第二章 28

文字数 1,867文字

 わたしたちはトチロウに別れを告げると、店を出た。

「彼に任せて平気なの?」

 店先でわたしはジョンに訊ねた。通りは出勤する人々で賑わいはじめていた。

「ああ。トチロウも彼の祖父も、仕事はきっちりこなす人間さ。少々性格にむらっ気はあるがね」

 たしかに、知らなかったこととはいえ弔意を述べた相手の死を数分後には冗談に変えてしまうのだ。若さを勘定に入れたとしても、それを〝むらっ気〟のひとことで片付けるには少々寛大すぎるのではないだろうか。

「とにかく、わたしの家に引き返そう」
「ちょっと待って。いい加減この格好でうろつきたくはないんだけど。それよりも、よかったらわたしの家に来ない? ここからならあなたの家よりも近いし」

 わたしの提案にジョンは眉根を寄せた。だがわたしはそれに構わず彼に手をのばした。

「行きましょ」ジョンの手をとりながら言う。
「リサ、女性がむやみにそういう提案をするものじゃ……」

 ジョンが抗議の声をあげたものの、わたしはさっさと暖かな自宅に帰りたい一心だったので彼の言葉を聞こうとしなかった。

 男性をひとり暮らしの家に強引に連れ込んだという事実に遅まきながら気づいたわたしがばつの悪い思いをしたのは、自宅の前に着いたときだった。
 それからジョンをキッチンに待たせてシャワーを浴びている途中で、こうしたデリカシーの無さも冬の終わりに恋人から別れを切り出された原因のひとつなのではないかと思い至り、忘れかけていた失恋の痛みがしばらくぶりにちくちくとよみがえってきた。

 しかしシャワーは冷えた心と身体に充分な癒しをもたらしてくれた。
 ジョンを待たせ、自分の身を清めているあいだに。わたしは汗を吸ったランニングウェアを洗濯にまわした。

 おかしな感覚だった。別れた恋人ですら、わたしの家に訪れたことはなかった。
 いや、恋人だけではなく、同僚をはじめどれだけ親しい仲の人でさえもわたしの家にあがることはなかった……ただしリッチーたちが親しい間柄にあたるのかどうかはわからないが。
 これまでのわが家の探索記録保持者は、凍結で破裂した水道管の修理に来た配管工のふたりだった。だが、その記録は今日をもってやぶられようとしている。
 わたしはジョン・リップを自宅へ招かれただけでなく、あまつさえ家主がシャワーを浴びているあいだ、キッチンで自由にくつろがせてまでいるのだから。

 シャワーを終えたわたしは浴室を出ると、タオルで身体についた水滴をぬぐった。洗濯機はそのあいだも自らの仕事をこなしている。このまま自動乾燥までやってくれるはずだが、衣類は最低でもそこから三日間はドラムの中で寝かされるだろう。
 わたしは洗濯機の隣に置いてあるかごから新しい衣類を一式取り出した。この中身が空になれば、洗濯機に囚われていた服たちはめでたく釈放となる。

「世間はあくせく働いてるっていうのに、わたしはいい気なもんね。連絡を待っているあいだはこうして家でゆっくりシャワーを浴びられるんだから」

 服を身に着けたわたしはスリッパをつっかけ、タオルで髪を乾かしながらキッチンに入った。
 ジョンはダイニングテーブルについて窓からさしこむ午前中の陽を浴びていた。

「それはそうと、この家は少し散らかりすぎていないか? お招きのところけちをつけるようで申し訳ないが」
「どうせこの部屋の有様は見えないでしょう?」わたしはむっとして答えた。
「見えないが、ほかの感覚でわかるさ。音の反響具合で部屋が狭く感じるし、換気も怠っているようだな。それに物が散らかっている」
「そんなこと……」
「さっきこれにつまづいた」

 そう言ってジョンがつまみあげたのはわたしのブラジャーだった。
 黒のレースをあしらった、元恋人のために少し背伸びして買ってみたものの、結局試しに身に着けたきりの代物……ついでに言えば、お披露目の機会には一度も恵まれなかった。

 それでもわたしのブラジャーだ。
 わたしはタオルを投げ捨ててジョンに詰め寄ると、ひったくるようにそれを取り返した。

「なに考えてるのよ!」
「それはこっちの台詞だ。よくこんなものが出しっぱなしの家に人を呼ぼうと思えたもんだ。独り身なら部屋はつねに片付けておくべきだろう。刑事ならなおさらさ。もしもきみが殉職して、遺品整理なりなんなりで誰かがここに来てみろ。きっとこう言うぞ『おえっ! なあ、本当にあいつは死んだんだよな? こんなところでも生きられたっていうのに?』」
「面白い冗談ね」

 わたしはにこりともせずにブラジャーを丸めると、寝室に投げ込んでドアを閉めた。
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