第二章 2

文字数 2,132文字

 グラスになみなみと注がれた追加のサケが目の前に置かれるなり、わたしはそれをさっそく手にとった。

「気に入ってもらえたみたいで嬉しいわ」
「ええ、こんなにおいしかったなんて知らなかった。いままでサケってビールに落とすためだけのものだと思っていたから」
「サケボムね。わたしからしてみれば、あんな飲み方するなんて信じられない」

 キャシーは言いながら、皿の上のスシを手にした二本の棒を使って器用に口に運んだ。ハシを使いこなしている姿は、見事というよりほかない。
 わたしも手で直接つまんだスシを口の中に放り込む。生魚と手づかみに辟易したのは最初だけで、いまではすっかりスシの魅力にとりつかれていた。

「それでね、リサ。そのう、今日ここにあなたを呼んだ理由なんだけど……」ハシで海老の尻尾をいじくりながらキャシーは言った。「じつは紹介したい人がいるの」

 キャシーはわたしに携帯電話を差し出した。画面には野球場のグラウンドを背景に、ひと組の男女が映っている。
 男性のほうは太陽の下で、精悍な顔立ちにきらめく白い歯と笑顔を浮かべていた。帽子をかぶった目の下には、隈のような日よけの黒いペイントを塗っている。ほんのりと汗が浮いていることから、さっきまで選手として試合に出ていたようだ。
 男性の腕を抱きかかえるように身を寄せている女性はキャシーだった。タンクトップから細く、しかし健康的に引き締まった二の腕がのびている。相変わらず魅力的で、肌を小麦色に焼いたら、ますます男性たちを釘付けにすることだろう。

 太陽の下に立つ健康的なふたりはまさに“真昼のカップル”とでも言えそうだった。
 以前わたしがジュール街で三百ヤード離れた距離から見た男女とは対照的な、真昼のカップル……

「どうかしら?」キャシーが窺うように上目遣いでわたしを見る。
「素敵じゃない。お似合いだと思うわ。どこで知り合ったの?」

 一瞬の間をおいて、キャシーは笑い声をあげた。その様子に近くの客がこちらを振り返ったが、すぐに関心を映画とお喋りに戻した。

「違うわ、恋人じゃない。ダニーはわたしの従兄よ。ブラッドベリ地区で消防士をやってて、休日はアマチュアリーグの四番バッターなの。<ニューオーウェル・ガッツ>ってチームなんだけど、聞いたことある?」

 わたしは黙って首を横に振った。
<ニューオーウェル・ガッツ>……なにやら胸焼けしそうな名前だ。それにダニーの話をもちかけられるのにも、正直いい予感がしない。

「ダニーとは昔から一緒で、本当の兄妹みたいなの。それでね、彼ってリサとも歳が近いのよ。それについ最近、三年間付き合ってた恋人と別れたばかりみたいなの」

 ここそが重要とばかりに、キャシーは最後に大きく頷いてみせた。実際、彼女にとっての話の要点とは、ダニーがいま失恋の痛手を負っているということなのだろう。
 だがいまのわたしにとって、この手の話題は距離を置きたいものだった。眠った犬がいればそのまま寝かせておくのがいい、それが猛犬なら余計に。

「どうかしら。よかったら一度、ダニーと会ってみない?」
「つまり、それって……」わたしは察しの悪いふりをした。
「もう、わかってるくせに」
「キャシー、気持ちは嬉しいわ。今日ここに連れてきてくれたことにも感謝してる。でも、いまはそういうことはあまり求めてないのよ」
「でも、最近ずっと沈んでるじゃない。お店に来るときもどこか暗いし」

 わたしは頷くと、グラスの中身を半分ほどあけた。
 たしかにキャシーが<ユニヨシ>に連れてきてくれたおかげで元気づけられたのは事実だ。だがわたしが塞ぎこんでいたとしたら、それは失恋が原因ではない。
 恋人との別れから立ち直ったといえば嘘になるが、それ以上に、目の前にあらわれた大問題で失恋に浸るどころではなかったのだ。

「ちょっと仕事で行き詰ってることがあってね。だからせっかくだけど、いまは新しい恋人を探すとか、そういうことに時間を割けないのよ」

 わたしの話に、キャシーは前のめりになっていた姿勢から椅子の背にもたれかけた。

「じゃあ……ああリサ、ごめんなさい。わたしったらとんだ早とちりだわ」
 一変してうろたえるキャシーの手を、わたしはテーブルの上でそっと握ると、「いいのよ。あなたの言うように、きっとわたしったら様子がおかしかったのよね」
「でも……」
「おいしいお店に連れてきてくれてありがとう。いい気分転換になったわ。明日からまた頑張れそう」
「本当に?」

 心配そうにこちらを見るキャシーにわたしは笑いかけた。
 事実、割高な料金設定だが、その分ニューオーウェル式のルールにのっとって店員にチップを渡さなくていいこの店を、わたしは気に入っていた。店の入り口の壁には〝チップはご無用。そのかわりにシェフへの賞賛と笑顔をご用意下さい〟と貼り出される徹底ぶりだ。
 それにアルコールが入るたびにころころと表情を変えるキャシーのこともますます好きになっていた。

「感謝してる」キャシーをじっと見つめながら、わたしは繰り返した。

 キャシーもにっこりと笑い返すと、黙って頷いてくれた。引け目と申し訳なさがまだ尾を引いていたものの、その目からはおおむね好意的な感情をうかがうことができた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み