第一章 21

文字数 3,544文字

「マクブレイン……あのずる賢いおいぼれ熊め」

 ジョンはそう呟くと、それきり黙りこんでしまった。

「それで、わたしはなにをすればいいの?」
 わたしの問いに、ジョンはゆっくりと顔をあげると、「リサ……」
「なんでも言って。それが職務なら、わたしは全力を尽くすわ」
「よしてくれ」ジョンがため息まじりに答える。「リサ、きみが善人だということはよくわかる。だからはじめに忠告させてくれ。きみにはこれから選択をしてもらうが、迷わず後者を選んでほしいんだ。いいかい?」

 ジョンの問いかけに思わず無言で頷いてしまう。彼が盲目であることは念頭になかった。

「ひとつは、死んだマートンの代わりにわたしの仕事の手助けをすること」
「もうひとつは?」
「ここであったことをすべて忘れて、今夜のうちにこの街を出ることだ。誰にも知られずにね。どこかへ行方をくらましてしまうんだ。さあ、こっちを選んでくれ。おねがいだ」

 唐突に突きつけられた二択に、わたしはまばたきを繰り返した。
 わたしは心のどこかで、この場所にくればここ最近行き詰っていた刑事としての未来に展望を抱けると思っていた。なにしろ署長直々の命令だ。
 ところが蓋を開けてみればどうだろう。一抹の不安は霧のようにつかみどころのない疑問に変わり、わたしが会うべき相手はしきりに渋面を浮かべながらわけのわからないことをまくしたてている。出端をくじかれたわたしは苛立ちを募らせていた。

「ちょっと待ってよ。街を出るなんてできるわけないじゃない。ましてや行方をくらますなんて……」ようやくしぼりだせたのはそれだけだった。
「たしかに難しいことだ。だができないことじゃない。少なくとも、マートンの仕事を引き継ぐよりずっと簡単だ。一度引き受けたら最後、後悔しても遅いんだよ。『どうしてあのとき、素直に街を出て行かなかったんだろう』と。たとえどんなに後悔してもね……」
「そう……これが難しい問題だってことはわかったわ。ところで、どんな職務なのかは教えてはもらえないの? それを訊いてから結論を出すことは?」
「きみの返事を訊く前に内容を打ち明けることはできないんだ。マートンのときもそうだった。すまない。これを破ると今度はわたしの命が危険になる」
「あなた、なにを恐れているの?」

 わたしはそう質問した。正面突破から包囲戦へとやり方を変えたつもりだ。
 この件から手を引くつもりはなかった。それどころか、この職務に興味さえわきはじめていたし、警察官としての職業意識から、はやくもこの職務をマートンから引き継ぐつもりでいた。

 ひとまずわたしは次々とわいてくる疑問は後回しにして、ジョンとの会話に集中した。
 とにかく手当たり次第に話題を変えていけば、わたしがここに来た理由の全貌が見えてくるかもしれない。もしかしたら、逃げ回るウサギの尻尾のような核心をつかめるかもしれない。

「リサ、さっきも言ったね」ジョンは辛抱強く言った。まるで教師が、出来の悪い生徒を相手にじっくりと教え諭すような口調だった。「きみはいい人だ。弱きを助け悪を見逃そうとしない警察官であり、立派な善人ですらあると思う。だからこそ、この話を引き受けたらきみは後悔するとわたしは確信しているんだ。わたしは目は見えないが、だからこそ目の見える人よりもずっと多くのものが見えてしまう。秘密めいた真実のようなものがね。そこには美しいものがたくさんあるが、同時に醜いものも多い。美しさだけが世界を作り出すわけじゃない。それどころか、世界を作るレシピには醜いものばかりが材料に使われているとさえ思えるよ。だからわたしは、善良な人の心がそんな醜いものに踏みにじられたくはない。いいかいリサ。わたしはきみに苦しんでほしくないんだ」
「つまり……どういうわけかしら、あなたはわたしに、わたしが善人でいるために美しいものだけを見ていてほしいってこと?」
「そうだ」
「冗談じゃないわ。お忘れかしら、わたし刑事なのよ? この世界がどれだけ醜いのか、それくらいわかってるつもりだけど」

 そう、この世界のある面はひどく醜い。
 わたしは刑事という仕事を通して、人間の悪意という、底の見えない闇を見てきた。

 路地裏で麻薬の取り合いをした浮浪者同士が、ナイフでお互いの目玉をほじくりだしながら死んでいるのを見たことがある。
 誘拐した相手の臓器を生きたまま取り出し、それを大金にかえた医者の顔を見たこともある。

