第二章 40

文字数 2,918文字

「大丈夫か」

 ジョンが抱き起こそうとしてくれるが、身体に少しも力が入らなかった。
 リッチーのあの目には、普段けして見ることのなかった感情がないまぜになっていた。失意と落胆、そして憐れみ。
 それはリッチーの無気力な様子や、厳しい叱責以上にわたしの心に衝撃を与えた。そうでなくてもこの一ヶ月近くはまさに激動だったので、自分自身でも気づかないうちに神経が擦り減っていたのかもしれない。
 そして感情を露わにしたリッチーの存在は、そんなわたしにとどめをさすには充分だった。

「ねえ、ジョン」
「なんだ?」
「あなた、わたしにこの街を出て行くように言ったわよね」
「ああ。きみがこの仕事を受ける前にな。だがいまは事情が違う。もうきみはこの仕事を受けたんだし、わたしにはきみの助けが必要だ」

 ジョンは言いながらわたしを起こそうとしてくれた。だが、わたし自身は水のつまった袋のように重く、無力だった。

「リサ、故郷はどんなところだ?」ジョンがわたしの腕に手をまわしたまま訊いてくる。
「ウェストヴァージニア」

 故郷の名前を口にした瞬間、わたしはそこが遥か彼方にあるように思えてならなかった。<ルート79>を車で飛ばせば半日でつける地続きの距離に、空に浮かぶ月と同じくらいの隔たりを感じていた。

「帰りたいのか?」
 わたしはぐらつく頭で考えると、「わからない……でも、もうここにはいたくない」
「だったら立つんだ。そうすれば少なくともここから離れることはできる」

 わたしはどうにか立ち上がった。隣のジョンの姿を見て、自分自身を憐れまずにはいられなかった。

 それはとても身勝手な考えだったし、力になろうと奮闘してくれているジョンに対しても失礼だったことに違いはない。それでも遠く故郷を離れ、恋人に捨てられ、同僚からも見放されたいま、最後に残ってわたしを必要だと言ってくれたのがたったひとりの殺し屋だということが惨めでならなかった。

 うちひしがれてはいたが、それでもわたしは涙を流さなかった。
 この期におよんで、生前の父の言葉が枷となってわたしを縛りつけていた。

〝泣くな、リサ〟

 その言葉が胸の奥で反響するたび、涙をこらえようと心が重苦しい軋みをあげるのを感じる。

 わたしの精神は疑念と信頼のあいだで大きくぐらついていた。警察組織への、ジョン・リップへの、そして自分自身への信頼と疑念のあいだで……

 真実というロープが揺さぶられ、曲芸師であるわたしは潔く地面へ落ちることも、技能と経験でバランスを持ち直すこともできず、無様にロープにしがみつくことしかできなくなっていた。

 サム・ワンの存在もまた、わたしの苦悩を倍加させていた。
 殺人課の刑事という職業を通して、この街に潜む悪とは充分に対峙してきたつもりだった。
 だが人間の悪意の深さは底知れない。苦痛を与えるという目的の下、人の指を二十本すべて切り落して拷問にかけられるようなことができるのだから。

 サム・ワンは、その存在を知られる前からこれまでの一件に大きく関わっていたに違いない。そして暗殺者はいま、この瞬間もわたしたちをどこかで見ているのではないか。対してこちらは、相手の尻尾をつかむどころか、協力者まで手にかけられている。

「ジョン、お願いがあるの」わたしはポケットから車のキーを取り出した。この状況で身体に数箇所あるポケットから一度でキーを探し当てることができたのは奇蹟に近かった。「わたしの家まで送って」
「家まで送るのはいいが、わたしにハンドルを握れというのか?」

 ジョンは目の前で揺れるキーを見ながら……いやどうかしている、彼は見えないのだ。ジョンの人間離れした様子を目にするたび、わたしは彼にできないことはないと思い込んでしまう。まったく馬鹿げた考えだ。
 それでも、ジョンには金具と鍵が打ち合う音は聞こえているはずだ。

「無茶言うな」ジョンの答えは至極まっとうなものだった。「最初の一ブロックを越えられたら儲けものだ。しかも真昼間のニューオーウェルを目隠ししながら運転だなんて……自殺するようなものだぞ」
「そうかもしれない。でもそうじゃないかも。とにかくここから離れたいのよ。車ごと」
「よし、わかった。それならまずわたしたちだけでもどこかに移動しよう。車はそのあとでも――」
「おい、リサ! なにがあった?」

 ぶらさがるようにしてジョンの肩につかまったまま顔をあげると、店先でティムが立ち尽くしていた。応援を呼びに戻ってきたのか、規制線を越えようとする不届き者……大抵がいち早く駆けつけたマスコミ関係者だ……を追い払いにきたのか、はたまた差し入れのコーヒーとドーナツを用意する使いに出されたのか。
 とにかく現場をリッチーたちに委ねたのだろう。ティムは相棒の警官と一緒にあの凄惨な倉庫から抜け出していた。

 いや、もうひとり。ティムの相棒の後ろに隠れるように青年が付き添っていた。

「トチロウ……」

 呟くわたしに、トチロウはおずおずとこちらを向き、それからまた目を伏せてしまった。彼はそのままティムの相棒に連れ添われると、停車していたパトカーの後部座席におさまった。
 わたしは名前を呼んだきり、トチロウに声をかけることができなかった。あの若さみなぎる美青年は、一気に三十歳も老けこんだかのように憔悴しきっており、パトカーの窓越しに俯いたまま、身じろぎひとつしなかった。
 魂が抜けてしまったというより、堅い殻で自らの心を覆ってしまったかのようだ。

「心配するな」ティムはわたしたちの隣に立つと、ベルトに指をかけて言った。「いくつか質問したら帰すって、ベンソンさんが言ってた。もちろんここはしばらく封鎖するから親戚か、でなけりゃ知り合いの家に泊まる必要はあるがね。もちろん署内のロビーにいてもらっても構わない。まあもっとも、まともな返事ができるまでしばらくかかりそうだけどな……リサ、おまえはこれからどうするんだ?」
「家に帰る」

 わたしは無意識のうちにそう答えていた。それが大学そばの自宅アパートと故郷ウェストヴァージニアのつましい一軒家の、どちらをさしているかはこのさいどうでもよかった。

 それからわたしはジョンにうながされ、ここから離れようとした。

「ああ、そうだ」その一歩目を踏み出すや、ジョンがティムを振り返る。そこに先ほどまでの礼儀正しさはない。「彼女の車を頼む。家の駐車場まで運んでおいてくれ」

 ジョンがティムに放ってよこしたのは、わたしの手から取り上げた車のキーだった。

「おい、冗談言うな。そこまでやってやる義理はないぞ」
「だがあいにく彼女はこの状態だし、わたしもこのていたらくだ」ジョンは言いながら自分のサングラスを指さした。「管理人にバッジを見せれば中に入るのは容易いことだろう。ひょっとしたら駐車スペースまで案内してくれるかもな」

 頼んだぞ、と言いながら、ジョンは押しつけたキーをそのままに、ティムに背中を向けた。

「だから……おれはホテルマンじゃな言ってるだろ!」

 ティムの声が通りを反響するなか、街は夕暮れに染まっていた。
 同じ太陽の光でも今朝のハインラインで見たのとは違うそれは、わたしに死を連想させた。
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