第二章 62
文字数 1,987文字
死んだふりをする必要はなかった。
ジョンは全身傷だらけで身動きひとつできなかった。
まぶたにできたこぶのせいで目は半分も開かなかったし、鼻の奥にたまった血で満足に呼吸もできなかった。半年間暮らしてきた自室である物置の隅までたどりつけたことさえ奇蹟的だった。
ほつれた古い毛布に身体を投げ出しながら、ジョンは夢と現実のあいだをさまよっていた。
時間の流れは心臓が秒針代わりとなって教えてくれた。鼓動がひとつ打つたび、殴られている最中はなりを潜めていた痛みが血液とともに全身を駆け巡る。
遅くも速くもならず、規則正しく送られる痛みは身体のあちこちでさまざまな形となってあらわれた。目のまわりでは輪が急激に広がるような痛み。鼻の奥ではなにかが潰れるような痛み。背中では水に絵の具を一滴たらしたように痛みが広がっては消えてゆき、奥歯のほうでは鼓動が稲妻となってジョンの口の中を瞬いた。
やがて倉庫の前の廊下を静寂がおとずれ、ふたたび活気を取り戻しても、ジョンは痛みが奏でる不協和音に身を委ね続けていた。
「おい、ガキが動かないぞ」
唐突に頭上であがった男の声をきっかけに、まどろんでいたジョンの意識は瞬時に覚醒した。
「なんだって? おい、いつまで寝てやがる?」
別の声の主が爪先でジョンのわき腹をつつく。それがレオに殴りつけられた部分をとらえ、飛び上がるほどの激痛をもたらした。新たな痛みが馴れ親しんだ痛みを上書きしていく。
だがジョンはじっとしていた。ふたりの男が傍に立つなか、レオに言われたとおり身じろぎひとつせず息を殺し、死者を演じ続けた。
「おい、まさか……」死んでるのか、という疑問を飲み込むようにして、男はこう続けた。「生きてるんだろ。息は? 脈はとれるのか?」
「おれが医者に見えるってのか? わかるわけねえだろ。だが……くたばってるみたいだ」
「ピーノはこのことを知ってるのか?」
「知るかよ。いちいちおれに訊くんじゃねえ」
そのまま会話は途絶えた。彼らがジョンの死ではなく、この事態をピーノに知られることを恐れているのはあきらかだった。
「とにかく、ずらかろうぜ。関わり合いになるはごめんだ」
「馬鹿野郎、おれたちがここに入るのを誰かに見られてたらどうする? しらばっくれてるのがばれたら、半殺しじゃすまねえぞ」
「だったらどうするんだよ?」
またもや沈黙が支配する。ジョンは目を閉じ、耳を澄ましてじっとしていた。一晩をともに過ごした痛みという友人が、ふたたび彼の全身でちぐはぐな音楽を奏ではじめていた。
「捨てちまおうぜ」そう言ったのはジョンを蹴った男だった。「そうさ。今日はごみの回収日だろ。そいつを裏口から運び出しちまうのさ。ピーノには逃げたって言えばいい。死体が見つかったところで、どうせ誰かもわからねえよ」
男はそこまでをじつによどみなく言ってのけた。それどころか、最後のくだりはまるで歌うかのように声が弾んでいた。思いがけない幸運を行き当たったかのような口調だった。いや、実際に幸運を手にしかけているつもりなのかもしれない。
一度は絶望的な気分にさえなった彼らに神が手をさしのべ、頭の中の台本にとっておきのアドリブをそっと書き込んでくれたのだから。
だが彼らにその思いつきをもたらしたのは神ではなかった。まずジョン自身にもたらされた幸運があり、そしてなによりレオの……目線ひとつで相手を黙らせられる魔術師のアイデアが奏功した結果だった。
そんな思惑もつゆ知らず、ふたりは手際よくジョンを毛布でくるむと、物置を出たすぐそばにある裏口から少年を運び出した。
毛布は獣じみたすえたにおいがしたし、急ぎ足の男たちの搬送はひどく揺れたが、ジョンはじっと耐え続けた。
そして揺れがおさまると、男たちのかけ声とともにジョンは空中に投げ出され、次の瞬間にはごつごつしたなにかの上に落とされた。直後に毛布を突き抜けるほどひどい悪臭が襲いかかってきた。
「蓋は開けとけ」頭上で男の声がする。「まだまだごみはくるからな。閉めるとかえって怪しまれるぜ」
それからライターを擦る音がしたかと思うと、今度は頭上から煙草の香りがおりてきた。ひと仕事終えたあとの一服ときめこんでいるらしい。普段は苦手なにおいだったが、悪臭の真っ只中に身を置いているこのときばかりはありがたかった。
そして男たちの足音が遠ざかっていく。同時に、いましがた少年の死体を棄てたばかりとは思えないほど明るさで交わされる軽口も小さくなっていった。
ジョンはじっと待ち続けた。やがて煙草の香りもすっかり消え去ると、さらに頭の中でゆっくり数字を数えはじめた。痛みが急かすように全身で響いたが、ペースは変えなかった。
忍耐と集中力を切らしたのは、やはり悪臭のせいだった。ジョンは百まで数える前に、においに堪えかねて毛布から這いだした。
