第二章 21
文字数 2,374文字
「それで、今日はなんの用だ?」
「それなんだけど……」
わたしはわざとらしくなりすぎないよう髪をかきあげると、カウンターの上で組んだ腕に胸を乗せて上目遣いに相手を見つめた。
こうなったら当初の計画でいくしかない。相手がにきび面の若造ではなく、わたしの色気と胸の谷間がなけなしのものであっても、ほんの少しくらいはアルの気持ちをなびかせることくらいできないでもないかもしれない……やれやれ。
「例のマートンの件。あれの証拠品を見せてほしいの。リッチーから頼まれてね。もう一度洗いなおす必要があるんですって」
アルはわたしの胸元に視線を向けたが、すぐに顔を上げて眉をひそめた。
「ああ、リサ。言い出しにくいんだが、ボタンをひとつ留め忘れてるぞ。証拠品か……ちょっと待ってろ」
そう言って奥の保管棚に向かうアルの背中を見ながら、わたしは女としての自尊心を傷つけられたのを感じた。
アルは証拠品ボックスを手に、一分と経たずに引き返してきた。ブラウスのボタンを閉じ、素早く居住まいを正していたわたしは、やや引き攣った笑顔で彼をむかえた。
「ありがとう」
そう言って受け取ろうとしたボックスを、アルはカウンターの上には載せず、自分の手元、ちょうどトゥインキーの包み紙をおおうクリップボードの上に置いた。
「ちょっと、からかうのはやめてよ」
「おれだって冗談は言うが、仕事のときはほとんど口にしたことはない。あんたもそれは知ってるだろう。リッチーから頼まれただって? 嘘はいかん。こんな署内のすみっこで仕事をしていてもな、あんたがあの事件からはずされているのは知ってるんだ。リッチーから頼みごとをされてるのはおれのほうなんだよ、リサ。部外者に証拠品を渡すな、とね」
わたしは心の中で舌打ちした。真実味を足そうとついリッチーの名を出してしまった自分に腹が立ったが、それ以上に元相棒の手がそこまでまわっていたことに怒りすらおぼえた。
「リッチーにそんな権限があると思ってるの?」
「捜査責任者だからな。それにいい加減な男ではあるが、無責任なわけじゃない」
「わたしだって、マートン殺しの捜査に加わってたのよ」
「リサ」
アルの声は静かだったが、有無を言わせぬ圧力があった。同じ警察組織の者が死んだのだ。それはある種のタブーとして署内に広まっていた。そのタブーの張本人であるマートンのことさえつい軽々しく口にしてしまう。ジョンと過ごしてきた日々は、こうした当たり前のところでもわたしの刑事としての感覚を鈍らせている。
「嘘をついたことは謝るわ。でも、わたしだって捜査を邪魔するためにこんなこと頼んでるんじゃないの。担当からはずされても、なにかの役に立ちたいのよ」
「あんたひとりになにができるっていうんだ?」
「わからない。でも、いまのままじゃそれこそなにもできないわ」
わたしとアルはしばらく見つめあった。鉄扉の向こうで、留置者たちのくぐもった馬鹿笑いが聞こえてくる。
アルはため息をつくと、「見るだけだ。持ち出しちゃいかん」
そう言ってカウンターの上に証拠品ボックスを置いた。
「ありがとう」
事件に関する手がかりは少なく、証拠品ボックスもあまり大きくはなかったが、それでも中にはいろいろなものがおさまっていた。
ウィスキーグラス、銀縁眼鏡、それからアルミニウムの粉末でセロハンシートに採取されたマートンの指紋の写しまで。それらはジッパーつきのビニール袋で小分けにされ、現場写真とともに保管されていた。いまから約一ヶ月前、あの高級アパートで見た光景がわたしの脳裏で鮮やかによみがえる。
そうした中に、あの黄銅色の弾丸は紛れ込んでいた。
・四〇八シャイタック弾……マートンの脳組織を食い荒らし、命を奪った弾丸。あの日、事件現場で感じた手のひらの温かみは、どうやら冷たい保管室での眠りの中にあっても失われなかったらしい。
