはめずらしい。私生活がだらしなくても、彼は仕事のそうした部分では真摯だった。

 わたしはしばらく見つめていたファイルを手にとると、ぱらぱらとめくりながら中身に目を通した。捜査からはずされた部外者という引け目はあったが、好奇心には勝てなかった。
 やはり捜査は難航しており、リッチーたちが地道な捜査を強いられていることはあきらかだった。自分もこの捜査の輪に加わっていたことが、ひどく昔のことのように感じられる。

 表通りに面した大窓が風でがたがたと揺れたのはそのときだった。吹き抜けに面した殺人課のオフィスからは、眼下に広がるメインロビーを柵越しに見下ろすことができ、空色の枠の大窓も見ることができた。

 わたしは肩をすくませながら周囲に視線をくばった。
 だがオフィスは相変わらず閑散としており、残っているわずかな人たちもわたしに目もくれない。それでも担当外の事件資料を盗み読む行為は、わたしをびくつかせるには充分だった。

 わたしはしばらく考えをめぐらせたあと、ファイルを手にオフィスの隅に置かれたコピー機へと向かった。ファイルからはずした資料を機械で読み込むそばから、おなじ内容が書かれた紙が印刷されていく。
 できあがった複写とファイルを持って自分のデスクに戻ったが、相変わらず誰もこちらには注目してこない。

 わたしは原本を元通りリッチーの机に置くと、自分の机の抽斗を開けた。
 抽斗の中には丸めた紙きれや得体の知れないがらくたが乱雑に詰め込まれている。わたしはその中からくしゃくしゃになった茶色い紙袋を引っ張り出した。
 去年のクリスマス時期、出費がかさんだわたしはこの紙袋に入れた大量のリンゴで飢えをしのいでいた。恋人のために奮発したプレゼントが金欠の大きな原因だった。もしもあの頃に戻れるのなら、わたしは過去の自分に近い将来その恋人と別れることを伝えてやりたい。

 そういえば<ノアズ・パパ>で別れを切り出されたとき、彼が着ていたのはあのときプレゼントしたコートだった。

 よみがえった思い出の不意打ちに、わたしの胸はしめつけられた。
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