第二章 47
文字数 2,490文字
イヤーマフがもたらす静寂か、ジョンのアドバイスか、それともウィスキー入りの紅茶で得た酩酊状態のおかげか、糸を寄り合わせるように、わたしは少しずつ集中することができた。
まばたきを忘れるほど標的を見つめていると、意識からジョンの存在がまず消えた。
それからジョンの家が消え、ニューオーウェルの街が消え、故郷のウェストヴァージニアも消えた。北米大陸が消え、大西洋と太平洋も消え失せ、北半球から南半球、ついには地球そのものが消えた。
そしてわたし自身も消えた。レーンを仕切るパーテーションのように、わたしを区切っていた肉体という概念からも解き放たれ、わたしは自分が自分でなくなるような感覚に飲み込まれた。
これはジョンの教えの賜物だろうか、それともわたし自身も気づかなかった能力の扉が開いたのか。いまや存在するのは銃と、標的だけだった。
その標的の顔が、見たこともないはずのサム・ワンのものに変わっていた。
やつがマートンとミヤギ氏を殺した。そう考えると、霧のようだったわたしの肉体から引き金にかかった人差し指だけが異様なまでの質感をもって世界に姿をあらわした。
銃声がくぐもって聞こえたのは、イヤーマフのせいだけではなかったのだろう。
夢を見ているような感覚のなか、わたしは冷静に引き金を引いた回数を数えていた。七まで数えると、わたしは熱をおびた銃を台の上にそっと戻した。
イヤーマフをはずすと、直後に世界は元通りになった。
地球も、アメリカ合衆国も元に戻り、わたしもジョンと一緒に彼の家の地下にいた。
手元に戻ってきた的をあらため、ジョンは満足げに頷いた。
わたしの放った銃弾七発のうち、はずれたのは一発だけで、それも紙の余白に穴を空けていた。人型に命中した六発はそれぞれ頭と首筋にひとつずつ、あとは胴体に四つの穴を空けていた。相手が生きている人間なら、弾丸は確実に命を奪っていただろう。
「上出来だ」
口元を緩めるジョンに対して、わたしは素直に喜べなかった。
自分にこれほどの集中力があったことに驚いたのもあるが、人型がサム・ワンに思えたとき、心の奥底からおぞましい感情がわきあがったのを感じたからだ。
わたしは頭の中の箱に、しっかりと蓋をする光景を想像した。そうでもしなければ、たがのはずれた感情が一気に吹き出して叫びだしてしまいそうだったからだ。
「きみはつくづく、どうしようもないな」だしぬけにジョンが言う。わたしが反論するより先に彼は続けた。「やればできるのにそのことに気づかない。これほどの射撃の腕と、悪に立ち向かうガッツと、正義をまっとうしようとする情熱があるんだ……きみは刑事に向いているよ。わたしが保証する。まあ殺し屋の戯れ言だがね」
思いがけないジョンの言葉に、わたしはまたぞろ感情があふれそうになるのをこらえなくてはならなかった。ただし今度は箱にしまいたくなるようなものではない、美しいとわかる感情だった。
高ぶった感情をごまかすように、わたしはレーンに新しい的を流すと、狙いを定める間もあらばこそ引き金をしぼった。弾丸はどれもあさっての方向に飛び去り、ただの一度も的をかすめなかった。
集中が途切れていたのもあるが、なにより視界がにじんで標的をうまくとらえられなかったのだ。どうやらウィスキー入りの紅茶の効き目はまだ続いているらしい。長年こらえつづけていた涙も、一度ダムが決壊してしまったあとでは脆いものだ。
わたしは撃ち終えた銃を置くと、ゆっくりと深呼吸した。それでどうにか涙がこぼすことだけはおさえられた。
「あなたのことを聞かせて」気がつけば、わたしはそう口を開いていた。
「わたしの……なんだって?」ジョンが問いかえす。
「あなたのことよ。べつに生い立ちを話してほしいわけじゃない。あなたのことならなんでもいいの。好きな音楽とか、嫌いな食べ物とか」
「いや、しかし……」
「お願いよ」言いよどむジョンにわたしは詰め寄った。「わたしはもう全部話したじゃない」
