第二章 72
文字数 2,321文字
寝室もやはり暗かった。独り身の部屋にしては大きめのベッドが置かれているだけで、それ以外の調度品はほとんどなかった。もともとは白かったのであろうシーツは黄ばんでおり、中心にはさらに深く、茶色の染みができている。ベッドの上や周囲には衣服やランジェリーが散乱していた。
枕の横には銀のトレイが置いてあり、その上に火であぶったような焦げ跡のついたスプーンがのっている。
ごとり。
ジョンがベッドに近づこうとすると、ふたたびあの物音がした。音のほうを向くと、薄茶けた室内にそぐわない、真っ白なドアが佇んでいた。
ジョンはドアへとゆっくり近づいていった。無意識のうちに足音もしのばせていた。壁際に身をあずけ、必要とあらばいつでも押し入れるようにドアノブを強く握る。
「シシー?」ジョンはふたたび声をかけた。「いるんだろう、返事をしてくれ」
ドアの向こうから呻きとも返事ともいえない声が聞こえた瞬間、ジョンは中に飛び込んだ。
そこは浴室で、寝室と同じぐらいの広さだった。
浴室の中心にも共用廊下と同じように陽だまりができており、それが一基のバスタブの表面で反射して輝いている。
そしてシシーは、そのバスタブの中にいた。深く身をあずけて頭だけをのぞかせ、ふちにひっかけた右足を宙に投げ出すさまは、まるでハンモックに寝そべって午睡を堪能しているかのようだ。
右足と同じように、右肩から先もバスタブの外にのびていた。脇でふちをはさみ、だらりとさげた指先が冷たいタイルをかすめるように揺れている。
床には回転式の拳銃が一丁、白いバスタブとコントラストを成すように黒く鈍い光を放っていた。
シシーの指が拳銃に触れると、彼女は思い出したようにそれを指先でつまみあげ、すぐに取り落とした。
ごとり、とあの音がはっきりとジョンの耳に届く。
シシーは拳銃を持ち上げようとしてはつかみそこね、こうして床に叩きつけていたのだ。
「どうしたんだ?」ジョンは笑いかけようとしたが、口の端がわずかにひきつっただけで失敗に終わった。「寝ぼけてるのか?」
言いながらシシーへと歩み寄る。自分の言葉が的外れなことはわかりきっていた。それでもジョンは嫌な予感に胸騒ぎをおぼえながらも、張りつけた笑顔を消せずにいた。
バスタブの中はシシーの身体以外空っぽだった。そこから見えた彼女の表情を目にして、ジョンは絶望が全身を満たしていくのを感じた。
シシーはよく笑う女性だった。
それも、世の中にはかくも色々な種類の笑顔があるのだとジョンに教えてくれるほどに、多様なバリエーションを披露してくれた。
大きな前歯をひけらかすロバの笑いにはじまり、その歯を隠して口を閉じたまま唇の両端を持ち上げる笑み、吐き捨てるように鼻であしらう皮肉笑いと、片方だけ持ち上げた口から白い歯をのぞかせる不敵な笑い……だが、いまのシシーはどの笑いも顔に浮かべていなかった。
いや、笑いだけではなかった。
いまのシシーにはどの表情も、剃刀でそぎ落とされたように消え失せていた。
瞳からは光が失われ、焦点がさだまっていない。半開きになった口から……あの笑顔の百面相を演出した表現力豊かな口から唾液がひとすじ流れ、力なくたるんだ顎の肉をつたい落ちていた。
シシーの左脚は立膝をつくようにしてバスタブのなかにおさまっていた。彼女はキャミソールを一枚身につけただけで、くるぶしのそばには注射器が数本転がっていた。
ろくな消毒や殺菌処理もされないまま繰り返し使われていたのだろう、注射器の針は皮脂と血液でうっすらと錆が浮いていた。
その直後、組織の浅はかな裏切り者と物別れに終わった娼婦とが、ジョンの脳裏でドラッグという最悪の符号によって結びつけられた。
もっとも、その数式は女主人から一連の話を訊いた時点ですでに予想できていたのかもしれない。
もはや確かめるまでもなかった。左足と同じくバスタブの中にある左肘の裏には、きっとおびただしい数の注射痕があるに違いない。
浴室にいたるまでに目にした光景にも合点がいった。
部屋の荒れ果てた様子、焦げ跡の残るスプーン……かつてシシーという屈託のない女性が生活を送っていたひとり住まいの部屋は、身を持ちくずした薬物中毒者の薄汚れたあなぐらになりさらばえていた。
ごとり、という音でジョンは我に返った。
シシーは相変わらず夢に半身をひたしているような表情のまま、拳銃を手にしようとむなしい努力を続けていた。
彼女は拾い上げた拳銃をどうするつもりなのだろうか。銃口をこめかみにあてて、この果てしなく繰り返される快楽と苦悶に終止符を打つつもりなのか。それとも、顔も忘れた突然の来訪者を追い払うために銃をふるうのか。
だがそれらを成し遂げる意志力を、いまのシシーは持ち合わせていなかった。もしかしたら、そもそも彼女は拳銃を拳銃として認識していないのかもしれない。意識の脈絡が存在しない世界にいる人間にとって、床に落ちたものを拾うという行為にはなんの意味もないのかもしれない。
〝カバの夢を見たわ〟
シシーとの会話がよみがえる。あのときから彼女はおかしくなっていたのか。それとも自分との言い争いが、たとえ遠因であったとしても彼女を壊してしまったのか。
もしそうだとしたら、自分はシシーにとってどれほどの存在だったのだろう。
いくつもの思考が形をとることもなくぐるぐるとまわっている。そうしたなかでジョンが最終的に行きついた思いはこれだった。