「リサ?」
アルのどこか気遣わしげな声に、わたしは我に返った。
「もういいか?」
「ええ、どうもありがとう」
わたしは弾丸の入った袋をカウンターの上に置くと、ほかの証拠品をひとつずつボックスにしまっていった。その様子を、アルは片時も目を離さず見張っていた。
「そいつもしまってくれ」アルは弾丸を指さして言った。
わたしは弾丸を右手で拾い上げると、「ねえ、リッチーは部外者に証拠品を渡すなって本当に言ってたの?」
「ああ、そうだ。さあ、戻してくれ」
「悲しいことだわ。よってたかってわたしを追いつめて。たしかに事件の担当じゃなくなったけど、それでもわたしは刑事よ。なのにあなたまでリッチーの企みに手を貸すなんて」
「そんなつもりはない」
そう言ったものの、アルの口調は自信なさげで、視線を逸らした横顔は苦々しいものだった。
「とにかく話は終わりだ。そいつを戻してくれ」アルが伏せていた顔を上げる。
「わかった……」
わたしはしぶしぶ応じると、左手のそれをアルに見せた。袋のなかでは相変わらず、弾丸が冷たい光を放っている。
すべての証拠品とともに弾丸をしまうと、わたしはボックスに蓋をした。ボール紙でできたボックスの側面には、ニューオーウェル市警の頭文字をあしらった<N.O.P.D>の文字と事件番号、証拠品の採取日時と犯罪の種類(殺人)が手書きと、タイプ打ちの文字でそれぞれ記入されている。
被害者の氏名は<マートン・E>。容疑者の氏名はいまのところ空欄だ。
「お菓子をありがとう。それに無理をきいてくれて」
「いいさ。だがおれとあんたは今日ここで会わなかった。それでいいな?」
わたしは頷いてアルにボックスを返すと、上着のポケットに手を突っ込んだまま保管室をあとにした。
背後からアルがわたしを呼び止めてくることはなく、留置所の制服警官も爪にやすりをあてたまま「どうも」と一声かけてくるだけだった。
「それなんだけど……」
わたしはわざとらしくなりすぎないよう髪をかきあげると、カウンターの上で組んだ腕に胸を乗せて上目遣いに相手を見つめた。
こうなったら当初の計画でいくしかない。相手がにきび面の若造ではなく、わたしの色気と胸の谷間がなけなしのものであっても、ほんの少しくらいはアルの気持ちをなびかせることくらいできないでもないかもしれない……やれやれ。
「例のマートンの件。あれの証拠品を見せてほしいの。リッチーから頼まれてね。もう一度洗いなおす必要があるんですって」
アルはわたしの胸元に視線を向けたが、すぐに顔を上げて眉をひそめた。
「ああ、リサ。言い出しにくいんだが、ボタンをひとつ留め忘れてるぞ。証拠品か……ちょっと待ってろ」
そう言って奥の保管棚に向かうアルの背中を見ながら、わたしは女としての自尊心を傷つけられたのを感じた。
アルは証拠品ボックスを手に、一分と経たずに引き返してきた。ブラウスのボタンを閉じ、素早く居住まいを正していたわたしは、やや引き攣った笑顔で彼をむかえた。
「ありがとう」
そう言って受け取ろうとしたボックスを、アルはカウンターの上には載せず、自分の手元、ちょうどトゥインキーの包み紙をおおうクリップボードの上に置いた。
「ちょっと、からかうのはやめてよ」
「おれだって冗談は言うが、仕事のときはほとんど口にしたことはない。あんたもそれは知ってるだろう。リッチーから頼まれただって? 嘘はいかん。こんな署内のすみっこで仕事をしていてもな、あんたがあの事件からはずされているのは知ってるんだ。リッチーから頼みごとをされてるのはおれのほうなんだよ、リサ。部外者に証拠品を渡すな、とね」
わたしは心の中で舌打ちした。真実味を足そうとついリッチーの名を出してしまった自分に腹が立ったが、それ以上に元相棒の手がそこまでまわっていたことに怒りすらおぼえた。
