第二章 22
文字数 2,062文字
リッチーの姿を見つけたのは、留置所兼保管室から廊下に出たときだった。彼がやってきた方角には十九分署の裏口に通じるドアがあり、署員の私用車専用の駐車場も設けられている。リッチーはそこから入ってきたのだ。おそらく聞きこみから帰ってきたところなのだろう、彼の隣にはマイクの姿もあった。
わたしはまわれ右して廊下を引き返そうかと思ったが、やめた。すでにリッチーはわたしのことを見つけていたし、そもそもわたしが彼から逃げる道理はないのだ。
それでもリッチーと口をきくつもりはなかった。わたしはポケットに両手を突っ込んだまま足早に廊下を進み、対するリッチーは懐から煙草を取り出していた。わたしたちはお互いに目も合わせず、ただマイクだけが視線をきょときょと行き来させていた。
「保管室になんの用だ?」
すれ違いざまにリッチーに声をかけられ、わたしは思わず振り返った。リッチーも肩ごしにこちらを向いていた。口元に火のついていない煙草を銜えている。
「あなたこそ、アルに釘まで刺してどういうつもりよ?」
わたしは努めて冷静に言った。保管室を訪れたことを伏せておくというアルとの約束は、早くも反故になっていた。
「部外者だからな。おまえさんだって逆の立場ならおなじことをするはずだ」
「まさか! どうしてこんなことまでするのよ。わたしになにか恨みでもあるっていうの?」
リッチーは振り返ると、睨みつけるわたしに正面から向き直った。眠たげだったその目はいつも以上に見開かれ、銜えた煙草はいまにも口からこぼれ落ちそうだった。
「恨みだって? 本当にそんなふうに考えてるのか?」
リッチーの声に、わたしは驚かされた。普段は皮肉めいた笑みで本心をひた隠しにするこの刑事が、真正面から感情をあらわにしていたのだ。それだけではない、彼は小刻みに震えてさえいた。そこには打ちひしがれ、疲れきった男の姿があった。
「思ってるわよ」それでもわたしは言いきった。ショックを感じているのはわたしだって同じだ。「わたしがみんなから煙たがられてるのは前からわかってた。口だけは一丁前の小娘に手を焼いてるのだって知ってる。けど、事件を解決したい気持ちはみんなと一緒なのよ。なのにどうしてその気持ちまで踏みにじるようなことをするの?」
わたしは声が震えそうになるのをどうにかこらえていた。喉の奥が痛み出し、顔に熱を帯びているのも感じる。
リッチーはそんなわたしをしばらくじっと見つめていたが、やがて腰を曲げて足もとの煙草を拾いあげた。どうやら睨み合っていたとき、口から落としたらしい。
リッチーは煙草を銜えなおしながらこう続けた。
「話はそれで終わりか? なら、おれたちはもう行くぞ。ただでさえ管内で殺しが多発してるんだ。報告を終えたらまた別件の捜査に行かなきゃならん。おまけに湿っぽい天気のせいで疼く古傷をこれ以上おまえさんに痛めつけられたんじゃたまらんからな」言いながらリッチーは自分の肩をおさえた。
「だったら……」
わたしはその続きを言えなかった。なにも思い浮かばなかったのだ。気持ちばかりが先走り、言葉はひとつも出てこなかった。
「ああ、お望みどおりさっさと消えるさ。行こう、マイク」
リッチーはふたたびわたしに背を向けると、廊下の奥へと歩いていった。それまで息を潜めるようにして立ちすくんでいたマイクが足早に彼のあとをついていく。
「マクブレインを信用するな」
かけられた声にわたしは、裏口へと向けかけた足を止めて振り返った。
そこにはリッチーがひとり、エントランスへと続くドアノブに手をかけて立っていた。それから彼はわたしが訊き返すよりも先に、戸口の中へと消えていった。
わたしは無意識のうちにポケットの中で握りこぶしを作っていた。力を抜いた拍子に、トゥインキーの柔らかな感触とともに、弾丸の奇妙な温かみが指先に伝わってくる。
それはあの夜、マートンから命を奪い去った弾丸だった。わたしはあらかじめ用意していた同型の弾丸を、同じく用意しておいた証拠品保管用の袋に入れて保管室を訪ねていた。いま証拠品ボックスの中にあるのは、事件とはなんの関係もない偽の弾丸だった。
アルの目を盗んですりかえたのだ。彼にはリッチーとの共謀を非難しておきながら、自分は堂々と悪事を働いていた。彼の良心という美徳を目くらましに利用した。住人が玄関の小火騒ぎに気をとられているあいだに、まんまと裏口から盗みに入ってみせたのだ。
達成感などはなかった。自分がなにをしているのかも、これからなにをしたいのかもわからない。それでもわたしは、裏口に停めてあるダッジを目指した……肩を落としたまま。胸を張る気になんて、とてもなれない。
建物を出るなり、上から水滴がぽつりぽつりと落ちていた。見上げると、あれだけ晴れ渡っていた空が雲で覆われている。
