第二章 42

文字数 1,997文字

「わたしの家に行こう」

<ホワイトフェザー>から数ブロック歩いたところでジョンはそう言った。
 わたしはといえば、それに対して気の利いた返事のひとつもできず、ただジョンにうながされるままニューオーウェルの街をふらふらと歩いていた。ハニーボールの狙撃に立ち会ったときとほとんど同じ状態だった。

 いや……あのときとくらべて、わたしにまとわりつく死の影はいっそう濃くなっていた。

 ジョンの事務所でいつもの籐椅子をあてがわれたわたしは、そこでようやくピントが調整されるように、ずれた現実がひとつの像となって重なり合っていくのを感じていた。

 ジョンのアンティークデスクごしに窓の外を見ると、紫の空には星の光が慎ましくちらつきはじめている。

「すこしは落ち着いたか?」キッチンから顔を出したジョンが言った。

 わたしは口を開きかけたが、結局黙ったまま小さく頷いた。
 そんなわたしを知ってか知らずか、盲目のジョンは大きく頷いた。彼は食器類を載せたトレイを持ってわたしの後ろをまわりこむと、定位置であるアンティークデスクにそれを置いて自分も椅子に深く腰かけた。

「もうすぐ蒸らし終わる」言いながらジョンはトレイに載ったティーポットに手をかざした。立ちのぼる湯気に手が触れると、彼はふたたび頷いた。「安い茶葉だが、案外いけるんだ。さあ、どうぞ」

 ジョンがカップに注いでくれたのは紅茶だった。
 白い湯気の下できらめく琥珀色の液体が顔を覗かせる。わたしはカップに両手をそえると、火傷に気をつけながら慎重にひとくちすすった。

 ひどい味だった。紅茶自体の味は悪くはなかったが、それに隠れてなにやら薬品めいた苦みがある。

「これって……」
「やっと話す気になったみたいだな。そう、ウィスキーだよ」
「信じられない」

 あきれるわたしをよそに、ジョンはウィスキー入りの紅茶をせっせとすすっていた。
 このいかれた味覚で、振舞われたビールによくもけちをつけられたものだ。そう思いながらも、わたしはもうひとくち紅茶をすすった。
 味の不協和音に顔をしかめながら、さらにもうひとくち。そう繰り返しているうちに、わたしはとうとう中身を平らげてしまった。自宅のキッチンでの光景が、今度は立場を逆にジョンの書斎で繰り返されていた。

 わたしがカップを受け皿に置いた音を聞くなり、ジョンは抽斗から取り出したウィスキーを大さじ二杯分ほどそこに溜めた。その上から湯気をあげている紅茶をふたたび注ぐ。
 その温かさか、はたまた隠し味のアルコールが効いたからか、二度目にカップの底が見えるときには、身も心もすっかり緊張がほぐれていた。

 ああ、駄目だ……そう思ったときにはもう遅かった。
 喉が詰まるような感覚とともに、飲みくだしたウィスキーよりもさらに熱い呼気が体内からわきあがる。
 そうした苦しさをこらえようとした直後、わたしの視界はたちまち曇りだし、大粒の涙が次から次へと流れ出してきた。
 ジョンと出会ってから……いや、父が死んでからためこんでいたなにかが、堰をきってあふれだした。

「リサ?」

 訊ねるジョンをよそに、わたしは声をあげて泣いた。人目もはばからず、子供のように泣いた。
 ジョンに泣き声を聞かれても気にはならなかった。それどころか、目の前にいる彼の存在は完全に意識の外にあった。

 落ち着くまではしばらくかかった。なにせ幼少期から溜めこんだものを吐き出したのだから。
 涙を吸ってしみだらけになった袖口から顔をあげると、窓の外ではすっかり夜の帳がおりていた。その前に腰かけるジョンは相変わらず静かだった。まるでわたしのヒステリーなどなんとも思っていない様子だ。

「笑いたければ笑いなさいよ」わたしは言った。声が震えてまともに話せないだろうと覚悟していたが、多少鼻声だっただけで予想よりもしっかりと喋ることができた。「そのためにわたしをここまで連れてきたんでしょ?」
「勘違いするな、もうきみの散らかりきった部屋に行きたくなかっただけだ」わたしの言いがかりをジョンは軽くあしらった。
「そうよ。部屋は散らかり放題、おまけに女らしさのかけらもないから恋人にも捨てられた。それもこれも刑事でいるための、仕方のない犠牲だと割り切ってた。いいえ、割り切ってるつもりだった。ところが現実はもっと情けないわ。わたしは刑事にすらなれていない。刑事になる資格なんてなかったのよ!」

 ふたたび感情の昂ぶったわたしにも、ジョンは相変わらず冷静な態度のままだった。慰めるでも励ますでもなかったが、ある意味で見守るようなその態度はいまのわたしにとってはありがたかった。
 わたしはカップに残った紅茶を浮いていた細かな茶葉ごと飲み干すと、制服警官から刑事になったいきさつまでを一息に話した。
 ジョンは相槌を打つことも質問をはさむこともなかったが、そのおかげでかえってわたしは淀みなく話すことができた。
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