「リッチーにそんな権限があると思ってるの?」
「捜査責任者だからな。それにいい加減な男ではあるが、無責任なわけじゃない」
「わたしだって、マートン殺しの捜査に加わってたのよ」
「リサ」
アルの声は静かだったが、有無を言わせぬ圧力があった。同じ警察組織の者が死んだのだ。それはある種のタブーとして署内に広まっていた。そのタブーの張本人であるマートンのことさえつい軽々しく口にしてしまう。ジョンと過ごしてきた日々は、こうした当たり前のところでもわたしの刑事としての感覚を鈍らせている。
「嘘をついたことは謝るわ。でも、わたしだって捜査を邪魔するためにこんなこと頼んでるんじゃないの。担当からはずされても、なにかの役に立ちたいのよ」
「あんたひとりになにができるっていうんだ?」
「わからない。でも、いまのままじゃそれこそなにもできないわ」
わたしとアルはしばらく見つめあった。鉄扉の向こうで、留置者たちのくぐもった馬鹿笑いが聞こえてくる。
アルはため息をつくと、「見るだけだ。持ち出しちゃいかん」
そう言ってカウンターの上に証拠品ボックスを置いた。
「ありがとう」
事件に関する手がかりは少なく、証拠品ボックスもあまり大きくはなかったが、それでも中にはいろいろなものがおさまっていた。
ウィスキーグラス、銀縁眼鏡、それからアルミニウムの粉末でセロハンシートに採取されたマートンの指紋の写しまで。それらはジッパーつきのビニール袋で小分けにされ、現場写真とともに保管されていた。いまから約一ヶ月前、あの高級アパートで見た光景がわたしの脳裏で鮮やかによみがえる。
そうした中に、あの黄銅色の弾丸は紛れ込んでいた。
・四〇八シャイタック弾……マートンの脳組織を食い荒らし、命を奪った弾丸。あの日、事件現場で感じた手のひらの温かみは、どうやら冷たい保管室での眠りの中にあっても失われなかったらしい。
「リサ?」
アルのどこか気遣わしげな声に、わたしは我に返った。
「もういいか?」
「ええ、どうもありがとう」
わたしは弾丸の入った袋をカウンターの上に置くと、ほかの証拠品をひとつずつボックスにしまっていった。その様子を、アルは片時も目を離さず見張っていた。
「そいつもしまってくれ」アルは弾丸を指さして言った。
わたしは弾丸を右手で拾い上げると、「ねえ、リッチーは部外者に証拠品を渡すなって本当に言ってたの?」
「ああ、そうだ。さあ、戻してくれ」
「悲しいことだわ。よってたかってわたしを追いつめて。たしかに事件の担当じゃなくなったけど、それでもわたしは刑事よ。なのにあなたまでリッチーの企みに手を貸すなんて」
「そんなつもりはない」
そう言ったものの、アルの口調は自信なさげで、視線を逸らした横顔は苦々しいものだった。
「とにかく話は終わりだ。そいつを戻してくれ」アルが伏せていた顔を上げる。
「わかった……」
わたしはしぶしぶ応じると、左手のそれをアルに見せた。袋のなかでは相変わらず、弾丸が冷たい光を放っている。
すべての証拠品とともに弾丸をしまうと、わたしはボックスに蓋をした。ボール紙でできたボックスの側面には、ニューオーウェル市警の頭文字をあしらった<N.O.P.D>の文字と事件番号、証拠品の採取日時と犯罪の種類(殺人)が手書きと、タイプ打ちの文字でそれぞれ記入されている。
被害者の氏名は<マートン・E>。容疑者の氏名はいまのところ空欄だ。
「お菓子をありがとう。それに無理をきいてくれて」
「いいさ。だがおれとあんたは今日ここで会わなかった。それでいいな?」
わたしは頷いてアルにボックスを返すと、上着のポケットに手を突っ込んだまま保管室をあとにした。
背後からアルがわたしを呼び止めてくることはなく、留置所の制服警官も爪にやすりをあてたまま「どうも」と一声かけてくるだけだった。