第一章 22
文字数 2,018文字
ジョンの家を出ると、わたしはすぐにマクブレイン署長のオフィスに電話をかけた。
「なにも言うな」電話に出るなり署長は言った。「報告はオフィスで訊く」
それきり電話は切れてしまった。受話口から流れる不通音を耳に、わたしはようやく自分の失敗に気づいた。
「なにを考えているんだ?」オフィスで待つ署長の剣幕は、わたしの予想を超えていた。普段から山のようにそびえる巨体は、怒りによって二倍以上にふくれあがって見える。「電話は盗聴されているかもしれないんだぞ。きみも刑事のはしくれなら、そんな可能性くらい見当がつくはずだ」
「お言葉ですが、わたしは指定の場所である人物と接触しろという命令以外受けていません。メモをとるなとは言われましたが、電話での報告が禁止とも言われていません」
わたしの言葉で、署長の怒りが増しているのがわかった。
ひげをたくわえた大きく赤い顔がどす黒く変色している。正午前の静まりかえったオフィスに、署長の荒々しい鼻息だけが音をたてる。
だがわたしも今回ばかりは引くつもりはなかった。わけのわからないことに巻き込まれて、腹を立てたくなるのはこっちだった。
やがてマクブレイン署長はネクタイをゆるめると、その大きな体を椅子に深く沈めた。
「それで?」深いため息とともに署長が訊ねる。「彼から職務の内容は訊いたのか?」
「いいえ、肝心なところはなにも。ただ少し会話をしただけです。それから金庫を開けて帰ってきました」
署長はぎょろりと目を剥き、わたしを睨みつけてきた。
「ファイルはきみが持っているのか?」
「いいえ。ジョン・リップに見ることを禁じられましたから。そのほうがわたしのためだと――」
「その名前を口にするな!」
雷鳴のような怒声をあげる署長に、わたしはもう驚かなかった。理不尽な署長に反抗心を燃やしていたおかげだろう。それまで彼に対して抱いていた恐怖心は、いつの間にか消えていた。それどころか、あれほど大きく思えた署長の身体が、すっかり縮んでしまったようにすら感じた。
マクブレイン署長は怒りから声を荒らげたわけではない。彼は恐怖していたのだ。
なにを? わたしを?
まさか。彼が恐れているのは、きっとジョン・リップだ。
「この小娘が。ただやつに会って世間話をしただけで帰ってきただと。おまけにあの金庫を開けてきたというのか。なんて馬鹿な! 悪魔に魂を売るときでさえもっとうまくできただろうに。しかも、わたしから充分な説明を受けていないからと言い訳する始末だ。どれだけ愚かで、間抜けなんだ!」
署長がそうまくしたてるのを、わたしはじつに奇妙な冷静さでもって淡々と聞いていた。
小娘、とわたしにとって最大級とも言える侮蔑の言葉を投げつけられてもなんの怒りもわいてこなかった。
前任者のマートンがあれだけ表情に乏しかった理由がわかるような気がする。この署長を相手にしていれば、どれだけ感情豊かな人間であろうとも機械のようになってしまうだろう。
「しかし署長。わたしは彼の言葉をあなたの言葉と同等に扱うよう言われました。その彼がファイルの中身を見るなといえば、それを拒否する権限はわたしにありません」
わたしが言うと、署長は無言のままじっと睨みつけるだけになった。その目からはやはり恐怖がにじんでいる。それは恐慌をきたす一歩手前のようにも見えた。
わたしはそうやって、静かに署長を見つめ返していた。いや、観察していたと言ってもよかったかもしれない。
こんな感覚ははじめてだった。この横柄で憎たらしい上司にひと泡吹かせてやったことに心のなかで快哉を叫ぶこともなかった。
マクブレイン署長がジョン・リップを恐れているのだとわかった瞬間、わたしの一切の感情が凪いだ海のように静かになったのだ。
わたしは続けた。
「署長、わたしはあのファイルがなんなのかを知りません。ですが、その中身がなんであろうと職務を果たす覚悟はできています」
「事態はもうそんな次元の話ではない。いいか、ファイルを手にした途端、やつはどこかへ行方をくらますかもしれんのだぞ」
「それになにか問題が?」
「大問題だ」
署長の口調は静かで重々しく、顔には諦念が浮かんでいた。目の前まで迫りつつある巨大な竜巻から逃げることをやめてしまった人物がいるとしたら、もしかしたらいまの彼と同じような表情を浮かべるのかもしれない。
「ジョン……彼からは連絡があるまで待機するように言われています」わたしは報告のしめくくりとしてそう言った。
「なら、そうしたまえ」署長が目頭をおさえながら答える。「それから、きみを謹慎処分にする」
立ち去ろうとしたところで署長の言葉が突き刺さり、わたしはドアノブを握ったまま振り返った。
「やつから連絡があるまで自宅で待機していろ」
わたしはなにも言わなかった。最後の最後で権力を笠にやり返されたが、反発するだけ無駄だということはこれまでのやりとりから充分に承知していた。