「まいったな。これはとんだ不意打ちだ」
ジョンは眉根を寄せたまま、そっぽを向いた。その仕草はまるで目が見えているかのようだ。それだけではない、彼はさらにわたしに背を向けて歩くことまでしたのだ。
ジョンは背を向けたまま、銃器の並んだガラスケースに両手をついた。そこにはもう往年のバーテンのような立ち居振る舞いは存在していない。
「画家になるのが夢だった」どれぐらいそうしていただろうか、ジョンがそう呟いた。「目がこうなるよりずっと前に持っていた夢で、そもそも夢と呼べるかどうかも疑わしいがね」
「へえ、油絵かなにか?」わたしは訊ねた。先ほどまでべそをかいていたにもかかわらず、自分でも驚くほど朗らかな声音だった。
「そんなにたいしたものじゃない。歳が片手で足りるような子供のときに持っていた夢さ」
ジョンはそれきり黙りこんだ。わたしは彼がふたたび話しだすのをじっと待った。
心に大きなつかえがあり、ジョンがいまそれを吐き出そうとしているのが手に取るようにわかった。わたしの憐憫が彼をそう見せたのではない。ただ佇む彼の姿が、先ほど書斎で自分の過去を告白したわたしとそっくりに見えたのだ。
「わたしが生まれたのは……」言いかけて、ジョンは咳払いをひとつした。「駄目だ。喉が渇いて仕方ない。リサ、ひとつ頼まれてくれないか」そう言って彼はカウンターの向こう側を指さすと、「奥にフリーザーがある。中身を何本か持ってきてくれ」
言われたとおりにカウンターに入ったわたしは、突きあたりの壁に小型のフリーザーが置かれているのを見つけた。
ガラス張りの前面は内部との温度差で曇っており、年季のはいったラジエーターが唸りをあげるたびにゴムパッキンにたまっていた水滴がその表面を滑り落ちるので、いびいつな縞模様がいくつもできていた。
縞模様の隙間から中を覗くと、ガラス壜が王冠を乗せた頭を整然と並べているのが見える。わたしはガラス張りのドアを開けると、片手に持てるだけの壜を取り、もう片方の手でフリーザーの傍らに置かれた栓抜きをつかんだ。
まばたきを忘れるほど標的を見つめていると、意識からジョンの存在がまず消えた。
それからジョンの家が消え、ニューオーウェルの街が消え、故郷のウェストヴァージニアも消えた。北米大陸が消え、大西洋と太平洋も消え失せ、北半球から南半球、ついには地球そのものが消えた。
そしてわたし自身も消えた。レーンを仕切るパーテーションのように、わたしを区切っていた肉体という概念からも解き放たれ、わたしは自分が自分でなくなるような感覚に飲み込まれた。
これはジョンの教えの賜物だろうか、それともわたし自身も気づかなかった能力の扉が開いたのか。いまや存在するのは銃と、標的だけだった。
その標的の顔が、見たこともないはずのサム・ワンのものに変わっていた。
やつがマートンとミヤギ氏を殺した。そう考えると、霧のようだったわたしの肉体から引き金にかかった人差し指だけが異様なまでの質感をもって世界に姿をあらわした。
銃声がくぐもって聞こえたのは、イヤーマフのせいだけではなかったのだろう。
夢を見ているような感覚のなか、わたしは冷静に引き金を引いた回数を数えていた。七まで数えると、わたしは熱をおびた銃を台の上にそっと戻した。
イヤーマフをはずすと、直後に世界は元通りになった。
地球も、アメリカ合衆国も元に戻り、わたしもジョンと一緒に彼の家の地下にいた。
手元に戻ってきた的をあらため、ジョンは満足げに頷いた。
わたしの放った銃弾七発のうち、はずれたのは一発だけで、それも紙の余白に穴を空けていた。人型に命中した六発はそれぞれ頭と首筋にひとつずつ、あとは胴体に四つの穴を空けていた。相手が生きている人間なら、弾丸は確実に命を奪っていただろう。
「上出来だ」
口元を緩めるジョンに対して、わたしは素直に喜べなかった。