リッチーの古傷とやらは、この雨の訪れをいち早く察知していたのだ。
「リッチー、あなたはなにを知っているの?」
そう問いかけてはみたものの、空はなにも答えてくれなかった。
わたしはまわれ右して廊下を引き返そうかと思ったが、やめた。すでにリッチーはわたしのことを見つけていたし、そもそもわたしが彼から逃げる道理はないのだ。
それでもリッチーと口をきくつもりはなかった。わたしはポケットに両手を突っ込んだまま足早に廊下を進み、対するリッチーは懐から煙草を取り出していた。わたしたちはお互いに目も合わせず、ただマイクだけが視線をきょときょと行き来させていた。
「保管室になんの用だ?」
すれ違いざまにリッチーに声をかけられ、わたしは思わず振り返った。リッチーも肩ごしにこちらを向いていた。口元に火のついていない煙草を銜えている。
「あなたこそ、アルに釘まで刺してどういうつもりよ?」
わたしは努めて冷静に言った。保管室を訪れたことを伏せておくというアルとの約束は、早くも反故になっていた。
「部外者だからな。おまえさんだって逆の立場ならおなじことをするはずだ」
「まさか! どうしてこんなことまでするのよ。わたしになにか恨みでもあるっていうの?」
リッチーは振り返ると、睨みつけるわたしに正面から向き直った。眠たげだったその目はいつも以上に見開かれ、銜えた煙草はいまにも口からこぼれ落ちそうだった。
「恨みだって? 本当にそんなふうに考えてるのか?」
リッチーの声に、わたしは驚かされた。普段は皮肉めいた笑みで本心をひた隠しにするこの刑事が、真正面から感情をあらわにしていたのだ。それだけではない、彼は小刻みに震えてさえいた。そこには打ちひしがれ、疲れきった男の姿があった。
「思ってるわよ」それでもわたしは言いきった。ショックを感じているのはわたしだって同じだ。「わたしがみんなから煙たがられてるのは前からわかってた。口だけは一丁前の小娘に手を焼いてるのだって知ってる。けど、事件を解決したい気持ちはみんなと一緒なのよ。なのにどうしてその気持ちまで踏みにじるようなことをするの?」
わたしは声が震えそうになるのをどうにかこらえていた。喉の奥が痛み出し、顔に熱を帯びているのも感じる。
リッチーはそんなわたしをしばらくじっと見つめていたが、やがて腰を曲げて足もとの煙草を拾いあげた。どうやら睨み合っていたとき、口から落としたらしい。
リッチーは煙草を銜えなおしながらこう続けた。
「話はそれで終わりか? なら、おれたちはもう行くぞ。ただでさえ管内で殺しが多発してるんだ。報告を終えたらまた別件の捜査に行かなきゃならん。おまけに湿っぽい天気のせいで疼く古傷をこれ以上おまえさんに痛めつけられたんじゃたまらんからな」言いながらリッチーは自分の肩をおさえた。
「だったら……」
わたしはその続きを言えなかった。なにも思い浮かばなかったのだ。気持ちばかりが先走り、言葉はひとつも出てこなかった。
「ああ、お望みどおりさっさと消えるさ。行こう、マイク」
リッチーはふたたびわたしに背を向けると、廊下の奥へと歩いていった。それまで息を潜めるようにして立ちすくんでいたマイクが足早に彼のあとをついていく。
「マクブレインを信用するな」
かけられた声にわたしは、裏口へと向けかけた足を止めて振り返った。
そこにはリッチーがひとり、エントランスへと続くドアノブに手をかけて立っていた。それから彼はわたしが訊き返すよりも先に、戸口の中へと消えていった。
わたしは無意識のうちにポケットの中で握りこぶしを作っていた。力を抜いた拍子に、トゥインキーの柔らかな感触とともに、弾丸の奇妙な温かみが指先に伝わってくる。
それはあの夜、マートンから命を奪い去った弾丸だった。わたしはあらかじめ用意していた同型の弾丸を、同じく用意しておいた証拠品保管用の袋に入れて保管室を訪ねていた。いま証拠品ボックスの中にあるのは、事件とはなんの関係もない偽の弾丸だった。
アルの目を盗んですりかえたのだ。彼にはリッチーとの共謀を非難しておきながら、自分は堂々と悪事を働いていた。彼の良心という美徳を目くらましに利用した。住人が玄関の小火騒ぎに気をとられているあいだに、まんまと裏口から盗みに入ってみせたのだ。
達成感などはなかった。自分がなにをしているのかも、これからなにをしたいのかもわからない。それでもわたしは、裏口に停めてあるダッジを目指した……肩を落としたまま。胸を張る気になんて、とてもなれない。
建物を出るなり、上から水滴がぽつりぽつりと落ちていた。見上げると、あれだけ晴れ渡っていた空が雲で覆われている。
リッチーの古傷とやらは、この雨の訪れをいち早く察知していたのだ。
「リッチー、あなたはなにを知っているの?」
そう問いかけてはみたものの、空はなにも答えてくれなかった。