「なにも言うな」電話に出るなり署長は言った。「報告はオフィスで訊く」
それきり電話は切れてしまった。受話口から流れる不通音を耳に、わたしはようやく自分の失敗に気づいた。
「なにを考えているんだ?」オフィスで待つ署長の剣幕は、わたしの予想を超えていた。普段から山のようにそびえる巨体は、怒りによって二倍以上にふくれあがって見える。「電話は盗聴されているかもしれないんだぞ。きみも刑事のはしくれなら、そんな可能性くらい見当がつくはずだ」
「お言葉ですが、わたしは指定の場所である人物と接触しろという命令以外受けていません。メモをとるなとは言われましたが、電話での報告が禁止とも言われていません」
わたしの言葉で、署長の怒りが増しているのがわかった。
ひげをたくわえた大きく赤い顔がどす黒く変色している。正午前の静まりかえったオフィスに、署長の荒々しい鼻息だけが音をたてる。
だがわたしも今回ばかりは引くつもりはなかった。わけのわからないことに巻き込まれて、腹を立てたくなるのはこっちだった。
やがてマクブレイン署長はネクタイをゆるめると、その大きな体を椅子に深く沈めた。
「それで?」深いため息とともに署長が訊ねる。「彼から職務の内容は訊いたのか?」
「いいえ、肝心なところはなにも。ただ少し会話をしただけです。それから金庫を開けて帰ってきました」
署長はぎょろりと目を剥き、わたしを睨みつけてきた。
「ファイルはきみが持っているのか?」
「いいえ。ジョン・リップに見ることを禁じられましたから。そのほうがわたしのためだと――」
「その名前を口にするな!」
雷鳴のような怒声をあげる署長に、わたしはもう驚かなかった。理不尽な署長に反抗心を燃やしていたおかげだろう。それまで彼に対して抱いていた恐怖心は、いつの間にか消えていた。それどころか、あれほど大きく思えた署長の身体が、すっかり縮んでしまったようにすら感じた。
マクブレイン署長は怒りから声を荒らげたわけではない。彼は恐怖していたのだ。
なにを? わたしを?
まさか。彼が恐れているのは、きっとジョン・リップだ。
「この小娘が。ただやつに会って世間話をしただけで帰ってきただと。おまけにあの金庫を開けてきたというのか。なんて馬鹿な! 悪魔に魂を売るときでさえもっとうまくできただろうに。しかも、わたしから充分な説明を受けていないからと言い訳する始末だ。どれだけ愚かで、間抜けなんだ!」
署長がそうまくしたてるのを、わたしはじつに奇妙な冷静さでもって淡々と聞いていた。
小娘、とわたしにとって最大級とも言える侮蔑の言葉を投げつけられてもなんの怒りもわいてこなかった。
前任者のマートンがあれだけ表情に乏しかった理由がわかるような気がする。この署長を相手にしていれば、どれだけ感情豊かな人間であろうとも機械のようになってしまうだろう。
「しかし署長。わたしは彼の言葉をあなたの言葉と同等に扱うよう言われました。その彼がファイルの中身を見るなといえば、それを拒否する権限はわたしにありません」
わたしが言うと、署長は無言のままじっと睨みつけるだけになった。その目からはやはり恐怖がにじんでいる。それは恐慌をきたす一歩手前のようにも見えた。
わたしはそうやって、静かに署長を見つめ返していた。いや、観察していたと言ってもよかったかもしれない。
こんな感覚ははじめてだった。この横柄で憎たらしい上司にひと泡吹かせてやったことに心のなかで快哉を叫ぶこともなかった。
マクブレイン署長がジョン・リップを恐れているのだとわかった瞬間、わたしの一切の感情が凪いだ海のように静かになったのだ。
わたしは続けた。
「署長、わたしはあのファイルがなんなのかを知りません。ですが、その中身がなんであろうと職務を果たす覚悟はできています」
「事態はもうそんな次元の話ではない。いいか、ファイルを手にした途端、やつはどこかへ行方をくらますかもしれんのだぞ」
「それになにか問題が?」
「大問題だ」
署長の口調は静かで重々しく、顔には諦念が浮かんでいた。目の前まで迫りつつある巨大な竜巻から逃げることをやめてしまった人物がいるとしたら、もしかしたらいまの彼と同じような表情を浮かべるのかもしれない。
「ジョン……彼からは連絡があるまで待機するように言われています」わたしは報告のしめくくりとしてそう言った。
「なら、そうしたまえ」署長が目頭をおさえながら答える。「それから、きみを謹慎処分にする」
立ち去ろうとしたところで署長の言葉が突き刺さり、わたしはドアノブを握ったまま振り返った。
「やつから連絡があるまで自宅で待機していろ」
わたしはなにも言わなかった。最後の最後で権力を笠にやり返されたが、反発するだけ無駄だということはこれまでのやりとりから充分に承知していた。