自分にこれほどの集中力があったことに驚いたのもあるが、人型がサム・ワンに思えたとき、心の奥底からおぞましい感情がわきあがったのを感じたからだ。
わたしは頭の中の箱に、しっかりと蓋をする光景を想像した。そうでもしなければ、たがのはずれた感情が一気に吹き出して叫びだしてしまいそうだったからだ。
「きみはつくづく、どうしようもないな」だしぬけにジョンが言う。わたしが反論するより先に彼は続けた。「やればできるのにそのことに気づかない。これほどの射撃の腕と、悪に立ち向かうガッツと、正義をまっとうしようとする情熱があるんだ……きみは刑事に向いているよ。わたしが保証する。まあ殺し屋の戯れ言だがね」
思いがけないジョンの言葉に、わたしはまたぞろ感情があふれそうになるのをこらえなくてはならなかった。ただし今度は箱にしまいたくなるようなものではない、美しいとわかる感情だった。
高ぶった感情をごまかすように、わたしはレーンに新しい的を流すと、狙いを定める間もあらばこそ引き金をしぼった。弾丸はどれもあさっての方向に飛び去り、ただの一度も的をかすめなかった。
集中が途切れていたのもあるが、なにより視界がにじんで標的をうまくとらえられなかったのだ。どうやらウィスキー入りの紅茶の効き目はまだ続いているらしい。長年こらえつづけていた涙も、一度ダムが決壊してしまったあとでは脆いものだ。
わたしは撃ち終えた銃を置くと、ゆっくりと深呼吸した。それでどうにか涙がこぼすことだけはおさえられた。
「あなたのことを聞かせて」気がつけば、わたしはそう口を開いていた。
「わたしの……なんだって?」ジョンが問いかえす。
「あなたのことよ。べつに生い立ちを話してほしいわけじゃない。あなたのことならなんでもいいの。好きな音楽とか、嫌いな食べ物とか」
「いや、しかし……」
「お願いよ」言いよどむジョンにわたしは詰め寄った。「わたしはもう全部話したじゃない」
「まいったな。これはとんだ不意打ちだ」
ジョンは眉根を寄せたまま、そっぽを向いた。その仕草はまるで目が見えているかのようだ。それだけではない、彼はさらにわたしに背を向けて歩くことまでしたのだ。
ジョンは背を向けたまま、銃器の並んだガラスケースに両手をついた。そこにはもう往年のバーテンのような立ち居振る舞いは存在していない。
「画家になるのが夢だった」どれぐらいそうしていただろうか、ジョンがそう呟いた。「目がこうなるよりずっと前に持っていた夢で、そもそも夢と呼べるかどうかも疑わしいがね」
「へえ、油絵かなにか?」わたしは訊ねた。先ほどまでべそをかいていたにもかかわらず、自分でも驚くほど朗らかな声音だった。
「そんなにたいしたものじゃない。歳が片手で足りるような子供のときに持っていた夢さ」
ジョンはそれきり黙りこんだ。わたしは彼がふたたび話しだすのをじっと待った。
心に大きなつかえがあり、ジョンがいまそれを吐き出そうとしているのが手に取るようにわかった。わたしの憐憫が彼をそう見せたのではない。ただ佇む彼の姿が、先ほど書斎で自分の過去を告白したわたしとそっくりに見えたのだ。
「わたしが生まれたのは……」言いかけて、ジョンは咳払いをひとつした。「駄目だ。喉が渇いて仕方ない。リサ、ひとつ頼まれてくれないか」そう言って彼はカウンターの向こう側を指さすと、「奥にフリーザーがある。中身を何本か持ってきてくれ」
言われたとおりにカウンターに入ったわたしは、突きあたりの壁に小型のフリーザーが置かれているのを見つけた。
ガラス張りの前面は内部との温度差で曇っており、年季のはいったラジエーターが唸りをあげるたびにゴムパッキンにたまっていた水滴がその表面を滑り落ちるので、いびいつな縞模様がいくつもできていた。
縞模様の隙間から中を覗くと、ガラス壜が王冠を乗せた頭を整然と並べているのが見える。わたしはガラス張りのドアを開けると、片手に持てるだけの壜を取り、もう片方の手でフリーザーの傍らに置かれた栓抜きをつかんだ。