第二章 60

文字数 2,067文字

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 ピーノが古巣であるニューオーウェル郊外の邸宅に戻ってまずはじめにしたことは、ジョンを放し飼いにすることだった。
 彼は相変わらずジョンが逃げ出さないように監視をつけていたし、顔を合わせれば小突くことも忘れなかった。それでもヨーロッパを周遊していたときや、大西洋を渡っていたときのような苛烈さはすっかりなりをひそめていた。

 きっとピーノはジョンとの一連の出来事にうんざりしていたのだろう。お買い得な値打ち品が実際は金食い虫のガラクタだとわかったのだし、ジョンをいたぶるのにもいい加減飽きていたのかもしれない。
 それでも彼の関心が向けられなくなったことは、ジョンにとって幸運だった。

 さらにジョンにとっての幸運は続いた。邸宅に着いてから半年後、あるときピーノはジョンを呼び出すなり、同席していたレオに向かってこう言ったのだ。

「おまえにこいつをあずける」

 そう言ってピーノは隣に立っていたジョンをあごでしゃくった。
 そこは白亜の壁で囲まれた広々とした音楽室で、ブロンドの裸婦を思わせる金糸飾りの丸みを帯びた柱が支える天井には、旧約聖書の一節をモチーフにした宗教画のレプリカが描かれていた。
 部屋の隅にはたくさんのスツールと楽譜立てが置かれていたが、どれも使われた様子はない。きっとピーノが税金対策かなにかで買い集めた品々で構成された空間なのだろう。同じく部屋のほぼ中央に置かれた新品同様のグランドピアノには埃よけの敷布がかけられ、青々と芝生の茂った広い中庭を望む大窓から差し込んだ陽の光を浴びていた。

「鍛えてもらえ。少なくとも弾よけとして使えるぐらいにはなるようにな」ピーノはジョンにそう言った。

 久しぶりに呼び出され、ひどい仕打ちを受けるものだと思い込んでいたジョンは驚いた。
 だが、彼以上に驚いていたのはレオだった。

「おいピーノ、おれはそんなこと――」
「こいつはすごいぜ」レオを無視して、ピーノはジョンに向かって続けた。「なにせ昔はどこぞの軍隊の特殊部隊にいたんだからよ。それがどうしたことか、ここまで落ちぶれやがった」

 ピーノは我ながらうまいことを考えついたとでも思ったのだろう。これで役立たずの子供と口うるさいお目付け役の両方を遠ざけることができるのだから。厄介払いと日頃の鬱憤を晴らすとっておきの方法だと考えていたに違いない。

「とにかくこいつはもう決めたことだ。まあせいぜい仲良くやんな」

 ピーノが去ると、部屋にはレオとジョンだけが残された。
 ジョンは相手を見上げた。その眼に期待がこもっていなかったといえば嘘になる。レオは威圧感のある男だったが、ピーノのように理不尽ではなかったし、ジョンが密かに憧れている人物でもあったからだ。

 だが視線を下げてきたレオの瞳を覗きこんだ瞬間、ジョンは自分の気持ちが見る間に萎えていくのを感じた。
 なるほど、レオにはピーノのような相手をどう痛めつけてやろうかとたくらむような悪意はなかった。というより、なんの感情さえも見えてこなかった。
 ジョンは自分が石ころになったような気分になった。道端に転がった石を見れば、きっと誰もがこんなふうに無関心な顔をするはずだ。

 直後、十歳の子供の鼻っ柱に大の男の拳が叩きこまれた。
 ジョンの目の奥で星が瞬く。顔面がかっと熱くなり、鼻の穴からどろりと生暖かいものが流れ出す。彼は揺れる頭のバランスをたもち、数歩よろけながらもどうにか立ち続けた。自分の身に起きたことが信じられなかった。
 状況を理解するより先に、レオが二発目を叩きこんできた。パンチを右目に食らったジョンは大きくのけぞりながらさらに後ろに下がった。ちらつく星がピンボールのように頭の中をかき回していく。
 とうとうバランスを崩したジョンは、そのまま仰向けに倒れた。大股で近づくレオの足音が耳に届いたが、それは朦朧とした意識でくぐもって聞こえた。やがてレオはジョンの上にまたがると、右手を大きく振り上げた。

 ジョンは咄嗟に顔をかばおうと両手をあげたが、冷酷な男の手のほうが速かった。
 今度は平手だった。拳のように骨まで響く衝撃はなかったが、その一撃はジョンの頬を熱く焼き、地平線の彼方にあった意識を一気に手元まで引き戻した。
 ぼやけた焦点が合わさり、二重に映っていた天井の絵がひとつになっていく。裸の男とひげを生やした老人が指先を合わせる絵だった。その天井を背景に、瞳になんの感情も宿していないレオの顔があった。ただ眉間に深いしわを刻み、ひたすらジョンを殴りつけてくる。

 拳を浴びるたび、ジョンの意識は遠ざかったり近づいたりを繰り返していた。
 不思議と痛みは感じなかった。ただ驚きと、レオが自分にこんな仕打ちをすることが信じられないという思いばかりが胸を満たしていた。
 レオが暴力を楽しむためにこんなことをしているのではないことはわかった。もしそうならば、ピーノのようにもっと楽しげに笑うはずだ。ジョンはそう感じ、心を覆い隠したレオの瞳からではなく、眉間のしわからその感情を汲み取ろうとしていた。
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