第二章 98
文字数 1,412文字
ジョンは屋上まで無事にグラスを運びおおせた。建物はいくつかの会社が居を構える複合オフィスだったが、守衛はわたしが警官バッジを見せただけですんなりと中へ通してくれた。
屋上に出るなり冷たい風がわたしたちを取り囲んだ。吹きすさぶ強風はまだ冬が去っていないことを高らかに宣言している。室外機などの設備も少なく、開けた場所を吹き荒ぶ寒風はわたしの頬をぴりつかせた。
まだ終わっていない、ただ棲家をほんの少し高いところに移しただけなのだと。
「ほら、早く」
わたしが振り返って急かすと、ジョンはようやく屋上へと踏み出した。その足取りは普段と打って変わって、一歩ずつなにかを確かめるようだった。
それでも転ぶ様子はなかったので、わたしはそれ以上彼に構うことなく視線を前方へ戻した。
向かいのビルの最上階には明かりがついておらず、薄暗がりの室内は備え付けの家具まで撤去されて空っぽだ。
その瞬間、さきほど聞いたジョンの昔話が圧倒的な質感でわたしを飲み込んだ。
あのとき、ここにはわたしよりもさらに歳若い青年がいたのだ。そして生まれてはじめて、人の命を奪った。
わたしのすぐ横を、ジョンがふらついた歩調で後ろから通り過ぎていく。
なおも進み続ける彼の足取りがおぼつかないのは、目が見えないせいではない。そもそもジョン・リップはそんなふうに歩く男ではない。彼はなにかに取り憑かれているようだ、そんな思いにとらわれ、わたしは恐怖を感じた。
ジョン・リップ……<ザ・ブラインド>は、積み重ねた実地散策の経験と、模型をはじめとした正確な情報の裏打ちによって、はじめてその場所を把握することができる。
カルノー親子を殺めて以来、彼はここを訪れたことがあったのだろうか?
もしなかったのだとしたら、彼はこの場所についてどれだけのことを知っているのだろう……思い出したくもないこの場所のことを、どれだけ。
わたしは恐怖の原因に思い至った。
ジョン・リップはいま、目が見えていないのだ。
ここはニューオーウェルで唯一、ジョンを盲目たらしめる場所なのではないか。彼はいま、まったく知らない場所で「なにも見えない」という体感にとりつかれているのではないか。
そうしているあいだにも、ジョンは屋上のへりまであと数歩というところまで近づいていた。
わたしは駆け出した。だが、彼との距離はたっぷり二十フィート以上も離れていた。腕をのばすことで、彼の背中がさらに遠くに感じる。
盲目のジョンが、健常者とかわらない身のこなしをすることに馴れきっていた自分に腹が立った。それ以上に、彼をここへ連れてきてしまったことへの後悔を感じた。
間に合わない。
そんな考えが頭をよぎった直後、ジョンは立ち止まってその場に膝をついた。あと一フィート半も進めば、彼の足は空中をかき、数秒足らずで地面に激突していただろう。
「わたしなんだ……」ジョンは言った。その背中は震えていた。「わたしがここで死ねばよかったんだ。そうすればいまでも……」
「ジョン……」
わたしはジョンの顔を覗きこんだ。
サングラスの奥でなにかがきらりと光ったかと思うと、頬をつたって涙がこぼれだした。
かける言葉が見つからず、わたしはジョンから視線をはずすと、屋上の景色を眺めた。
街はどこも明かりで彩られていた。ただし、夜空を除いて。
わたしたちのいる屋上と向かいのビルの最上階だけが、闇の中に取り残されたままだった。
屋上に出るなり冷たい風がわたしたちを取り囲んだ。吹きすさぶ強風はまだ冬が去っていないことを高らかに宣言している。室外機などの設備も少なく、開けた場所を吹き荒ぶ寒風はわたしの頬をぴりつかせた。
まだ終わっていない、ただ棲家をほんの少し高いところに移しただけなのだと。
「ほら、早く」
わたしが振り返って急かすと、ジョンはようやく屋上へと踏み出した。その足取りは普段と打って変わって、一歩ずつなにかを確かめるようだった。
それでも転ぶ様子はなかったので、わたしはそれ以上彼に構うことなく視線を前方へ戻した。
向かいのビルの最上階には明かりがついておらず、薄暗がりの室内は備え付けの家具まで撤去されて空っぽだ。
その瞬間、さきほど聞いたジョンの昔話が圧倒的な質感でわたしを飲み込んだ。
あのとき、ここにはわたしよりもさらに歳若い青年がいたのだ。そして生まれてはじめて、人の命を奪った。
わたしのすぐ横を、ジョンがふらついた歩調で後ろから通り過ぎていく。
なおも進み続ける彼の足取りがおぼつかないのは、目が見えないせいではない。そもそもジョン・リップはそんなふうに歩く男ではない。彼はなにかに取り憑かれているようだ、そんな思いにとらわれ、わたしは恐怖を感じた。
ジョン・リップ……<ザ・ブラインド>は、積み重ねた実地散策の経験と、模型をはじめとした正確な情報の裏打ちによって、はじめてその場所を把握することができる。
カルノー親子を殺めて以来、彼はここを訪れたことがあったのだろうか?
もしなかったのだとしたら、彼はこの場所についてどれだけのことを知っているのだろう……思い出したくもないこの場所のことを、どれだけ。
わたしは恐怖の原因に思い至った。
ジョン・リップはいま、目が見えていないのだ。
ここはニューオーウェルで唯一、ジョンを盲目たらしめる場所なのではないか。彼はいま、まったく知らない場所で「なにも見えない」という体感にとりつかれているのではないか。
そうしているあいだにも、ジョンは屋上のへりまであと数歩というところまで近づいていた。
わたしは駆け出した。だが、彼との距離はたっぷり二十フィート以上も離れていた。腕をのばすことで、彼の背中がさらに遠くに感じる。
盲目のジョンが、健常者とかわらない身のこなしをすることに馴れきっていた自分に腹が立った。それ以上に、彼をここへ連れてきてしまったことへの後悔を感じた。
間に合わない。
そんな考えが頭をよぎった直後、ジョンは立ち止まってその場に膝をついた。あと一フィート半も進めば、彼の足は空中をかき、数秒足らずで地面に激突していただろう。
「わたしなんだ……」ジョンは言った。その背中は震えていた。「わたしがここで死ねばよかったんだ。そうすればいまでも……」
「ジョン……」
わたしはジョンの顔を覗きこんだ。
サングラスの奥でなにかがきらりと光ったかと思うと、頬をつたって涙がこぼれだした。
かける言葉が見つからず、わたしはジョンから視線をはずすと、屋上の景色を眺めた。
街はどこも明かりで彩られていた。ただし、夜空を除いて。
わたしたちのいる屋上と向かいのビルの最上階だけが、闇の中に取り残されたままだった。