第一章 32
文字数 3,195文字
それからしばらく、わたしたちは黙りこんだ。雄弁なのは、絶え間なく吹くビル風だけだった。
わたしは銃をおろすと、地面に転がっていた双眼鏡を取り上げた。レンズを太陽に向け、その反射光をハニーボールのオフィスに飛ばそうとしたのだ。ハンドバッグに手鏡でも入れておけばよかったが、あいにく手鏡どころか、ハンドバッグすら持っていない。
しかし標的までの距離はとんでもなく遠く、気づいてもらえる望みはとてつもなく薄かった。
おまけにわたしの双眼鏡の反射光は、周囲を取り巻くほかの多くの光によって埋もれていた。
朝日を受けたジュール街のビル郡は、前夜の星たちがそこをねぐらに休んでいるかのように無数のきらめきを宿していたのだ。その中にわたしの双眼鏡の光と、ジョンのスコープの光は紛れ込んでしまっていた。
絶望的な気分の中で、わたしはあることに気がついた。
ジョンは盲目なのだ。
この配管だらけの屋上をすいすいと進み、キャップを外したスコープを覗きこんだのを目にしたせいで、その重要な事実をすっかり失念していたが、それでも彼の目が見えないことに変わりはない。
仮に構えたライフルを撃ったとして、それが標的に命中させられるわけがなかった。
失った視力以外の感覚で熱や音で物を捉えることはできても、そもそもハニーボールはそんな熱も音も届かないはるか遠くにいるのだ。
盲人は虹を見ることができない。太陽を熱で、雨を音で感じることができても、純粋な光の反射作用でしかない虹は、視力を失っていたのでは目にすることができない。
ハニーボールもそうだ。彼はまさに、いまのわたしたちにとって虹なのだ。
「当てられるわけがない」わたしは言った。「そうでしょ? そんなこけおどしはやめて、いますぐ銃を置きなさい。そうすれば、ここで起きたことには目をつぶってあげるわ」
「どうかな」それからジョンは数学の教鞭でもとるかのように続けた。「ハニーボールがいる建物までの直線距離は三百三十二メートル。高低差は二十三・五メートル……五フロア分プラスハニーボールの眉間までの高さだ。角度はおよそ四度。スコープの零点規正は四百メートルで修正。風速は東南東へ毎秒四メートルで変わらず、左へ二十二センチ修正……」
数字を並べながら、ジョンの身体は正確に動いた。まるでその体内から、精密で力強い歯車の回転音が聞こえてくるかのようだ。さらに彼は目が見えていないにもかかわらず、スコープの目盛りまで調整してみせた。その姿にわたしは背筋が凍る思いだった。
この瞬間、盲目のジョン・リップは間違いなく標的を見ていた。
「ハニーボールは仕事をはじめる前、ウィスキーをひっかける。オン・ザ・ロック、愛用のバカラで毎回二杯ずつ。これは以前からずっと変わらない習慣だ。グラスを片手に彼はオフィスからの街並みを眺める。これも変わらない」
わたしは思わず双眼鏡を覗きこんでいた。
はたして、そこにはジョンの言うとおり、琥珀色の液体を注いだグラスをかたむけ、口元にかすかな笑みをたたえて街を見下ろすハニーボールの姿があった。
「すべてマートンの綿密な調査の賜物だ。いままでも彼に手抜かりはなかった。嫌なやつだったが、仕事は正確だったよ」
突如、わたしの横で銃声があがった。思わず肩をすくませたが、目はレンズにはりついたままだった。
一瞬遅れて、放たれた弾丸がオフィスの窓、ちょうどハニーボールの眉間の高さに正確に命中した。
だが、そこにはふたつの失敗もあった。
ひとつは弾丸がめりこんだだけで、窓を突き抜けなかったこと。当然だ、相手はニューオーウェル裏社会の巨魁アルベローニ・ファミリーの金庫番で、そんな彼を守るためなら組織は大枚を惜しまないはずだ。
オフィスの窓は防弾仕様で、ジョンのライフルに装填された弾丸では威力不足だった。