 異常者によって橋の欄干で吊るし首にされた少女の遺体を見たことも……少女の体は腐敗が進み、烏についばまれたふくらはぎからは小さく白い骨がのぞいていたことを、いまも覚えている。

「ジョン、あなたがどこの誰かはよく知らないし、この職務でどれだけ重要な立場にいるのかも知らない。それでもわたしの決断には口を挟んでほしくない」

 わたしはジョンの目を正面から見つめた。動揺はすでにおさまっていた。
 ジョンもまた、わたしの視線をしっかりと受け止めていた。サングラスごしに瞳が見えた一瞬、わたしは彼が盲目であることを忘れていた。

「どうしても、と言うんだな」
「ええ。どうしてもよ」

 わかった、とジョンはわたしの背後にある書棚を指さした。

「下の段の戸棚に金庫がある。それを見てくれ」

 椅子から立ち上がったわたしは、戸棚を開いた。ジョンの言うとおり、そこにはねずみ色の金庫があった。金庫の正面蓋の隅には赤いボタンとデジタル表示のタッチパネルがついている。

「まず、赤いボタンを押してくれ」

 言われたとおりにすると、パネルに〝0〟から〝9〟までの数字とエンターキーが表示された。特徴的なのは、数字の並びに規則性がなく、ばらばらに配置されていることだった。

「なるほどね」わたしは合点がいった。
「そう、パスワードを知っていても、盲目のわたしだけでは開けられない仕組みになっている。マクブレインのアイデアさ」
「署長らしいわ」
「同感だ」

 その会話で場の空気がほんの少しだけ和んだ。ときに共通の知人への陰口は、当事者たちの親密さに効果をもたらす。

 それからジョンは数桁の番号を暗唱した。わたしは不規則に並んだキーに彼の口から出た数字を押していった。
 数字の並びは、パネルに触れるたびに毎回変わった。これではジョンがいくら暗証番号を知っていようと、キーの配置が見えなければ金庫を開けることはできない。つまり協力者がいないかぎり、彼が中身を手に入れることはできないわけだ。

 番号を入力して最後にエンターキーを押すと、長調の電子音で金庫が解錠を知らせた。それからかんぬきのはずれる音とともに、蓋と枠のあいだがわずかに開いた。

「よし、そのまま戻ってきてくれ」ジョンは言った。「間違えても中身は見ないように。音をたてなくてもわたしには気配でわかる」
「仰せのままに」

 半開きの金庫を一度だけ振り返ると、わたしはふたたび籐椅子に座った。
 急に、それまで意識の外にあったジョンの拳銃の存在感が舞い戻ってきた。
 もしも彼の忠告を無視して中身を覗いていたら……わたしは考えうる最悪のケースをどうにか脳裏から追いやった。気がつけば、室内をふたたび不穏な気配が支配していた。

「あの中身はファイルだ」ジョンはいった。「レターサイズ。ページ数はわからないが、ファイルは全部で二冊ある。ひとつはタイプ打ちされたもの、それからもうひとつは、同じ内容が点字で書かれたものだ。わたしと……もし任務を引き受けるのなら、きみのためのものだ。マートンの身になにかが起きたとき、さっきの方法で金庫を開けるようにマクブレインから指示があった。いまから何年も昔の話になるが」
「なら、ひとつはわたしのものでしょ。どうして中身を見てはいけないの?」
「きみに考える時間を与えるためだ。せめて今日一日だけでも」
「もう気持ちは決まってる」
「それでも考えてみてくれ。中身を見たら、もう引き返せない」
「そう……わかったわ。一晩だけ考えてみる」深刻な表情のジョンにわたしはついに折れた。「お次は? わたしはなにをすればいいの?」
「今日はもう帰っていい」
「なんですって?」
「家に帰ってじっくり考えるんだ。またこちらから連絡する。携帯電話は持っているかい?」

 答えるかわりに、わたしは自分の携帯電話の番号をだしぬけにジョンに伝えた。さんざんはぐらかされた仕返しのつもりで、早口で番号をまくしたてたが、彼は訊き返すどころかメモさえとらず、黙ってわたしに頷いてみせた。

「きみとは今日でこれきり、もう会わないことを願うよ」
「いいえ、また会いにくるわ。ここにね」

 わたしはそう言い捨てると部屋をあとにした。階段をおりる途中、足を止めてみたが、階上からは物音ひとつしなかった。
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