第二章 52
文字数 2,354文字
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「あとになって思い返せば、取引のあいだレオは一度もわたしのことをまっすぐ見ようとしなかった。彼は嫌悪感を抱いていたんだと思う。わたしにではなく、子供が売り買いされるという事実に。裏社会に身をおきながら、彼はそうしたことにうんざりしていたんだ。そのことにもわたしは好感を持てた。漠然とだが、その瞬間からわたしはレオのような男になりたいと思っていたんだ」
「そう……でも、ちょっと待って。あなたいまピーノって言ったわよね。それって、あのピーノ・アルベローニ? ロドルフォ・デ・アルベローニの弟の?」
「そうだ」
にべもなく言うジョンに、わたしは軽いめまいをおぼえた。
ピーノ・アルベローニもまた、ニューオーウェルの裏社会でその名を轟かせた悪党だった……もちろん、その知名度は兄であるロドルフォ・アルベローニの影響によるところが大きいのだが……ピーノもまた、ただの小悪党ではなく危険な犯罪者だった。
わたしが知っているなかではこんな逸話がある。もう何十年も前の話だ。
ピーノは以前、ダウンタウンのハンバーガーショップを居合わせた人たちごと爆弾で吹き飛ばしたことがある。敵対勢力の幹部がその店によく出入りしていた、というのが犯行の動機だったそうだが、実際はそこで食べたハンバーガーの味が気に入らなかったというのが本当の理由だと、まことしやかにささやかれている。
警察が捜査にあたるなか、ピーノは折悪しく地元のギャング団からも命を狙われることになった。敵対組織とつながりのあるギャング団の一味とその家族が爆発の巻き添えにあったのだ。
警察とギャング団から追われながらも、ピーノはその窮地から見事逃げおおせた。
その逃走に手を貸したのは兄のロドルフォだった。ロドルフォはピーノに逃走資金と隠れ家を用意してやり、捜査の指揮を執っていた警察幹部に賄賂を渡して捜査方針をピーノの逮捕からギャング団の検挙に転換させたのだ(当時の風潮があったからこそできた荒業だろう。いまの警察組織はおいそれと袖の下を受け取ろうとはしないからだ。もっとも、ジョンと手を組んでしまったいまとなっては、自信を持ってそう断言もできなくなってしまったが)
結局、警察を相手にしなくてはいけなくなったギャング団は弱体化の一途を辿り、ロドルフォにその隙を突かれて壊滅に追いやられた。当のピーノはと言えば、偽造パスポートを使ってヨーロッパを周遊しながら雲隠れをしたそうだ。
知略に長けた兄に対して、場当たりで衝動的な弟。
ロドルフォが賢い狼だとすれば、ピーノは鎖を食いちぎって野放しになった狂犬のようなものだ。
帰国後もピーノは大暴れを繰り返しては紙面を賑わせたが、ある日を境にぴたりと世間から顔を出さなくなった。当局もこの凶悪犯を失踪人として処理した。生死の確認にはあまり重点は置かれていなかった。とにかく、嵐のような男には消えてもらうにかぎるからだ。
「さようならイオウバラ君。きみについての真実を語ることはわたしにはできない。ナンターケットの古老にだってできはしない」わたしは失踪したピーノを鯨になぞらえた。
「メルヴィルか」ジョンがにやりと笑う。「きみもそういう本を読むんだな」
「むかし、父の書棚にあったのよ。愛読書だったらしいわ」
わたしはそれきり口を噤んだ。
昼間、ジョンはアルベローニ・ファミリーと個人的な関わりはないと言っていた。
それがどうしたことか、彼の過去を知るにつけ、ファミリーとは個人的どころか浅からぬ関係に冴えてあるではないか。切り出しにくい話題だったとはいえ、これほど重要なことを隠されていたことに腹を立てていないといえば嘘になる。
