第一章 15
文字数 1,869文字
「おいしかったよ」
<ノアズ・パパ>のカウンター席からそう声があがる。
恋人と別れた直後で途方に暮れていたわたしは、四杯目のコーヒーのおかわりをもらおうと持ち上げかけた右手をテーブルの上に戻した。
時計を見てはっとする。もうじき日付が変わる時間だった。
コーヒーポットを手にしたキャシーは頷いてみせたわたしにウィンクすると、踵を返してカウンター席に腰かける男性客のほうへ歩いていった。
「これで足りるかい?」
キャシーはカウンターにポットを置くと、男性の置いた金を数えた。
「ええ、ぴったりあるわ」
「それじゃあ、こっちはきみに」そう言って男性が紙幣を一枚差し出す。
「だめよ、こんなにもらえない」
「なに、先行投資さ。いつかブルーノートのステージに立ったら、最前列で歌を聞かせてくれればいい」
「けど……それじゃ、どうも。外まで送るわ」
「ありがとう」
そう言って男性はキャシーの差し出した手を握ると、スツールから足をおろした。職業柄、出口へ向かう横顔をつい目で追ってしまう。
四十がらみの男性。後ろに流した長い髪はごま塩で、服装も全体的にこざっぱりとはしていたが、顔に大きなサングラスをかけている。
直接会話したことこそなかったものの、わたしがこの男性を見たのは初めてではなかった。彼もまたこのダイナーの常連客だったからだ。
「やだ、今日も杖を持ってきてないのね」
「来る途中で質草に出したんだ。夕飯代を工面するためにね」
「嘘ばっかり」キャシーがくすくすと笑みをもらす。「お金だけならたんまり持ってるんでしょ。前にそう訊いたんだから」
「なら今度はロバでも引いてこようか」
キャシーとそんな冗談を言い合いながら、男性はダイナーの入り口まで歩いていった。
「それじゃあまたきてね、ミスター・ウェリントン」言いながらキャシーがドアを開けると、冷たい外気が流れこんできた。「夜道に気をつけて」
「わたしには夜も昼も関係ないがね。だがお心遣い感謝するよ、ミス・ディーヴァ」
颯爽とした足どりで店をあとにする男性を、キャシーは通りの角に消えるまで見送った。
「キャシー」腕組みをしながらこの光景の一部始終を見ていた店長のビルが声をかける。
キャシーは肩をすくめると、急いでカウンターにもどってコーヒーポットを手にした。
「ビルったら、ポットをカウンターに置くとああやってすぐ怒るのよ」言いながらキャシーがわたしのカップにコーヒーを注いでくれる。「焦げ跡がつくんですって。あんな古ぼけた天板、どこが焦げてるのかなんてわからないのに」
わたしはコーヒーで満たされたカップを引き寄せながら、「ずいぶん仲がいいのね」
「ミスター・ウェリントンのこと? ええ、彼は好きよ」キャシーの笑みがより一層華やぐ。「ツケにしろって言わないし、料理も残さない。それにどこかの誰かさんみたいにわたしのお尻にちょっかいもださないからね」
言いながらキャシーは、店の隅でいびきをかきはじめた中年男性を振り返った。
「それに、彼ってとても素敵なの。いつもわたしをおかしな冗談で笑わせてくれるわ。かといって騒がしくもないしね」
「それで? ミスター・ウェリントンの本名は?」
「これって事情聴取?」キャシーが冗談めかして言う。
「純粋な興味よ」
キャシーは肩をすくめると、「教えてくれないの。わたしが名前を知ったら最後、彼のことを忘れられなくなるんですって」
キャシーはそう言って微笑みながら手にしたコーヒーポットに視線を落とした。
「なるほど、ひとの失恋を尻目に人生を謳歌してるわけね」
茶化すわたしにキャシーは首を横に振ると、「そんなんじゃないわ。そもそも歳が離れすぎてるもの。わたしにとって彼は魅力的なおじさま。彼にとってわたしは若さだけが取柄のお嬢ちゃんよ」
冷静な分析にくわえて謙遜までしてみせるキャシーに思わず舌を巻いてしまう。
若さだけではない、卑屈さのかけらもなく明るく笑い飛ばしてみせるキャシーには沢山の取柄があるように思えた。少なくとも、すぐ頭に血がのぼるわたしよりもずっと大人だ。
「じゃあ、わたしもそろそろ行くわね」
そう言って席を立ったのは帰る頃合だったからというより、負けるとわかっていながらもついキャシーと自分を比べてしまうことがみじめで仕方なかったからだ。
それでも恋人と別れたばかりの身にとって、帰るタイミングはこれぐらい強烈なほうがいいのかもしれない。
代金を支払ったわたしは、ミスター・ウェリントンに五分と遅れず外に出た。より厳しさを増した寒さが、コーヒーで満たされた胃袋に染みた。
