第二章 44
文字数 2,139文字
「きみは若かったんだろう」ジョンは言った。「若いから感受性に富んでいたし、同時に飽きっぽくもあった。立ち直りの早さこそ若さの特権だ。そうでなくても、憎しみや悲しみを抱えながら生きていくのは恐ろしくエネルギーが要ることだ」
まったくそのとおり。わたしはいつしか悲劇のヒロインでいることに飽きてしまったのだ。
わたしは無言のまま頷いたが、ジョンはどうやらその鋭い感覚で気づいてくれたようだ。
「あとは……これがいちばんの理由ではあるんだけど……一度だけ仕事をしているときの父とベンの姿を見たことがあるの。同じ制服で、ふたりで並んでいる姿を。さっきも言ったようにベンのことは顔も覚えてないんだけど、その表情には父への最大の尊敬と信頼がこもっているように見えたことは覚えてる。幼かったから、そんな言いまわしも知らなかったわけだけどね。それでも、そのときの光景がきらきらした思い出として、いまでもわたしの頭の中に強く残ってるの。
これは確かめようのないことだけど、もしあのときふたりが逆の立場だったら……父が勇んで向こう見ずなことをしでかしていたら、きっとベンが父の身代わりになっていたかもしれない。そう思えてならなかった。
それでわたしは結論を出したの。
それがいつだったのか、高校を卒業する前なのか、それとも父が亡くなってすぐになのか。ううん、ひょっとすると制服姿で並んで立つ父とベンの姿を見たときから、わたしの心は決まっていたのかもしれない。
わたしも警察官になろう。祖父と父と、そしてベンのような警察官に。
母は猛反対したわ。父が亡くなってから感情の起伏が激しくなっていたけど、あのときにくらべたら普段の癇癪なんてましなほうだったわ。
日常的なヒステリーが小火騒ぎだとすれば、まるで火山でも噴火したかのようだった。
それでもわたしは自分の主張を押し通した。なにより生まれてはじめてできた目標だったし、それまで避け続けていた母の目をまっすぐ見ることができたから。
その目にはたしかに怒りや悲しみもあったわ。でも、それとは別にずる賢いような、なにかきらりと光るものもあった。それがわたしと母を縛りつける最大のものだとわかった。
母は、自分が感情を爆発させさえすれば、いつだってわたしがそばにいると思っていたのよ。
わたしはわたしで母をまともに見ようとしていなかったから、そんな思惑に気づけなかった。
母はわたしに甘えていたのよ。そしてわたしも、そんな彼女に寄りかかっていた。
母の本心を知っても、わたしは彼女を憎んだりはしなかった。それどころか彼女に対してある確信を持つことができたわ。
母は想像していたよりもずっと強い人で、わたしがいなくてもひとりで生きていけるって……そう思ったのは、高校を卒業してすぐあとのことだった。実際いまでも母は故郷の家にひとりで住んでるわ。週末になれば教会へ行くか、町で催されるガラクタ市の実行委員を担えるぐらい元気なのよ。
母の本心が見えたわたしはといえば、故郷から遠く離れたこの街で警察官になることを決めると、ろくな準備もせずに家を出たわ。母をひとりにしても大丈夫だってことはわかりきってはいたけど、それでも決心を鈍らせないためにそうしたの。
もちろん出発する前の夜は、ひとり残していく母のことを考えてほとんど眠れなかった。
わたしの祖父も警察官と言ったでしょ? でも祖父は父とは血のつながりはない、母方の祖父だったのよ。幼馴染だった母の父親に憧れて、わたしの父は警察官を志したの。わたしが生まれる前に祖父は亡くなったんだけど、やはり父と同じように殉職だった。
つまり母は警察官の娘であると同時に、妻としても愛する人を亡くしたの。それもふたりも。
そのうえひとり娘からも彼らと同じ道を進むと言われてしまった。母に計算高いところがあったとしてもつらい気持ちに変わりはないし、そんな事情を知っていれば、家族として心苦しくもあるわ。
それでもわたしは故郷を離れたの。でも一丁前の口をきいてはみても、わたしには高い志もなければ揺るぎない信念があったわけでもない。わたしはただ逃げ出したのよ。だって警察官になるだけなら、故郷にだって働き口はいくらでもあったもの」
わたしは紅茶をすすりながら、この街に来たときのことを思い出していた。
警察になるための勉強に追われながら、当面の仕事と住む家を探すのに必死になっていた日々。
身体ひとつで飛び込んでもどうにかなるとたかをくくっていた自分の甘さ。
それでも努力の甲斐あってか、最初の受験で合格を勝ち取り、もろもろの条件をクリアしてニューオーウェル市の配属が決まったこと。
その思い出ひとつひとつが、真珠のネックレスがほどけるように心の奥から次々に転がり出していった。
「結局わたしはまだ、自分が望んでいたような人間じゃないの。警察官になれたのはあくまでも結果論。逃げ続けた先にやっとお情けであてがわれた場所なのよ」
そうしめくくったわたしは、カップに残った琥珀色の液体にじっと視線を落とした。
