第二章 25

文字数 1,770文字

 わたしは思わず上体を反らして身を引いた。一瞬、ジョンに見つめられているように感じたからだ。彼と出会ってから、わたしは何度かこの感覚を味わっている。

「ああ、あと言い忘れていた。建物のそばには木立が何本か植えてある。種類まではわからないが、針葉樹だな」

 ジョンの口調は確信めいており、事実わたしの目に映る光景は彼の言ったとおりのものだった。

「どうしてわかるの?」
「観光ガイドを読んだのさ」
「ちょっと!」
 ジョンははにかむと、「嘘じゃない。複合的な情報さ。実際にここが完成する前から、できるかぎりの情報を仕入れている。建築物の全長に材質、道はどんな形をしているか、設置されたトイレの数も。そうした情報をあらかじめ頭に入れて、それから実際に歩いてみる。舌打ちしながら歩いていると不審がられるから、散策するのは大抵いまくらいの時間だ。そうして頭の中で風景を仕上げていくのさ。仕事でなければ、目的地までタクシーに乗ってもかまわない。
 さっきクリック音を出したとき、右側からの反響は速く、逆に左側はそぎ落とされていくような響き方をしていた。あとはあらかじめ仕入れておいた情報と照らし合わせればいい。木立が針葉樹だというのはそのにおいからわかる。鼻をつくようなにおいの強さから、木は一本だけでないことも一緒にね」
「芝生はどうやって? 音やにおいからじゃわからないんじゃない?」
「簡単な推理さ。たしかに芝生からの青臭さは針葉樹のにおいにまぎれてわからないが、まわりのロープがたわんだり、杭とぶつかる音がした。クリック音では前方にあるものをきみ以外に感じ取れなかったから、ロープの仕切りのなかにオブジェや芸術作品のたぐいはない。改装工事をする情報も入っていない。となると、考えられるのは養生中の芝生か花壇くらいのものだ」
「じゃあ、港の倉庫で銃撃戦をしたときも?」
「ああ、この方法を使った。さすがにマフィアの出入りする場所をうろつくことはできないからね。とはいえ、きみとあらかじめ倉庫に忍びこめたおかげで、予習は充分にできたが」

 ジョンはそう言ってふたたび歩きだした。わたしもそのあとをついていく。ジョンの言うことが本当なら、彼はあのとき、銃弾と怒号が飛び交うなか、自分のクリック音だけを聞き拾って相手と自分の位置を正確に把握していたということになる。

「あとはマートンの調査した情報と、街の模型も役立ってくれている」
「書斎のあの模型ね」
「ああ。あれはわたしの人差し指の幅で正味百メートルの縮尺になるよう特注してある。狙撃の場合、それであらかじめ標的との位置関係を確認しておくんだ」

 わたしは事務室でジョンが模型の建物のあいだを人差し指でおさえていく姿を思い浮かべた。着色されていない、白一色の模型。
 色が塗られていない理由を問われれば答えは単純だ。目の見えないジョンが色彩にこだわる必要がどこにある?

 それからわたしは、ふと模型の中にぽっかりとあいた空白地のことを思い出した。あの建物二棟分の空白のことだ。
 だがそれを問おうとするより先に、ジョンが先に口をひらいた。

「これから馴染みの銃砲店に行こう。そこで弾丸を鑑定してもらうんだ」
「銃砲店?」わたしは口にしかけた質問をそう切り替えた。

 銃を扱うジョンにいきつけの銃砲店があることは当然ともいえるが、驚くべきは盲目の彼に銃を売ってくれる店があるということだ。
 それに、これからと聞いてわたしは自分の服装をあらためた。ジョギング用のシューズと防寒用のスパッツの上には短いジョガーパンツ、上半身は薄手のナイロンジャケット。スポーツ仕様のミラーグラスとグローブ、ポーチなどをこまごましく身につけ、かぶったキャップの後ろからは束ねた髪が突き出ている。朝の運動にはもってこいの格好だが、これで街をうろつくのはいささか気恥ずかしいものがある。

「いまはその、ちょっと都合が悪いわ」
「もう仕事の時間かい?」
「いいえ……ああ、登庁時間ではあるんだけど。それよりも着の身着のままで街を出歩く格好じゃないのよ」
「ああ。そういえばいつもと衣擦れの音が違うな。だが、いまの服装ならその靴でも似合うよ」

 ジョンが足を止める様子はなかった。わたしは観念すると、少しでも見栄えをよくしようと上着のファスナーを目一杯引き上げ、彼についていった。
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