第一章 30

文字数 3,014文字

 ウィンチェスターM70はアメリカ海兵隊の狙撃チームにも制式採用されたことがある、同社を代表するボルトアクションライフルだ。
 狩猟用として世界中のハンターにも愛用されると同時に、あの泥沼のベトナム戦争では多くのアメリカ人兵士の窮地を救った名銃でもある。

 ジョンはポケットからアンプルのような形の弾丸をふたつ取り出した。もちろん形は似ていても、その中を満たしているのは治療薬ではない。火薬と雷管で調合された死を呼ぶ劇薬だ。

 彼はこんなところでなにを撃つつもりだろう。
 そんな愚かともとれる疑問が頭をもたげる。だがニューオーウェルに生息する動物といえば、せいぜい生ごみをあさるカラスか、近年その数を減らしつつある野良犬くらいのものだ。そのかわり、人間ならこの街にはあふれるほどいるし、彼が害獣駆除のためにわざわざこんなビルの屋上を訪れたわけでもないことはあきらかだ。

「なにをするつもりなの?」それでもわたしは、わかりきった答えを訊かずにはいられなかった。
「これからあの男を殺す」ジョンはよどみなく答えた。「三百メートルだ。ヤードやフィートといった単位は脇に置いておこう。三百メートル離れたここから。この銃でやつを狙う」

 ジョンはそう言ってライフルを持ち上げた。手にした弾丸を二発とも装填し、立てた煙草の前に座りこんだ。
 右足は尻の下に敷き、立てた左の膝頭に噛み合わせるように置いた左肘と前腕でライフルを下から支える。右手は銃把を握り、銃床を肩でおさえる。
 一般的な座射姿勢だ。指はまだ引き金にかかっていない。

「ねえジョン、これってなんの冗談?」
「冗談? わたしがここまできみをつれてきたのは、ほんの冗談からだと言うのか? もうじきここにマクブレインをはじめきみの同僚やらなにやらがやってくるとでも? きみはドッキリショーのターゲットにされたっていうのか? テレビ番組の『あなたならどうする?』みたいに?」ジョンは言いながら、ライフルから離した左手で煙草の火のまわりをぐるりと一周させた。「風は東南東へ風速三……いや四メートルか」

 ジョンが立てた煙草の熱で風向きと強さを読んでいるのはあきらかだった。再会したときにふるまわれた牛乳の存在が思い出される。彼はああして目以外の器官で物を見ているのだ。銃が馴染むにつれ、沢山のたこができた手で。彼と握手をしたときの、あの硬い感触がよみがえる。

 銃に取り付けられたスコープのキャップをはずすと、むき出しになったレンズが太陽の光を反射する。
 立ち上がったわたしは銃を彼に突きつけた。着込んだ丈の長いダウンコートのせいでコルトを腰から抜くのにかなり手間取ったが、ジョンは慌てるわたしをよそに悠然とライフルを構え続けていた。

「動かないで」
「リサ、そいつはなんの冗談だ?」覗いたスコープからじっと目を離さず、ジョンが訊ね返す。銃口を向けられていることは気配でわかるらしい。
「冗談なもんですか。わたしは本気よ」
「わたしも本気だ」
「ふざけないで! こんなこと見過ごせないわ」
「これがきみに与えられた仕事だったとしてもか? これこそ、きみがあれだけ知りたがり、関わりたがっていたことなんだ」
「こんなはずじゃなかった」
「こんなはずじゃなかった」噛みしめるように繰り返したジョンは、それから鼻で笑った。「いい言葉だな。きみはまだ若いからそれですべてが許されていると思っている。だが、世の中にはそのひとことで片付かないことがごまんとある。むしろ片付くことのほうがずっと少ないくらいだ。これもその片付かないことのひとつでね」
「そんなこと……知るもんですか!」
「わたしはきみに考えなおせとも言ったはずだぞ。何度もだ」
「いいからその銃を置きなさい! こんなこと警察の職務じゃない。あなたにとっては正しいことでも、わたしにはそれを止める義務があるわ!」
「リサ、あの男の顔を見ただろう」
「ええ、見たわ」それから咄嗟にこう付け加えた。「でも、ファイルの写真だけでね。オフィスにいるのは別人よ。太った中年女性だった」
「嘘はよすんだ。ファイルの写真とオフィスの男が同一人物だと、さっききみは言ったはずだ。わたしもいい加減齢をとったが、まだそこまで耄碌しちゃいない」

 わたしは思わず歯噛みした。ジョンに訊かれたとき、たしかにわたしは口をすべらせていた。

〝こんなはずじゃなかった。口をすべらせたのも、この職務に参加したのも。こんなはずじゃなかった!〟

 頭の中で教会の鐘の音のように言葉が反響する。
 こんなはずじゃなかった……我ながらなんて無責任な言葉だろう!

「それにわたしは、あの男に関するおよそすべてのことを知っている。ファイルに記録されているからね。きみもあとでよく目を通してみるといい。
 名前はマーク・ハニーボール。朝七時に出向くオフィスにはほぼ毎日愛人を伴っていることと、もちろん彼と親しい間柄にあるのが、きみが言ったような太った中年女性ではないことも知っている。
 ファイルは、いわば身辺調査書だ。これからわたしが手をくだし、そしてきみがその死を見届ける標的たちのね」
「いったい彼がなにをしたというの?」
「あのビルを拠点にしている会社……表向きは貿易会社だが、実際はアルベローニ・ファミリーの隠れ蓑になっている。刑事なら連中の名前くらい耳にしたことはあるだろう」
「ええ……あるわ」

 それどころか、武装強盗団逮捕から連中とは浅からぬ仲というやつだ。別に深く関わり合いたくもないが。わたしは横目でハニーボールのいる方角をちらりと見た。

「ハニーボールは組織の会計士をやっている。運営資金の管理から資金洗浄のお膳立て、それに幹部たちの年金の工面まで、なんでもござれだ」
「マフィアの一員だからって殺してもいいの? 彼が誰かを傷つけたって言うの?」
「いいや、それよりもっと悪質だ。やつが帳簿にペンを走らせるたび、ヨーロッパでたくさんの子供が人身売買のために誘拐され、若者を汚染するドラッグが出回り、流出した非合法の銃で多くの命が失われる。だが本人にはその自覚がない。やつほどの悪人はそうはいないだろう。もし警察がやつを逮捕したとしても、組織が裏から手をまわしてすぐに釈放されるか、もっと悪ければ無罪放免になったうえに不法逮捕で警察を逆に訴えることだってできるだろう。そこでわたしの出番というわけだ」
「認められないわ」

 わたしはふたたびオフィスのほうを見た。
 双眼鏡は手放してしまったが、オフィスにまだあのハニーボールはいるに違いない。三百メートル離れたこの場所で、自分の命が天秤にかけられているとも知らずに、またぞろ愛人と抱き合ったままなのかもしれない。

「どんな悪党であれ、それを裁くのは司法の手に委ねるべきよ。わたしは刑事であって法律じゃない。けどジョン、あなただってそうだわ。誰かの命を勝手に奪うなんて、あなたにそんな権限があるわけないじゃない」
「リサ、勘違いするな。これはなにもわたしの独断でやっていることじゃない。きみとわたしに、情報を与え、命令を下したのは誰だ?」

 わたしの脳裏にマクブレイン署長の巨体が浮かぶ。そしてその背後に巨大な権力がひかえているのも見えた気がした。白頭鷲のシンボルは伊達ではないのだ。法律を超えたこのような制裁を下せるのは、はたしてどれほどの権力なのだろう。ジョンに向けた銃口がひとりでに下がっていく。
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