第一章 9

文字数 2,924文字

 ニューオーウェル市は一世紀以上前からその姿をあまり大きくは変えていない。
 裏を返せば、ここは当時から充分すぎるほど発展した都市であり、長い年月を経てなお世界の中心であり続けている。
 この街に住んでいるわたしは、胸を張ってそう言える。

 ニューオーウェル市警十九分署もまた、そんな街の歴史の恩恵にあずかっていた。第二次世界大戦前夜の一九三〇年代、当時流行していたアール・デコ調の石造建築の建物に居を構えていたからだ。
 もともとファッション雑誌の編集社屋だったものを会社の倒産をきっかけに警察が買い上げたもので、いまでもその名残として二階部分まで吹き抜けになっているメインロビーの道路側に面した壁には、正面ドアの両側に空色の窓枠をあしらった大窓が四枚並んでいた。
 そんなわたしたちの居城は地上三階建てに物置用の屋根裏部屋のおまけつき。地下は調書や報告書、それからそれ以上に大量の始末書といった文書を保管する半地下の巨大な書庫と、警察車両を止める地下一階の駐車場とにわかれている。

 地下駐車場に着いたわたしは、車から降りるなり運転手のリッチーをおいてさっさと歩きだした。
 居抜きで使っているとはいえ消防法や公共の庁舎としての規約もあり、非常扉や消火栓は真新しいものに交換されている。
 エレベーターも例外ではなく、かつてはアコーディオンのような柵で仕切られたレトロな外観だったものが、いまや温もりのかけらもない無機質な銀色の箱になりさらばえている。
 わたしはそれに乗りこむと、冷たい光に照らされたボタンを押した。扉が閉じる直前、急ぐでもない足取りで駐車場を横切るリッチーと目が合った。

 さきほどまでの怒りはおさまっていたが、決意は心の中に確かに残っていた。それはどことなく、白くなるほど熱せられた鉄が冷えたときに得られる硬質さに似ている。
 この感情の高ぶりが、前夜経験した恋人との破局による影響ではないということははっきりと言えた。それよりも、色恋を犠牲にしてまで打ち込んできたこの仕事に対して、相棒から三行半を突きつけられたことのほうがよっぽど腹に据えかねていた。

 エレベーターが殺人課のある二階を通りすぎていく。
 三階に到着すると、これまた情緒に欠ける電子音とともに扉が開いた。わたしはエレベーターを出ると、廊下を直進して突きあたりのドアを目指した。

 現場で汗水流して働く刑事たちか詰める階下のオフィスから階段と備品室、さらに図書室などが建ち並ぶ廊下とで隔たれた分署の最奥にあるこの部屋は、かつては雑誌編集長の個人オフィスだったそうだ。
 わたしが思うに、きっとその編集長殿は静かに黙想にふけることと、人の上に立つことを生きがいにしていた人物だったに違いない。それから七十年以上の歳月を経て、部屋の中にはわたしが思い描いた人物像そのままのボスがいまもふんぞりかえっていた。

 個人オフィスの前で足を止めたわたしは、深呼吸をひとつしてからドアをノックした。ここを訪れるときは決まって心臓が高鳴り、緊張で冷や汗をかいてしまう。

「入れ」ドアの前に立つわたしに、部屋の奥から野太い声が返事をする。
「失礼します」わたしはオフィスに入った。

 十九分署のカール・マクブレイン署長は部屋の奥、夕方になるとニューオーウェルの西日が射しこむ窓を背にして机についていた。

「なにか用か?」
「お話しがあります。お時間を頂けませんでしようか?」

 わたしの進言に、マクブレイン署長は両手を組むと、深く息をつきながら椅子に身をあずけた。革張りの椅子と背広の生地がこすれ、静まりかえった室内にきしんだ音をたてる。

「あとにできないか」署長は目頭を揉みながら、「いまは忙しい。おまけにあまり寝ていないんだ」

 署長のデスクにはファイルが山積みになっていた。ほのかにアルコールのにおいも漂っている。昨夜は一晩中ここで、グラス片手に資料に読みふけっていたのだろうか。
 刑事としての習慣でわたしがファイルをのぞこうとすると、署長はそれを勢いよく閉じた。

「それで?」マクブレイン署長が視線だけでわたしを尻込みさせる。
「ベンソン刑事とのことです」わたしは答えた。署長は同僚をファーストネームで呼ぶことを許さない。
「マートンの件をふたりで担当しているそうだな。なにかわかったのか?」
「まだなにも」
「そうか」署長が落胆をのぞかせる。「彼は一緒じゃないのか?」

 顔をあげた署長が正面からじっと見据えてきたので、わたしはその迫力に思わず尻ごみした。
 大学時代にアメリカンフットボールで鍛えた体躯は三十年近く経ったいまでも健在だ。ポジションはラインバックだったそうだが、きっと現役時代はその巨体から繰り出す強烈なタックルで、さぞ多くの敵を粉砕したことだろう。

「彼は自分の……デスクに戻りました」言いよどんだのは、リッチーが自席ではなく喫煙所に直行したであろうことが見ていなくてもわかったからだ。同時にわたしは、思わず彼をかばってしまった自分自身に驚かされた。
「それならきみも捜査に戻りたまえ」
「そのことなんですが」
「なんだ?」

 歯切れの悪いわたしに対して、署長はあきらかに苛立っている。睡眠不足にくわえてマートンの件が重なり、おまけにその捜査にあたっている刑事がひとりでオフィスを訪れたのだ。面倒事は充分すぎるほど背負っているに違いない。
 それでもわたしは切り出した。

「マートンの件をわたしひとりに任せてほしいんです」

 重い沈黙がたちこめ、わたしははやくも後悔しはじめていた。
 それでもこの部屋のドアを叩いたとき、すでに引っ込みはつかなくなっていたし、上司の威圧感よりもリッチーの茶番にこれ以上つきあわされたくない気持ちのほうが強かった。

「この忙しいときに、なにを言い出すのかと思えば……」
「いまだから言ってるんです。ベンソン刑事の態度は捜査に支障をきたしかねません」
「服務規程はじゅぶんに理解しているはずではないか。それとも、映画やドラマのように単独捜査が本当に許されると思っているのか?」
「それは……」

 口ごもりながらリッチーを捜査からはずす理由を探すが、見つからなかった。
 素行はどうあれ、リッチーが頭のきれる優秀な刑事であることは事実だ。態度が目にあまったとして、少なくともマートンの殺害現場で見せた説得力は確かなものだったし、実際に彼はこれまで多くの事件を解決に導いている。相棒であるわたしは、いつもそれをもっとも身近なところから、憧れと悔しさをないまぜにしながら見ていた。

「捜査が支障をきたしているのはきみのせいじゃないのか?」

 わたしはなにも言えなかった。
 署長からしてみれば、部下が突然オフィスにあがりこんで単独捜査の許可を求めてきたのだ。常に危険が伴う現場では、お互いがカバーできるように二人一組で行動するのが鉄則になっている。わたしの言い分は、自らの生命だけでなく警察の沽券さえも危険にさらすものだった。

「捜査に戻りたまえ。従わないのなら、わたしにも考えがある」署長はそう言いながら背を向けた。

 遠まわしだが断固たる「ノー」を突きつけられ、それ以上なにも言えないままわたしはオフィスをあとにした。
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