そしてもうひとつの失敗は、そもそも着弾点がハニーボールが立つ位置よりもたっぷり六フィート以上横にそれていたということだ。
「ジョン、失敗よ」わたしは言った。親切に教えてやる事でもなかったが。
「いや、ここからだ」ジョンは銃をおろそうとはしなかった。「あの窓が防弾ガラスになっているのはマートンが調査済みさ。ついでに彼は、標的の性格も詳細にまとめていた。臆病か、勇敢か。短気か、慎重か。ハニーボールの性格は、ひとことでいえば挑発的。それから好奇心も強い……これまで彼が受けた襲撃は一度や二度じゃない」
ジョンの言葉を聞きながら、わたしは双眼鏡でハニーボールの行動を見続けた。彼は突然窓にあらわれた巨大な蜘蛛の巣のようなひびに驚いたものの、すぐに居住まいを正して弾丸のめりこんだところへと歩み寄った。歩きながら胸元をしきりに気にしている。どうやら驚いた拍子にこぼしたウィスキーでシャツを濡らしてしまったらしい。
「以前もやつは銃撃を受けた。ただしそのときは散弾銃によるものだったが、やはり防弾ガラスに守られた。そして彼はある行動をとった。襲撃があるたび、何度も繰り返した趣味のようなものであり、次に命が狙われたときも無事でいられるための、いわばおまじないのようなものだ……リサ、やつはオフィスから逃げ出したか?」
わたしは無言だったが、ジョンはそれを肯定と受け取ったのだろう。
たとえ否定したり、実際にハニーボールが逃げ出したとしても、善後策は講じられているはずだ。ジョンと、この計画をお膳立てした亡きマートンの手によって。
はたしてハニーボールは弾丸の目の前で足を止めると、窓のほうへと向きなおった。その額は着弾点に近づけられている。
まるでどこにいるかはわからない、だが確実に彼を見ている狙撃手に対して、己の度胸を誇示しているかのようだ。もう一度ここに当ててみろ、とでも言うように。たしかに、彼があの窓の向こうにいるかぎり、ジョンはこれ以上手出しできそうにない。
これは喜ぶべきことなのだろうが、わたしの胸中は複雑だった。
「ジョン、無駄よ。何発撃ったところで、あの窓は割れやしないわ」
「いや、これを待っていたんだ。やつがしなくてもいいことをするのをね」ジョンは銃口をわずかにずらすと、静かに引き金をしぼりはじめた。「リサ。できることなら、きみにはここに来てほしくなかった」
ふたたび銃声。二発目の弾丸が標的へ飛ぶ数瞬のあいだ、わたしの肌は風向きがわずかに変わったのを感じていた。
直後、窓に巣食っていたひびがさらに大きくひろがり、同時にその白線が赤く染まった。ハニーボールが後ろへ倒れこむ。
不鮮明ながら、わたしの目はハニーボールが絶命する姿を焼きつけていた。彼の頭は気障ったらしく垂らしたその前髪ごと吹き飛んでいた。いや、切り刻まれたといったほうが正しいのかもしれない。まるで脳天を芝刈り機に突っ込んだかのようだった。砕けた窓ガラスと、一発目の弾丸が刃となって彼に襲いかかった結果だった。もちろん、二発目の弾丸もきっちりと仕事をこなし、標的をあやまたず撃ち抜いていた。
ハニーボールが倒れ、わたしの視界から姿を消す。唯一、窓枠からわずかにのぞく爪先だけが小刻みに震えていたが、それが命ある者の動きではないことはこの距離からでもあきらかだった。
双眼鏡のレンズで切り取られた舞台に、ふたたびあの美女が登場した。シャワーを浴びていたのだろうか、ぴったりと密着した服を脱ぎ去り、いまは洗いざらしの白いバスローブで身を包んでいる。
凄惨な現場を目の当たりにして、濡れた髪の奥で美しい容貌が歪んでいく。息を吹き返しつつある街の喧騒を縫うように、甲高い悲鳴がかすかにわたしの耳に届いた。
「命中か?」訊ねながらもジョンの口調は確信めいていた。
「ありえない」わたしはそれだけ言ったが、彼にとっての答えとしてはそれで充分だった。