<ノアズ・パパ>のカウンター席からそう声があがる。
恋人と別れた直後で途方に暮れていたわたしは、四杯目のコーヒーのおかわりをもらおうと持ち上げかけた右手をテーブルの上に戻した。
時計を見てはっとする。もうじき日付が変わる時間だった。
コーヒーポットを手にしたキャシーは頷いてみせたわたしにウィンクすると、踵を返してカウンター席に腰かける男性客のほうへ歩いていった。
「これで足りるかい?」
キャシーはカウンターにポットを置くと、男性の置いた金を数えた。
「ええ、ぴったりあるわ」
「それじゃあ、こっちはきみに」そう言って男性が紙幣を一枚差し出す。
「だめよ、こんなにもらえない」
「なに、先行投資さ。いつかブルーノートのステージに立ったら、最前列で歌を聞かせてくれればいい」
「けど……それじゃ、どうも。外まで送るわ」
「ありがとう」
そう言って男性はキャシーの差し出した手を握ると、スツールから足をおろした。職業柄、出口へ向かう横顔をつい目で追ってしまう。
四十がらみの男性。後ろに流した長い髪はごま塩で、服装も全体的にこざっぱりとはしていたが、顔に大きなサングラスをかけている。
直接会話したことこそなかったものの、わたしがこの男性を見たのは初めてではなかった。彼もまたこのダイナーの常連客だったからだ。
「やだ、今日も杖を持ってきてないのね」
「来る途中で質草に出したんだ。夕飯代を工面するためにね」
「嘘ばっかり」キャシーがくすくすと笑みをもらす。「お金だけならたんまり持ってるんでしょ。前にそう訊いたんだから」
「なら今度はロバでも引いてこようか」
キャシーとそんな冗談を言い合いながら、男性はダイナーの入り口まで歩いていった。
「それじゃあまたきてね、ミスター・ウェリントン」言いながらキャシーがドアを開けると、冷たい外気が流れこんできた。「夜道に気をつけて」
「わたしには夜も昼も関係ないがね。だがお心遣い感謝するよ、ミス・ディーヴァ」
颯爽とした足どりで店をあとにする男性を、キャシーは通りの角に消えるまで見送った。
「キャシー」腕組みをしながらこの光景の一部始終を見ていた店長のビルが声をかける。
キャシーは肩をすくめると、急いでカウンターにもどってコーヒーポットを手にした。
「ビルったら、ポットをカウンターに置くとああやってすぐ怒るのよ」言いながらキャシーがわたしのカップにコーヒーを注いでくれる。「焦げ跡がつくんですって。あんな古ぼけた天板、どこが焦げてるのかなんてわからないのに」
わたしはコーヒーで満たされたカップを引き寄せながら、「ずいぶん仲がいいのね」
「ミスター・ウェリントンのこと? ええ、彼は好きよ」キャシーの笑みがより一層華やぐ。「ツケにしろって言わないし、料理も残さない。それにどこかの誰かさんみたいにわたしのお尻にちょっかいもださないからね」
言いながらキャシーは、店の隅でいびきをかきはじめた中年男性を振り返った。
「それに、彼ってとても素敵なの。いつもわたしをおかしな冗談で笑わせてくれるわ。かといって騒がしくもないしね」
「それで? ミスター・ウェリントンの本名は?」
「これって事情聴取?」キャシーが冗談めかして言う。
「純粋な興味よ」
キャシーは肩をすくめると、「教えてくれないの。わたしが名前を知ったら最後、彼のことを忘れられなくなるんですって」
キャシーはそう言って微笑みながら手にしたコーヒーポットに視線を落とした。
「なるほど、ひとの失恋を尻目に人生を謳歌してるわけね」
茶化すわたしにキャシーは首を横に振ると、「そんなんじゃないわ。そもそも歳が離れすぎてるもの。わたしにとって彼は魅力的なおじさま。彼にとってわたしは若さだけが取柄のお嬢ちゃんよ」
冷静な分析にくわえて謙遜までしてみせるキャシーに思わず舌を巻いてしまう。
若さだけではない、卑屈さのかけらもなく明るく笑い飛ばしてみせるキャシーには沢山の取柄があるように思えた。少なくとも、すぐ頭に血がのぼるわたしよりもずっと大人だ。
「じゃあ、わたしもそろそろ行くわね」
そう言って席を立ったのは帰る頃合だったからというより、負けるとわかっていながらもついキャシーと自分を比べてしまうことがみじめで仕方なかったからだ。
それでも恋人と別れたばかりの身にとって、帰るタイミングはこれぐらい強烈なほうがいいのかもしれない。
代金を支払ったわたしは、ミスター・ウェリントンに五分と遅れず外に出た。より厳しさを増した寒さが、コーヒーで満たされた胃袋に染みた。