そして、物事が動きはじめたいまになってこのことを明らかにしたジョンのずるさにも不満を感じていた。
「黙っていてすまない」ジョンはそう口を開いた。「だが、ロドルフォに直接会ったことがないのは本当だ」
「兄と弟の違いってだけでしょ。ピーノと関わりがあったのなら、わたしには同じことよ。なんだかあなたの言葉が信じられなくなってきたわ」
「話したくなかったんだ。本当にそれだけの理由さ。わたしの思い出には、つらいことが多すぎる」
「そんなこと……とにかく、これであなたとの信頼関係はまた振り出しに戻ったってわけね」
「言い訳はしないよ。だがそれでもわたしたちはいま、真実に近づいている。違うか?」
わたしは答える代わりに壜に口を近づけると、失望や怒りを流すようにコーラを飲み干した。それから新しい一本を開けると、その中身も大きくあおった。
責めるわたしに対して聞き分けのいい態度をくずさないジョンに、ますます苛立ちが募った。
つらい思い出が多すぎる、とジョンは言った。
たしかにそうだ。仮に彼の話す過去がすべて真実だとすれば、幼い少年の身に降りかかった不幸はあまりにも大きい。
だが、誰だって生きることはつらいのだ。それを自分ひとりだけが悲劇の主人公であるかのように振る舞われても困る。
だがわたしは、それ以上ジョンを責めることはやめた。彼の言うことにも頷ける部分があったからだ。
わたしたちは真実に近づいている。
ひょっとしたら、ジョンはわたしのひらめきを期待して自分の過去をつまびらかにしてくれているのかもしれない。
もちろん、昔話をせびり続けるわたしに根負けしただけ、という可能性も捨てきれなかったが、この際どちらでもいい。
いまのわたしたちにとって重要なのはお互いの信頼関係を修復することではなく、マートン殺害に端を発したこの事件の真実を明らかにすることだからだ。
それにはジョンの昔話が少々過去をさかのぼりすぎているきらいがあるが、この際目を瞑るとしよう。
遠回りをして得られるものもあるからだ。
「あとになって思い返せば、取引のあいだレオは一度もわたしのことをまっすぐ見ようとしなかった。彼は嫌悪感を抱いていたんだと思う。わたしにではなく、子供が売り買いされるという事実に。裏社会に身をおきながら、彼はそうしたことにうんざりしていたんだ。そのことにもわたしは好感を持てた。漠然とだが、その瞬間からわたしはレオのような男になりたいと思っていたんだ」
「そう……でも、ちょっと待って。あなたいまピーノって言ったわよね。それって、あのピーノ・アルベローニ? ロドルフォ・デ・アルベローニの弟の?」
「そうだ」
にべもなく言うジョンに、わたしは軽いめまいをおぼえた。
ピーノ・アルベローニもまた、ニューオーウェルの裏社会でその名を轟かせた悪党だった……もちろん、その知名度は兄であるロドルフォ・アルベローニの影響によるところが大きいのだが……ピーノもまた、ただの小悪党ではなく危険な犯罪者だった。
わたしが知っているなかではこんな逸話がある。もう何十年も前の話だ。
ピーノは以前、ダウンタウンのハンバーガーショップを居合わせた人たちごと爆弾で吹き飛ばしたことがある。敵対勢力の幹部がその店によく出入りしていた、というのが犯行の動機だったそうだが、実際はそこで食べたハンバーガーの味が気に入らなかったというのが本当の理由だと、まことしやかにささやかれている。
警察が捜査にあたるなか、ピーノは折悪しく地元のギャング団からも命を狙われることになった。敵対組織とつながりのあるギャング団の一味とその家族が爆発の巻き添えにあったのだ。
警察とギャング団から追われながらも、ピーノはその窮地から見事逃げおおせた。
