第二章 51

文字数 2,936文字

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 その日、ジョンの前にあらわれたのはふたりの男だった。
 ひとりは痩せぎすで猫背気味の小男。もうひとりは眼光の鋭い壮年男性だった。

「こいつか」小男がジョンを見て言った。「写真で見る以上のへなちょこ小僧だな」

 ジョンを商品として閉じこめていたマフィアの売人が肩をすくめる。
 ジョンと売人、そして彼らの客であるふたりの男たちは、人身売買組織の息がかかったパブにいた。生まれてはじめて座る革張りのソファの感触に驚くこともできず、ジョンの身体は緊張でかたくなったままだった。

「あんたの要望どおりだよ。おれたちが扱っているなかでは一番安い小僧だ。おつむの出来は悪い、腕力もない。おまけに女でもなけりゃ器量よしでもない。だから安いのさ」

 言いながら売人は片手でジョンの肩を抱き寄せると、もう片方の手で持ったグラスを傾けた。グラスには琥珀色の酒が注がれており、そのむせかえるような香りに少年のジョンは頭がくらくらした。

「だがな……なんでもないってことは、裏を返せばなんにでもなれるっとことさ。要は仕込み方次第だ。あんたがたのお気に召すままってやつさ」
「交渉はまとまってるんだ。いまさら見えすいたセールストークはいらねえよ」テーブルの向こう側にいる小男が言う。
「それもそうだな。だがね、あんたいい買い物をしたよ」

 売人はジョンを突き放すように解放すると、傍らの鞄から薄っぺらい書類を取り出した。書類にはクリップで一枚の写真がくくりつけられており、その中で少年が虚ろな表情でこちらを見つめ返している。

「クソッタレな契約書なんぞどうだっていいだろ」小男が言う。「屋敷を買うわけじゃねえんだぜ」
「そうはいかない。最初の取り決め通りにいこうや」それから売人はこう付け足した。「うちは信用第一なんだ。で、信用ってのはこういう書類のことを言うんだ」

 ジョンは書類に貼られた写真の少年のことをよく知っていた。ほかでもない、自分の顔だからだ。
 三日前に写真を撮られたとき、ジョンは自らの行く末を理解した。普段はまず見せることのない笑顔を浮かべて売人が子供たちにシャッターを切るのは、なにも裏に祝辞を書いたメッセージカードを贈るためではない。
 写真は買い手のついた子供の契約書に添付されるものだ。その光景を雑居房の片隅で見つめ続けていたジョンは、写真におさめられることの意味を知っていた。そしてとうとう、ジョン自身が被写体になるときがやってきたのだ。

 写真の中のジョンは、幽霊のように青白く虚ろな表情をしていた。まるで閉ざされたフレームの中から死ぬまで出られない己の運命を静かに呪っているかのようだ。
 そしてその呪いは、いまもってしてジョン本人についてまわっていた。諦めという名の呪いが。

 結局のところ、ジョンの世界はどこまで行っても閉ざされたままだ。そこが雑居房であろうと写真の中であろうと変わらない。彼は世界の片隅で終身刑を受けた囚人のままだ。
 そしてそれは、栄華を極めるこの大都市ニューオーウェルにいるいまでも変わらない。過去をすべて語り終えたとき、ジョンはわたしにそう言った。

 買い手がついたときでさえ、それはジョンたちのように売り買いされる子供たちにとっては自由を意味していなかった。
 そもそも彼らには最初から約束された自由などないのだ。顔写真と数枚の書類で彼らの身辺は把握され、買い手と初めて会うのは売買契約が完了したあとだ。
 相手がどんなに血も涙もない悪人であろうと、サディストの変態であろうと、一度下された決定に逆らうことはできない。

 目の前の男たちが善人か悪人かは知る由もなかったが(そもそも善人は人身売買をしようとなんて考えないだろう)、ただひとつ確実に言えたのは、あの小男が書類にサインをしたら最後、自分はいよいよ取り返しのつかないことになる、ということだけだった。

 そしてジョンにとっては、それだけわかれば充分だった。

「ピーノ、考えなおすんだ」

 声をかけられ、小男……ピーノのペン先が紙の上で止まる。口を開いたのは、それまで彼の隣で腕を組み、ずっと黙り込んでいた眼光の鋭い男だった。

「聞き間違いかな?」ピーノはペン先を紙にあてたまま、わざとらしく首をかしげ、片方の眉を持ち上げてみせた。「だったらいいんだが……レオ、いまおれになにか言ったか?」

 ピーノは静かな態度の内側から、激しい苛立ちを陽炎のように揺らめかせていた。ジョンは思った。いまにこの男は手にしたペンを逆に握りなおして、相手の目玉をほじくりだすぞ、と。

「考えなおせ、と言ったんだ」ピーノの感情など意に介さず、眼光の鋭い男……レオは繰り返した。

 ピーノはため息をつくと、ゆっくりとペンを置き、次の瞬間レオに飛びかかった。胸倉をつかみ、鼻が触れあうほどの距離でレオを睨みつける。

「たかだか見張りの分際で調子に乗るなよ」
「相談役だ」レオは静かに言った。
「どっちだっていい。兄貴のお気に入りだかなんだか知らねえが、いまはおれの部下なんだ。余計な口出しするんじゃねえ」
「おい、厄介事は……」売人が止めようとする。
「てめえは黙ってろ!」

 ピーノが怒鳴ると、立ち上がりかけていた売人はおとなしくジョンの隣に腰を降ろした。
 当面のあいだはペンで目玉をほじくりだされることはなさそうだが、それでもジョンは、レオがピーノにしこたま殴られる想像を振り払えなかった。日頃から理由の有無にかかわらず売人から折檻を受けている彼が、そんな予想をするのは簡単だった。

 だが、そうはならなかった。やたらと凄んでいたものの、ピーノが劣勢であることが徐々にジョンにも理解できた。事実、このべらべらと喋っていたピーノの闘志は、レオと睨みあっているそばから見る間にしぼんでいった。
 それから十秒と経たないうちに、レオはその鋭い眼光だけで、胸倉をつかむピーノの両手を引き剥がしてしまった。彼は指一本触れることなく、相手を引き下がらせたのだ。

「次にまた文句を言ってみろ。おまえの尻を蹴り上げてやるからな」ピーノはそう言ったものの、ぶつぶつと続けるその様子は自らの負けを認めようとしな言い訳にしか聞こえない。「おい、これじゃあ書けねえぞ」

 ふたたびペンを拾い上げたピーノが売人に言う。書名欄がインクを吸って、大きな染みを作っていたのだ。

「まるで犬の糞だ。おい、信用第一なら替えの契約書ぐらいあるんだろ。さっさと出しな」

 売人がすぐさまもう一枚の書類を出したため、取引が中止になることはなかった。
 だが、ジョンは自らの行く末など意識すらしていなかった。
 ただ目の前で腕を組み、遠くを眺めるようにして座るレオの姿に魅せられていた。

 ジョンの目にはレオがまるで魔法使いのように映った。上等なスーツをばっちりと着た、睨むだけで相手を意のままに操ってしまう魔法使い。
 ジョンは売人にもピーノにも恐怖しか感じなかったが、このレオという男にはもっと別の感情を抱いていた。

 レオの眼、静かな立ち居振る舞い、壮年の顔立ちに刻まれた歴史を感じさせるしわ。
 ジョンはレオに男としての憧れを抱いていた。それは少年が、長い幽閉生活のなかではじめて持てた、生き生きとした感情だった。
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