第二章 80
文字数 1,532文字
カウンターに戻っても小銭と紙幣はそのまま置かれており、シシーは相変わらず頭をまわしながら神との対話を続けていた。
ジョンはシシーからひとつ離れた席に男を座らせると、自分はそのあいだのスツールにおさまった。
「世話をかけたな」
ジョンは腰かけるなりバーテンにそう言った。相手は無言で首を横に振った。その顔には恐怖をわずかに上回る程度の敵意があらわれていたが、当面のところなにか事を構える様子はなさそうだった。
「もう少しだけここで待たせてもらう。ウィスキーを、そうだな……ストレートのダブルで。あんたは?」
ジョンが訊ねても、男はなにも答えなかった。時間が経ってさらに腫れがひどくなった顔からも、意気消沈している様子が窺えた。
「こいつにも同じものを」それからシシーを見て、「いや、もうひとつ。ストレートのダブルを全部で三つだ」
バーテンは返事もせず、棚にたくさん並んだ酒瓶から一本を選んだ。
ジョニー・ウォーカーのブラックラベルだった。ここまで苦労して歩いてきたジョンにうってつけの銘柄のように思えたし、とっておきのアイロニーにも思えた。
バーテンの手際は驚くほどよかった。彼は太鼓腹がつかえそうなほど狭いカウンターの中、ポアラーを使って寸分の狂いなく三つのグラスに同量の酒を注ぐと、さらに水を入れたグラスも手早く三つ用意した。
「飲めよ」
ジョンは促したが、男は無言のままだった。
「どうした?」
「手が後ろにまわってるのに飲めるかよ」
ジョンは得心して頷いた。そうだったな、と言いながら席を立って男の後ろにまわりこむと、拘束を解いてやった。
「馬鹿なことは考えるなよ」スツールに戻りながらジョンは言った。「いまのおれは紙おむつが必要な爺さんといい勝負だが、それでも脚を折ったおまえに追いつくのなんてわけないんだ。わかったら飲めよ。次にいつこいつを飲めるかわからないぞ」
男はグラスにゆっくりと手をのばした。縛られていたせいですじを痛めたのだろう、途中で顔をしかめながら肩をすくませたが、手にしたグラスの中身をこぼすことなく口に運んだ。
「おれはこれからどうなる?」アルコールをたっぷり含んだ吐息とともに男が問いかける。
「知らない」ジョンは同じ答えを繰り返した。
「そうか」男は言うなり、グラスの残りを一気にあおった。
それきりジョンと男は黙りこんだ。シシーは精根尽きたのか、カウンターに突っ伏して苦しげな寝息をたてていた。
奇妙なひとときだった。こうしてカウンターで肩を並べていると、朝までともに飲み明かした友人同士のようでさえあった。
気がつけば、ジョンは男に対してあれだけ抱いていた憎しみを手放そうとしていた。
男はしばらく手でもてあそんでいたグラスを置くと、水の入ったグラスに手をのばした。ジョンは先回りしてそのグラスに手の平で蓋をして男から遠ざけた。
「酔いざましなんてよしておけ」そう言って手つかずのままだった自分のグラスを男に差し出す。
男は素直にグラスを受け取ると、まっすぐのばした喉に中身を流し込んだ。
さすがに無理がたたったのか、男はすぐにむせかえった。ジョンはそんな彼の前に、シシーにあてがわれたグラスをすかさず差し出した。
「おれを酔わせて動けなくしようってのか」カウンターにもたれるようにして男が訊ねる。殴られてまぶたが腫れているのと、四オンスのウィスキーを一気に胃袋にしまいこんだせいで、目が糸のように細くなっていた。
「半分はそうだ」ジョンは答えた。
「あとの半分は?」
「同情からだ。次にいつ飲めるかわからないっていうのは嘘じゃない」
「正直だな」
男は言うと、三つ目のグラスを傾けはじめた。飲んで酔いつぶれることの危険を承知しているはずであるにも関わらず。
ジョンはシシーからひとつ離れた席に男を座らせると、自分はそのあいだのスツールにおさまった。
「世話をかけたな」
ジョンは腰かけるなりバーテンにそう言った。相手は無言で首を横に振った。その顔には恐怖をわずかに上回る程度の敵意があらわれていたが、当面のところなにか事を構える様子はなさそうだった。
「もう少しだけここで待たせてもらう。ウィスキーを、そうだな……ストレートのダブルで。あんたは?」
ジョンが訊ねても、男はなにも答えなかった。時間が経ってさらに腫れがひどくなった顔からも、意気消沈している様子が窺えた。
「こいつにも同じものを」それからシシーを見て、「いや、もうひとつ。ストレートのダブルを全部で三つだ」
バーテンは返事もせず、棚にたくさん並んだ酒瓶から一本を選んだ。
ジョニー・ウォーカーのブラックラベルだった。ここまで苦労して歩いてきたジョンにうってつけの銘柄のように思えたし、とっておきのアイロニーにも思えた。
バーテンの手際は驚くほどよかった。彼は太鼓腹がつかえそうなほど狭いカウンターの中、ポアラーを使って寸分の狂いなく三つのグラスに同量の酒を注ぐと、さらに水を入れたグラスも手早く三つ用意した。
「飲めよ」
ジョンは促したが、男は無言のままだった。
「どうした?」
「手が後ろにまわってるのに飲めるかよ」
ジョンは得心して頷いた。そうだったな、と言いながら席を立って男の後ろにまわりこむと、拘束を解いてやった。
「馬鹿なことは考えるなよ」スツールに戻りながらジョンは言った。「いまのおれは紙おむつが必要な爺さんといい勝負だが、それでも脚を折ったおまえに追いつくのなんてわけないんだ。わかったら飲めよ。次にいつこいつを飲めるかわからないぞ」
男はグラスにゆっくりと手をのばした。縛られていたせいですじを痛めたのだろう、途中で顔をしかめながら肩をすくませたが、手にしたグラスの中身をこぼすことなく口に運んだ。
「おれはこれからどうなる?」アルコールをたっぷり含んだ吐息とともに男が問いかける。
「知らない」ジョンは同じ答えを繰り返した。
「そうか」男は言うなり、グラスの残りを一気にあおった。
それきりジョンと男は黙りこんだ。シシーは精根尽きたのか、カウンターに突っ伏して苦しげな寝息をたてていた。
奇妙なひとときだった。こうしてカウンターで肩を並べていると、朝までともに飲み明かした友人同士のようでさえあった。
気がつけば、ジョンは男に対してあれだけ抱いていた憎しみを手放そうとしていた。
男はしばらく手でもてあそんでいたグラスを置くと、水の入ったグラスに手をのばした。ジョンは先回りしてそのグラスに手の平で蓋をして男から遠ざけた。
「酔いざましなんてよしておけ」そう言って手つかずのままだった自分のグラスを男に差し出す。
男は素直にグラスを受け取ると、まっすぐのばした喉に中身を流し込んだ。
さすがに無理がたたったのか、男はすぐにむせかえった。ジョンはそんな彼の前に、シシーにあてがわれたグラスをすかさず差し出した。
「おれを酔わせて動けなくしようってのか」カウンターにもたれるようにして男が訊ねる。殴られてまぶたが腫れているのと、四オンスのウィスキーを一気に胃袋にしまいこんだせいで、目が糸のように細くなっていた。
「半分はそうだ」ジョンは答えた。
「あとの半分は?」
「同情からだ。次にいつ飲めるかわからないっていうのは嘘じゃない」
「正直だな」
男は言うと、三つ目のグラスを傾けはじめた。飲んで酔いつぶれることの危険を承知しているはずであるにも関わらず。