ジョンはやおら立ち上がると、換気のために開け放っていた背後の窓を閉めた。夜気はわたしたちのいる部屋を冷たく占領しはじめていた。
まったくそのとおり。わたしはいつしか悲劇のヒロインでいることに飽きてしまったのだ。
わたしは無言のまま頷いたが、ジョンはどうやらその鋭い感覚で気づいてくれたようだ。
「あとは……これがいちばんの理由ではあるんだけど……一度だけ仕事をしているときの父とベンの姿を見たことがあるの。同じ制服で、ふたりで並んでいる姿を。さっきも言ったようにベンのことは顔も覚えてないんだけど、その表情には父への最大の尊敬と信頼がこもっているように見えたことは覚えてる。幼かったから、そんな言いまわしも知らなかったわけだけどね。それでも、そのときの光景がきらきらした思い出として、いまでもわたしの頭の中に強く残ってるの。
これは確かめようのないことだけど、もしあのときふたりが逆の立場だったら……父が勇んで向こう見ずなことをしでかしていたら、きっとベンが父の身代わりになっていたかもしれない。そう思えてならなかった。
それでわたしは結論を出したの。
それがいつだったのか、高校を卒業する前なのか、それとも父が亡くなってすぐになのか。ううん、ひょっとすると制服姿で並んで立つ父とベンの姿を見たときから、わたしの心は決まっていたのかもしれない。
わたしも警察官になろう。祖父と父と、そしてベンのような警察官に。
母は猛反対したわ。父が亡くなってから感情の起伏が激しくなっていたけど、あのときにくらべたら普段の癇癪なんてましなほうだったわ。
日常的なヒステリーが小火騒ぎだとすれば、まるで火山でも噴火したかのようだった。
それでもわたしは自分の主張を押し通した。なにより生まれてはじめてできた目標だったし、それまで避け続けていた母の目をまっすぐ見ることができたから。
その目にはたしかに怒りや悲しみもあったわ。でも、それとは別にずる賢いような、なにかきらりと光るものもあった。それがわたしと母を縛りつける最大のものだとわかった。
母は、自分が感情を爆発させさえすれば、いつだってわたしがそばにいると思っていたのよ。
わたしはわたしで母をまともに見ようとしていなかったから、そんな思惑に気づけなかった。
母はわたしに甘えていたのよ。そしてわたしも、そんな彼女に寄りかかっていた。
母の本心を知っても、わたしは彼女を憎んだりはしなかった。それどころか彼女に対してある確信を持つことができたわ。
母は想像していたよりもずっと強い人で、わたしがいなくてもひとりで生きていけるって……そう思ったのは、高校を卒業してすぐあとのことだった。実際いまでも母は故郷の家にひとりで住んでるわ。週末になれば教会へ行くか、町で催されるガラクタ市の実行委員を担えるぐらい元気なのよ。
母の本心が見えたわたしはといえば、故郷から遠く離れたこの街で警察官になることを決めると、ろくな準備もせずに家を出たわ。母をひとりにしても大丈夫だってことはわかりきってはいたけど、それでも決心を鈍らせないためにそうしたの。
もちろん出発する前の夜は、ひとり残していく母のことを考えてほとんど眠れなかった。
わたしの祖父も警察官と言ったでしょ? でも祖父は父とは血のつながりはない、母方の祖父だったのよ。幼馴染だった母の父親に憧れて、わたしの父は警察官を志したの。わたしが生まれる前に祖父は亡くなったんだけど、やはり父と同じように殉職だった。
つまり母は警察官の娘であると同時に、妻としても愛する人を亡くしたの。それもふたりも。
そのうえひとり娘からも彼らと同じ道を進むと言われてしまった。母に計算高いところがあったとしてもつらい気持ちに変わりはないし、そんな事情を知っていれば、家族として心苦しくもあるわ。
それでもわたしは故郷を離れたの。でも一丁前の口をきいてはみても、わたしには高い志もなければ揺るぎない信念があったわけでもない。わたしはただ逃げ出したのよ。だって警察官になるだけなら、故郷にだって働き口はいくらでもあったもの」
わたしは紅茶をすすりながら、この街に来たときのことを思い出していた。
警察になるための勉強に追われながら、当面の仕事と住む家を探すのに必死になっていた日々。
身体ひとつで飛び込んでもどうにかなるとたかをくくっていた自分の甘さ。
それでも努力の甲斐あってか、最初の受験で合格を勝ち取り、もろもろの条件をクリアしてニューオーウェル市の配属が決まったこと。
その思い出ひとつひとつが、真珠のネックレスがほどけるように心の奥から次々に転がり出していった。
「結局わたしはまだ、自分が望んでいたような人間じゃないの。警察官になれたのはあくまでも結果論。逃げ続けた先にやっとお情けであてがわれた場所なのよ」
そうしめくくったわたしは、カップに残った琥珀色の液体にじっと視線を落とした。
ジョンはやおら立ち上がると、換気のために開け放っていた背後の窓を閉めた。夜気はわたしたちのいる部屋を冷たく占領しはじめていた。