その逃走に手を貸したのは兄のロドルフォだった。ロドルフォはピーノに逃走資金と隠れ家を用意してやり、捜査の指揮を執っていた警察幹部に賄賂を渡して捜査方針をピーノの逮捕からギャング団の検挙に転換させたのだ(当時の風潮があったからこそできた荒業だろう。いまの警察組織はおいそれと袖の下を受け取ろうとはしないからだ。もっとも、ジョンと手を組んでしまったいまとなっては、自信を持ってそう断言もできなくなってしまったが)
結局、警察を相手にしなくてはいけなくなったギャング団は弱体化の一途を辿り、ロドルフォにその隙を突かれて壊滅に追いやられた。当のピーノはと言えば、偽造パスポートを使ってヨーロッパを周遊しながら雲隠れをしたそうだ。
知略に長けた兄に対して、場当たりで衝動的な弟。
ロドルフォが賢い狼だとすれば、ピーノは鎖を食いちぎって野放しになった狂犬のようなものだ。
帰国後もピーノは大暴れを繰り返しては紙面を賑わせたが、ある日を境にぴたりと世間から顔を出さなくなった。当局もこの凶悪犯を失踪人として処理した。生死の確認にはあまり重点は置かれていなかった。とにかく、嵐のような男には消えてもらうにかぎるからだ。
「さようならイオウバラ君。きみについての真実を語ることはわたしにはできない。ナンターケットの古老にだってできはしない」わたしは失踪したピーノを鯨になぞらえた。
「メルヴィルか」ジョンがにやりと笑う。「きみもそういう本を読むんだな」
「むかし、父の書棚にあったのよ。愛読書だったらしいわ」
わたしはそれきり口を噤んだ。
昼間、ジョンはアルベローニ・ファミリーと個人的な関わりはないと言っていた。
それがどうしたことか、彼の過去を知るにつけ、ファミリーとは個人的どころか浅からぬ関係に冴えてあるではないか。切り出しにくい話題だったとはいえ、これほど重要なことを隠されていたことに腹を立てていないといえば嘘になる。
そして、物事が動きはじめたいまになってこのことを明らかにしたジョンのずるさにも不満を感じていた。
「黙っていてすまない」ジョンはそう口を開いた。「だが、ロドルフォに直接会ったことがないのは本当だ」
「兄と弟の違いってだけでしょ。ピーノと関わりがあったのなら、わたしには同じことよ。なんだかあなたの言葉が信じられなくなってきたわ」
「話したくなかったんだ。本当にそれだけの理由さ。わたしの思い出には、つらいことが多すぎる」
「そんなこと……とにかく、これであなたとの信頼関係はまた振り出しに戻ったってわけね」
「言い訳はしないよ。だがそれでもわたしたちはいま、真実に近づいている。違うか?」
わたしは答える代わりに壜に口を近づけると、失望や怒りを流すようにコーラを飲み干した。それから新しい一本を開けると、その中身も大きくあおった。
責めるわたしに対して聞き分けのいい態度をくずさないジョンに、ますます苛立ちが募った。
つらい思い出が多すぎる、とジョンは言った。
たしかにそうだ。仮に彼の話す過去がすべて真実だとすれば、幼い少年の身に降りかかった不幸はあまりにも大きい。
だが、誰だって生きることはつらいのだ。それを自分ひとりだけが悲劇の主人公であるかのように振る舞われても困る。
だがわたしは、それ以上ジョンを責めることはやめた。彼の言うことにも頷ける部分があったからだ。
わたしたちは真実に近づいている。
ひょっとしたら、ジョンはわたしのひらめきを期待して自分の過去をつまびらかにしてくれているのかもしれない。
もちろん、昔話をせびり続けるわたしに根負けしただけ、という可能性も捨てきれなかったが、この際どちらでもいい。
いまのわたしたちにとって重要なのはお互いの信頼関係を修復することではなく、マートン殺害に端を発したこの事件の真実を明らかにすることだからだ。
それにはジョンの昔話が少々過去をさかのぼりすぎているきらいがあるが、この際目を瞑るとしよう。
遠回りをして得られるものもあるからだ。