第二章 115

文字数 1,740文字

 その晩、ジョンの自宅で起きたことをキャシーから訊いたのは、ずっとあとになってからだった。彼女はダイナーでの仕事を終えて家に帰るところだった。
 いつも自宅まで車で送ってくれるビルの腰の調子が運転ができないほど悪かったのは、偶然というよりほかない。

「ビルのピックアップトラックはおんぼろで、干草みたいな煙草のにおいがこもってるけど、乗るのは嫌じゃないの」キャシーはわたしにそう言った。「普段からむっつりしてるけど、彼なりにわたしを心配してくれてるのよね。それでもあの日はビルに無理させたくなかったから、家まで歩いて帰ることにしたわ。夜道は危ないけど、タクシー代も節約したかったし。
 ミスター・ウェリントンの家の前を通ったのはたまたまよ。それがまさかあんなことになるなんて……。

 ロウアー・イーストのわたしの家に帰るのに、ミスター・ウェリントンの家に寄るのがちょっぴり遠まわりになるのはわかってた。けど、少し散歩したい気分でもあったの。夜風は冷たかったけど、早足で歩けば身体も温かくていい気持ちだしね。

 彼の家って交差点の角に建ってるでしょ。わたしはあのとき、向かいの歩道に立ってなんとなく窓を眺めてたの。ちょうど対角線の歩道のところでね。
 そしたら三階の窓から光が見えたわ。部屋に電気がついたんじゃなくて、暗闇の中でなにかが反射したような感じ。それから人影も見えた。
 きっとミスター・ウェリントンね。わたし、目がいいのよ。

 彼は家の中をうろついてるようだったわ。わたしはそれを眺めてた。ここでちょっと待ってれば、もしかしたら彼が家から出てくるかもしれない。
 偶然の出会いなんてロマンチックじゃない? それも初対面じゃなくて顔見知りの男女がばったり出くわすのって。

 なにかの拍子で彼の家から目を離したんだけど、なんだったかしら……視線を戻したら、三階からは人影が消えてたわ。彼はもうベッドに入ったのか、それともまた街にくりだしたのか。
 夜遊びするタイプには見えなかったし、寝たんだと思ったけど、それでもまだわたしはそこに立ってた。彼が出てくるのをまだ期待してたの。

 そのときよ、それが起きたのは。

 リサはアートバルーンって知ってる? 膨らませた風船で犬や花を作るあれよ。ビルったらそれを見てなんて言ったと思う?
『馬用のコンドームだな』って。いやんなっちゃう。
 そうそう、それでわたしの知り合いでアートバルーン専門の大道芸人がいて、彼からこつを教わったことがあるの。ステージの余興になりそうだったからわたしも興味あったし、彼も熱心に教えてくれた。
 あとになってわかったんだけど、彼が熱心になってたのは誰かに教えることじゃなかったのよね。共通の知り合いにこう言われたの。

『あいつがきみに風船を教えてるのは、きみがそれをくわえたりしごいたりするのを見たいからだ』って。

 それを聞いて一気に興味が失せちゃった。ほんと、男なんてみんな……でもミスター・ウェリントンは別よ。

 ああ、ごめんなさい。あの晩の話よね。
 ミスター・ウェリントンの家はそのアートバルーンそっくりだった。もちろん形が黄色い犬や青い花に変わったわけじゃない、わたしがよくやる失敗にそっくりだったの。
 もともと肺活量には自信あるほうだし……お忘れじゃなければだけど、わたし歌手志望だから。
 けど手先は不器用なのよ、わたし。それこそ、指の代わりに蹄が生えてるんじゃないかってくらいに。だから練習のときも、よく風船を割っちゃってたの。

 そんな経験が少なくとも五十回以上はあるから、風船が割れるところも目の前でよく見てた……内側から破裂して、破片をそこらじゅうに撒き散らす様子をね。

 同じだったのよ、ミスター・ウェリントンの家は。わたしが顔をあげた瞬間に内側から破裂したの。

 まるで見えない誰かに殴り倒されたみたいに、わたしは地面に尻餅をついたわ。三階建ての建物全体で炎があがっていた。さっきまでの静けさが嘘みたいに、目が痛くなるくらい激しい炎だったわ。事態が飲み込めるようになるまでしばらくかかった。
 ううん、本当の意味ではいまも理解できてないのかもしれない。

 それでも事実なのよね、ミスター・ウェリントンの自宅が爆発したのは……」
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