第二章 35
文字数 1,555文字
カウンターから忽然と消えた椅子はここにあった。
いまその椅子はトチロウではなく別の人物を座面に据えて、わたしたちが足を踏み入れた一室の中心に妖しい儀式めいた様子でぽつんと佇んでいた。
そしてこれが、わたしとミヤギ氏との最初で最後の対面だった。
そこは小さな倉庫だった。
周囲の壁を覆う棚には商品の在庫がところ狭しと並べられ、天井からは裸電球がぶらさがっている。壁と天井のあいだにある小窓からさしこむ夕日が、かび臭さとともに舞い上がる埃をきらきらと反射させていた。
部屋は赤かったが、それはけして夕日だけのせいではない。いま、普段は乾いて埃が積もっていたであろう倉庫の床一面は、大量の血で覆われていた。
ミヤギ氏は椅子の背もたれに身をあずけて座っていた。あごが胸につくほど深くうなだれており、全身が血まみれでなければ眠りこけているようにしか見えない。
わたしはさらに数歩近づくと、あらためて目の当たりにした凄惨さに思わず顔を背けた。
ミヤギ氏の両手の指はすべて切り落とされていた。
手だけではない。裸足にされ、足の指もみんな失っていた。
「ミヤギさんなんだな?」ジョンが訊ねる。血のにおいを嗅ぎとることはできても、それが誰のものかまではわからないらしい。
わたしは短い返事で死体がミヤギ氏のものであることを伝えると、椅子の傍らまで歩み寄った。
それからハンカチを取り出し、意を決してその俯いた顔に手を近づける。
ミヤギ氏の額に触れた瞬間、全身がざわめいた。冷蔵した鶏肉のように冷たくなっているのが薄い布越しに伝わってくる。当然だ、床を真っ赤に染めるだけの血液を失ったのだから。それにしても、この小柄な老人のどこにこれだけの量の血が詰まっていたのだろう。
顔を持ち上げても、ミヤギ氏の頭はその重みにたえられず、けしてまっすぐになることはなかった。それでもわたしは、どうにか彼の身を起こすことができた。どろんと宙を仰ぐ瞳はうつろで、口はぽっかりと半開きになっている。細い首筋には真横に切れ込みがはいっており、そこから流れた大量の血がエプロンのようにシャツを赤く染めていた。
老人の命を奪ったこの傷口も、彼が味わったであろう苦痛を考えれば慈悲深くすら思える。わたしはいちおうの確認として首筋(そこも額と同様に、怖気がたつほど熱を失っていた)に指をあてたが、結果はむなしいほどわかりきっていた。
「死んでる……」わたしは胸のむかつきをおさえながら、ミヤギ氏の死に様をジョンに伝えた。
「サム・ワンの仕業だ」ジョンが短く言う。
「断言できるの?」
「ああ、やつのやり方はよくわかっているつもりだ。ミヤギさんからなにかを聞き出すため、拷問にかけたんだろう」
その瞬間、それまで現実味を欠いていた死という存在がわたしの頭上から鉛のかたまりのように降ってきた。言葉にしたことで目の前の死が真実となり、わたしを容赦なく打ちのめす。全身が、墓石がのしかかっているかのように重苦しかったし、頭痛をともなう脈拍は、搏つたびに棺桶を封印する釘音のように大きく響いた。
死がわたしを押し潰そうとしていた。
目の前に横たわるミヤギ氏の死だけではない。
マートンの死、ハニーボールの死、そしてなにより、父の死。この老人の亡骸を通して、それまでわたしがその半生で体験した死が舞い戻り、ふたたび包みこんできた。
これ以上は立っていられなかった。倒れようとするわたしを支えてくれたのはジョンだった。彼が抱きとめてくれなければ、どこか甘ったるいにおいを放つミヤギの血に全身を浸していただろう。
「ダメ、立ってられない」
「貧血をおこしているんだ。しっかりしろ。とにかくここを出よう」