「マートン、相変わらずいい仕事ぶりだ」
わたしは銃をおろすと、地面に転がっていた双眼鏡を取り上げた。レンズを太陽に向け、その反射光をハニーボールのオフィスに飛ばそうとしたのだ。ハンドバッグに手鏡でも入れておけばよかったが、あいにく手鏡どころか、ハンドバッグすら持っていない。
しかし標的までの距離はとんでもなく遠く、気づいてもらえる望みはとてつもなく薄かった。
おまけにわたしの双眼鏡の反射光は、周囲を取り巻くほかの多くの光によって埋もれていた。
朝日を受けたジュール街のビル郡は、前夜の星たちがそこをねぐらに休んでいるかのように無数のきらめきを宿していたのだ。その中にわたしの双眼鏡の光と、ジョンのスコープの光は紛れ込んでしまっていた。
絶望的な気分の中で、わたしはあることに気がついた。
ジョンは盲目なのだ。
この配管だらけの屋上をすいすいと進み、キャップを外したスコープを覗きこんだのを目にしたせいで、その重要な事実をすっかり失念していたが、それでも彼の目が見えないことに変わりはない。
仮に構えたライフルを撃ったとして、それが標的に命中させられるわけがなかった。
失った視力以外の感覚で熱や音で物を捉えることはできても、そもそもハニーボールはそんな熱も音も届かないはるか遠くにいるのだ。
盲人は虹を見ることができない。太陽を熱で、雨を音で感じることができても、純粋な光の反射作用でしかない虹は、視力を失っていたのでは目にすることができない。
ハニーボールもそうだ。彼はまさに、いまのわたしたちにとって虹なのだ。
「当てられるわけがない」わたしは言った。「そうでしょ? そんなこけおどしはやめて、いますぐ銃を置きなさい。そうすれば、ここで起きたことには目をつぶってあげるわ」
「どうかな」それからジョンは数学の教鞭でもとるかのように続けた。「ハニーボールがいる建物までの直線距離は三百三十二メートル。高低差は二十三・五メートル……五フロア分プラスハニーボールの眉間までの高さだ。角度はおよそ四度。スコープの零点規正は四百メートルで修正。風速は東南東へ毎秒四メートルで変わらず、左へ二十二センチ修正……」
数字を並べながら、ジョンの身体は正確に動いた。まるでその体内から、精密で力強い歯車の回転音が聞こえてくるかのようだ。さらに彼は目が見えていないにもかかわらず、スコープの目盛りまで調整してみせた。その姿にわたしは背筋が凍る思いだった。
この瞬間、盲目のジョン・リップは間違いなく標的を見ていた。
「ハニーボールは仕事をはじめる前、ウィスキーをひっかける。オン・ザ・ロック、愛用のバカラで毎回二杯ずつ。これは以前からずっと変わらない習慣だ。グラスを片手に彼はオフィスからの街並みを眺める。これも変わらない」
わたしは思わず双眼鏡を覗きこんでいた。
はたして、そこにはジョンの言うとおり、琥珀色の液体を注いだグラスをかたむけ、口元にかすかな笑みをたたえて街を見下ろすハニーボールの姿があった。
「すべてマートンの綿密な調査の賜物だ。いままでも彼に手抜かりはなかった。嫌なやつだったが、仕事は正確だったよ」
突如、わたしの横で銃声があがった。思わず肩をすくませたが、目はレンズにはりついたままだった。
一瞬遅れて、放たれた弾丸がオフィスの窓、ちょうどハニーボールの眉間の高さに正確に命中した。
だが、そこにはふたつの失敗もあった。
ひとつは弾丸がめりこんだだけで、窓を突き抜けなかったこと。当然だ、相手はニューオーウェル裏社会の巨魁アルベローニ・ファミリーの金庫番で、そんな彼を守るためなら組織は大枚を惜しまないはずだ。
オフィスの窓は防弾仕様で、ジョンのライフルに装填された弾丸では威力不足だった。
そしてもうひとつの失敗は、そもそも着弾点がハニーボールが立つ位置よりもたっぷり六フィート以上横にそれていたということだ。