ジョンは全身傷だらけで身動きひとつできなかった。
まぶたにできたこぶのせいで目は半分も開かなかったし、鼻の奥にたまった血で満足に呼吸もできなかった。半年間暮らしてきた自室である物置の隅までたどりつけたことさえ奇蹟的だった。
ほつれた古い毛布に身体を投げ出しながら、ジョンは夢と現実のあいだをさまよっていた。
時間の流れは心臓が秒針代わりとなって教えてくれた。鼓動がひとつ打つたび、殴られている最中はなりを潜めていた痛みが血液とともに全身を駆け巡る。
遅くも速くもならず、規則正しく送られる痛みは身体のあちこちでさまざまな形となってあらわれた。目のまわりでは輪が急激に広がるような痛み。鼻の奥ではなにかが潰れるような痛み。背中では水に絵の具を一滴たらしたように痛みが広がっては消えてゆき、奥歯のほうでは鼓動が稲妻となってジョンの口の中を瞬いた。
やがて倉庫の前の廊下を静寂がおとずれ、ふたたび活気を取り戻しても、ジョンは痛みが奏でる不協和音に身を委ね続けていた。
「おい、ガキが動かないぞ」
唐突に頭上であがった男の声をきっかけに、まどろんでいたジョンの意識は瞬時に覚醒した。
「なんだって? おい、いつまで寝てやがる?」
別の声の主が爪先でジョンのわき腹をつつく。それがレオに殴りつけられた部分をとらえ、飛び上がるほどの激痛をもたらした。新たな痛みが馴れ親しんだ痛みを上書きしていく。
だがジョンはじっとしていた。ふたりの男が傍に立つなか、レオに言われたとおり身じろぎひとつせず息を殺し、死者を演じ続けた。
「おい、まさか……」死んでるのか、という疑問を飲み込むようにして、男はこう続けた。「生きてるんだろ。息は? 脈はとれるのか?」
「おれが医者に見えるってのか? わかるわけねえだろ。だが……くたばってるみたいだ」
「ピーノはこのことを知ってるのか?」
「知るかよ。いちいちおれに訊くんじゃねえ」
そのまま会話は途絶えた。彼らがジョンの死ではなく、この事態をピーノに知られることを恐れているのはあきらかだった。
「とにかく、ずらかろうぜ。関わり合いになるはごめんだ」
「馬鹿野郎、おれたちがここに入るのを誰かに見られてたらどうする? しらばっくれてるのがばれたら、半殺しじゃすまねえぞ」
「だったらどうするんだよ?」
またもや沈黙が支配する。ジョンは目を閉じ、耳を澄ましてじっとしていた。一晩をともに過ごした痛みという友人が、ふたたび彼の全身でちぐはぐな音楽を奏ではじめていた。
「捨てちまおうぜ」そう言ったのはジョンを蹴った男だった。「そうさ。今日はごみの回収日だろ。そいつを裏口から運び出しちまうのさ。ピーノには逃げたって言えばいい。死体が見つかったところで、どうせ誰かもわからねえよ」
男はそこまでをじつによどみなく言ってのけた。それどころか、最後のくだりはまるで歌うかのように声が弾んでいた。思いがけない幸運を行き当たったかのような口調だった。いや、実際に幸運を手にしかけているつもりなのかもしれない。
一度は絶望的な気分にさえなった彼らに神が手をさしのべ、頭の中の台本にとっておきのアドリブをそっと書き込んでくれたのだから。
だが彼らにその思いつきをもたらしたのは神ではなかった。まずジョン自身にもたらされた幸運があり、そしてなによりレオの……目線ひとつで相手を黙らせられる魔術師のアイデアが奏功した結果だった。
そんな思惑もつゆ知らず、ふたりは手際よくジョンを毛布でくるむと、物置を出たすぐそばにある裏口から少年を運び出した。
毛布は獣じみたすえたにおいがしたし、急ぎ足の男たちの搬送はひどく揺れたが、ジョンはじっと耐え続けた。
そして揺れがおさまると、男たちのかけ声とともにジョンは空中に投げ出され、次の瞬間にはごつごつしたなにかの上に落とされた。直後に毛布を突き抜けるほどひどい悪臭が襲いかかってきた。
「蓋は開けとけ」頭上で男の声がする。「まだまだごみはくるからな。閉めるとかえって怪しまれるぜ」
それからライターを擦る音がしたかと思うと、今度は頭上から煙草の香りがおりてきた。ひと仕事終えたあとの一服ときめこんでいるらしい。普段は苦手なにおいだったが、悪臭の真っ只中に身を置いているこのときばかりはありがたかった。
そして男たちの足音が遠ざかっていく。同時に、いましがた少年の死体を棄てたばかりとは思えないほど明るさで交わされる軽口も小さくなっていった。
ジョンはじっと待ち続けた。やがて煙草の香りもすっかり消え去ると、さらに頭の中でゆっくり数字を数えはじめた。痛みが急かすように全身で響いたが、ペースは変えなかった。
忍耐と集中力を切らしたのは、やはり悪臭のせいだった。ジョンは百まで数える前に、においに堪えかねて毛布から這いだした。