ジョンの肩を借り、わたしはねばつく床に足をとられまいとして懸命に出口を目指した。
いまその椅子はトチロウではなく別の人物を座面に据えて、わたしたちが足を踏み入れた一室の中心に妖しい儀式めいた様子でぽつんと佇んでいた。
そしてこれが、わたしとミヤギ氏との最初で最後の対面だった。
そこは小さな倉庫だった。
周囲の壁を覆う棚には商品の在庫がところ狭しと並べられ、天井からは裸電球がぶらさがっている。壁と天井のあいだにある小窓からさしこむ夕日が、かび臭さとともに舞い上がる埃をきらきらと反射させていた。
部屋は赤かったが、それはけして夕日だけのせいではない。いま、普段は乾いて埃が積もっていたであろう倉庫の床一面は、大量の血で覆われていた。
ミヤギ氏は椅子の背もたれに身をあずけて座っていた。あごが胸につくほど深くうなだれており、全身が血まみれでなければ眠りこけているようにしか見えない。
わたしはさらに数歩近づくと、あらためて目の当たりにした凄惨さに思わず顔を背けた。
ミヤギ氏の両手の指はすべて切り落とされていた。
手だけではない。裸足にされ、足の指もみんな失っていた。
「ミヤギさんなんだな?」ジョンが訊ねる。血のにおいを嗅ぎとることはできても、それが誰のものかまではわからないらしい。
わたしは短い返事で死体がミヤギ氏のものであることを伝えると、椅子の傍らまで歩み寄った。
それからハンカチを取り出し、意を決してその俯いた顔に手を近づける。
ミヤギ氏の額に触れた瞬間、全身がざわめいた。冷蔵した鶏肉のように冷たくなっているのが薄い布越しに伝わってくる。当然だ、床を真っ赤に染めるだけの血液を失ったのだから。それにしても、この小柄な老人のどこにこれだけの量の血が詰まっていたのだろう。
顔を持ち上げても、ミヤギ氏の頭はその重みにたえられず、けしてまっすぐになることはなかった。それでもわたしは、どうにか彼の身を起こすことができた。どろんと宙を仰ぐ瞳はうつろで、口はぽっかりと半開きになっている。細い首筋には真横に切れ込みがはいっており、そこから流れた大量の血がエプロンのようにシャツを赤く染めていた。
老人の命を奪ったこの傷口も、彼が味わったであろう苦痛を考えれば慈悲深くすら思える。わたしはいちおうの確認として首筋(そこも額と同様に、怖気がたつほど熱を失っていた)に指をあてたが、結果はむなしいほどわかりきっていた。
「死んでる……」わたしは胸のむかつきをおさえながら、ミヤギ氏の死に様をジョンに伝えた。
「サム・ワンの仕業だ」ジョンが短く言う。
「断言できるの?」
「ああ、やつのやり方はよくわかっているつもりだ。ミヤギさんからなにかを聞き出すため、拷問にかけたんだろう」
その瞬間、それまで現実味を欠いていた死という存在がわたしの頭上から鉛のかたまりのように降ってきた。言葉にしたことで目の前の死が真実となり、わたしを容赦なく打ちのめす。全身が、墓石がのしかかっているかのように重苦しかったし、頭痛をともなう脈拍は、搏つたびに棺桶を封印する釘音のように大きく響いた。
死がわたしを押し潰そうとしていた。
目の前に横たわるミヤギ氏の死だけではない。
マートンの死、ハニーボールの死、そしてなにより、父の死。この老人の亡骸を通して、それまでわたしがその半生で体験した死が舞い戻り、ふたたび包みこんできた。
これ以上は立っていられなかった。倒れようとするわたしを支えてくれたのはジョンだった。彼が抱きとめてくれなければ、どこか甘ったるいにおいを放つミヤギの血に全身を浸していただろう。
「ダメ、立ってられない」
「貧血をおこしているんだ。しっかりしろ。とにかくここを出よう」
ジョンの肩を借り、わたしはねばつく床に足をとられまいとして懸命に出口を目指した。