「ジョン、失敗よ」わたしは言った。親切に教えてやる事でもなかったが。
「いや、ここからだ」ジョンは銃をおろそうとはしなかった。「あの窓が防弾ガラスになっているのはマートンが調査済みさ。ついでに彼は、標的の性格も詳細にまとめていた。臆病か、勇敢か。短気か、慎重か。ハニーボールの性格は、ひとことでいえば挑発的。それから好奇心も強い……これまで彼が受けた襲撃は一度や二度じゃない」
ジョンの言葉を聞きながら、わたしは双眼鏡でハニーボールの行動を見続けた。彼は突然窓にあらわれた巨大な蜘蛛の巣のようなひびに驚いたものの、すぐに居住まいを正して弾丸のめりこんだところへと歩み寄った。歩きながら胸元をしきりに気にしている。どうやら驚いた拍子にこぼしたウィスキーでシャツを濡らしてしまったらしい。
「以前もやつは銃撃を受けた。ただしそのときは散弾銃によるものだったが、やはり防弾ガラスに守られた。そして彼はある行動をとった。襲撃があるたび、何度も繰り返した趣味のようなものであり、次に命が狙われたときも無事でいられるための、いわばおまじないのようなものだ……リサ、やつはオフィスから逃げ出したか?」
わたしは無言だったが、ジョンはそれを肯定と受け取ったのだろう。
たとえ否定したり、実際にハニーボールが逃げ出したとしても、善後策は講じられているはずだ。ジョンと、この計画をお膳立てした亡きマートンの手によって。
はたしてハニーボールは弾丸の目の前で足を止めると、窓のほうへと向きなおった。その額は着弾点に近づけられている。
まるでどこにいるかはわからない、だが確実に彼を見ている狙撃手に対して、己の度胸を誇示しているかのようだ。もう一度ここに当ててみろ、とでも言うように。たしかに、彼があの窓の向こうにいるかぎり、ジョンはこれ以上手出しできそうにない。
これは喜ぶべきことなのだろうが、わたしの胸中は複雑だった。
「ジョン、無駄よ。何発撃ったところで、あの窓は割れやしないわ」
「いや、これを待っていたんだ。やつがしなくてもいいことをするのをね」ジョンは銃口をわずかにずらすと、静かに引き金をしぼりはじめた。「リサ。できることなら、きみにはここに来てほしくなかった」
ふたたび銃声。二発目の弾丸が標的へ飛ぶ数瞬のあいだ、わたしの肌は風向きがわずかに変わったのを感じていた。
直後、窓に巣食っていたひびがさらに大きくひろがり、同時にその白線が赤く染まった。ハニーボールが後ろへ倒れこむ。
不鮮明ながら、わたしの目はハニーボールが絶命する姿を焼きつけていた。彼の頭は気障ったらしく垂らしたその前髪ごと吹き飛んでいた。いや、切り刻まれたといったほうが正しいのかもしれない。まるで脳天を芝刈り機に突っ込んだかのようだった。砕けた窓ガラスと、一発目の弾丸が刃となって彼に襲いかかった結果だった。もちろん、二発目の弾丸もきっちりと仕事をこなし、標的をあやまたず撃ち抜いていた。
ハニーボールが倒れ、わたしの視界から姿を消す。唯一、窓枠からわずかにのぞく爪先だけが小刻みに震えていたが、それが命ある者の動きではないことはこの距離からでもあきらかだった。
双眼鏡のレンズで切り取られた舞台に、ふたたびあの美女が登場した。シャワーを浴びていたのだろうか、ぴったりと密着した服を脱ぎ去り、いまは洗いざらしの白いバスローブで身を包んでいる。
凄惨な現場を目の当たりにして、濡れた髪の奥で美しい容貌が歪んでいく。息を吹き返しつつある街の喧騒を縫うように、甲高い悲鳴がかすかにわたしの耳に届いた。
「命中か?」訊ねながらもジョンの口調は確信めいていた。
「ありえない」わたしはそれだけ言ったが、彼にとっての答えとしてはそれで充分だった。
「マートン、相変わらずいい仕事ぶりだ」