どうしてもっと早く気づいてやれなかったのか。
抜け殻のようになったシシーを……いや、かつてシシーと呼ばれた女性の抜け殻を見つめながら、ジョンは呆然と立ち尽くしていた。
枕の横には銀のトレイが置いてあり、その上に火であぶったような焦げ跡のついたスプーンがのっている。
ごとり。
ジョンがベッドに近づこうとすると、ふたたびあの物音がした。音のほうを向くと、薄茶けた室内にそぐわない、真っ白なドアが佇んでいた。
ジョンはドアへとゆっくり近づいていった。無意識のうちに足音もしのばせていた。壁際に身をあずけ、必要とあらばいつでも押し入れるようにドアノブを強く握る。
「シシー?」ジョンはふたたび声をかけた。「いるんだろう、返事をしてくれ」
ドアの向こうから呻きとも返事ともいえない声が聞こえた瞬間、ジョンは中に飛び込んだ。
そこは浴室で、寝室と同じぐらいの広さだった。
浴室の中心にも共用廊下と同じように陽だまりができており、それが一基のバスタブの表面で反射して輝いている。
そしてシシーは、そのバスタブの中にいた。深く身をあずけて頭だけをのぞかせ、ふちにひっかけた右足を宙に投げ出すさまは、まるでハンモックに寝そべって午睡を堪能しているかのようだ。
右足と同じように、右肩から先もバスタブの外にのびていた。脇でふちをはさみ、だらりとさげた指先が冷たいタイルをかすめるように揺れている。
床には回転式の拳銃が一丁、白いバスタブとコントラストを成すように黒く鈍い光を放っていた。
シシーの指が拳銃に触れると、彼女は思い出したようにそれを指先でつまみあげ、すぐに取り落とした。
ごとり、とあの音がはっきりとジョンの耳に届く。
シシーは拳銃を持ち上げようとしてはつかみそこね、こうして床に叩きつけていたのだ。
「どうしたんだ?」ジョンは笑いかけようとしたが、口の端がわずかにひきつっただけで失敗に終わった。「寝ぼけてるのか?」
言いながらシシーへと歩み寄る。自分の言葉が的外れなことはわかりきっていた。それでもジョンは嫌な予感に胸騒ぎをおぼえながらも、張りつけた笑顔を消せずにいた。
バスタブの中はシシーの身体以外空っぽだった。そこから見えた彼女の表情を目にして、ジョンは絶望が全身を満たしていくのを感じた。
シシーはよく笑う女性だった。
それも、世の中にはかくも色々な種類の笑顔があるのだとジョンに教えてくれるほどに、多様なバリエーションを披露してくれた。
大きな前歯をひけらかすロバの笑いにはじまり、その歯を隠して口を閉じたまま唇の両端を持ち上げる笑み、吐き捨てるように鼻であしらう皮肉笑いと、片方だけ持ち上げた口から白い歯をのぞかせる不敵な笑い……だが、いまのシシーはどの笑いも顔に浮かべていなかった。
いや、笑いだけではなかった。
いまのシシーにはどの表情も、剃刀でそぎ落とされたように消え失せていた。
瞳からは光が失われ、焦点がさだまっていない。半開きになった口から……あの笑顔の百面相を演出した表現力豊かな口から唾液がひとすじ流れ、力なくたるんだ顎の肉をつたい落ちていた。
シシーの左脚は立膝をつくようにしてバスタブのなかにおさまっていた。彼女はキャミソールを一枚身につけただけで、くるぶしのそばには注射器が数本転がっていた。
ろくな消毒や殺菌処理もされないまま繰り返し使われていたのだろう、注射器の針は皮脂と血液でうっすらと錆が浮いていた。
その直後、組織の浅はかな裏切り者と物別れに終わった娼婦とが、ジョンの脳裏でドラッグという最悪の符号によって結びつけられた。
もっとも、その数式は女主人から一連の話を訊いた時点ですでに予想できていたのかもしれない。
もはや確かめるまでもなかった。左足と同じくバスタブの中にある左肘の裏には、きっとおびただしい数の注射痕があるに違いない。
浴室にいたるまでに目にした光景にも合点がいった。
部屋の荒れ果てた様子、焦げ跡の残るスプーン……かつてシシーという屈託のない女性が生活を送っていたひとり住まいの部屋は、身を持ちくずした薬物中毒者の薄汚れたあなぐらになりさらばえていた。
ごとり、という音でジョンは我に返った。
シシーは相変わらず夢に半身をひたしているような表情のまま、拳銃を手にしようとむなしい努力を続けていた。
彼女は拾い上げた拳銃をどうするつもりなのだろうか。銃口をこめかみにあてて、この果てしなく繰り返される快楽と苦悶に終止符を打つつもりなのか。それとも、顔も忘れた突然の来訪者を追い払うために銃をふるうのか。
だがそれらを成し遂げる意志力を、いまのシシーは持ち合わせていなかった。もしかしたら、そもそも彼女は拳銃を拳銃として認識していないのかもしれない。意識の脈絡が存在しない世界にいる人間にとって、床に落ちたものを拾うという行為にはなんの意味もないのかもしれない。
〝カバの夢を見たわ〟
シシーとの会話がよみがえる。あのときから彼女はおかしくなっていたのか。それとも自分との言い争いが、たとえ遠因であったとしても彼女を壊してしまったのか。
もしそうだとしたら、自分はシシーにとってどれほどの存在だったのだろう。
いくつもの思考が形をとることもなくぐるぐるとまわっている。そうしたなかでジョンが最終的に行きついた思いはこれだった。
どうしてもっと早く気づいてやれなかったのか。
抜け殻のようになったシシーを……いや、かつてシシーと呼ばれた女性の抜け殻を見つめながら、ジョンは呆然と立ち尽くしていた。