第二章 63

文字数 1,960文字

 そこは薄暗かったが、開いた蓋からさしこむ日光のおかげでレオの言っていたごみ捨て用のコンテナの中だとすぐにわかった。
 大人でさえ楽々と入れそうなスペース(後年ジョンはニューオーウェルの路地裏で、似たようなコンテナで冬篭りをするホームレスをよく見かけたという)は半分ほどごみで埋まっていた。
 さいわいそのごみは、ジョンがいるのとは反対側の隅で山を作っていた。金属片やリンゴの芯。中華料理のテイクアウト用の紙パックには、なぜか大量の使用済みコンドームが詰め込まれている。壁の一端には正体不明の粘液で紙切れが一枚張りついていたが、近づいてそれを調べる気にはなれなかった。

 ジョンはコンテナの底で身を起こすと上を見た。中腰になって手をのばせば、へりの部分に簡単に手が届きそうだ。立ち上がれば外の様子を窺うこともできるだろう。
 コンテナから顔を覗かせるべく、ジョンは足に力を入れた。だがレオの洗礼がきいたのか、それとも何時間も身動きひとつしなかったせいか、ジョンはよろけ、弱った足がその場で下手くそなステップを踏んだ。
 思わず手をのばした先には、あの壁に張りついた紙が待ち構えていた。手をついた瞬間、粘液で紙が滑り、ジョンは派手に転倒した。

 痛みのせいであげそうになる呻き声を飲み込みながら、ジョンは神経を集中させた。
 転んだときの鈍い音がコンテナの中で大きく響いたし、それを誰かに聞きつけられたかもしれない。近づいてくる者がいないか、ジョンは暴れだしそうになる心臓を押さえつけながらじっと耳をそば立てた。足音が聞こえてこようものなら、傍らのごみの山にもぐりこむことも厭わなかった。

 だが、外は静かだった。枝を飛び交う鳥たちのお喋りと、そよ風を受けた木々のざわめき以外にはなんの音もしなかった。

 ジョンは今度はゆっくり、慎重に身を起こした。膝が緊張と痛みで震えたが、どうにか立ち上がることができた。
 コンテナからわずかに頭を出して周囲に人がいないことを確認すると、ふちに両手をかけて飛び上がった。振り上げた左足を手の横にかけようとしたが、勢いあまってへりをまたいでしまった。
 しまった、と思う間もあらばこそ、ジョンは二度目の転倒に見舞われた。
 それでも見上げた先には、荘厳な宗教画が描かれた天井でも悪臭漂うコンテナの内側でもなく、青空が広がっていた。

 外に出られたのだ。

 ジョンは起き上がり、足元を見つめた。青々と茂る芝生や木立のあいだを割るように、石畳の舗装路が左右にのびている。

 右はジョンが運ばれてきた道で、屋敷の勝手口や正面玄関の車回しに通じ、そこには当然レオをはじめとした一味が……そしてなによりピーノがいる。

 左はほんの三十フィート先に両開きの大きな裏門があり、そこから外に通じている。
 普段は門扉にかんぬきと鍵がかけられているはずなのだが、その日はごみの回収業者の車を迎え入れるためなのか、門は施錠されているどころか開け放たれてさえいた。

 門の先では、両側に生える並木の枝葉でできた天然のトンネルに覆われた道が、木漏れ日の模様を点々と落としながら遥か遠くまで続いている。

〝あのとき道の反対側を選んでいたらわたしはここにいなかったし、きみとも出会っていなかっただろうね。いや、それどころか世界のどこにもいなかったかもしれない〟
 当時を振り返りながら、ジョンはわたしにそう言った。

 ジョンは左へと踏み出しかけた足をそこで立めた。
 振り返れば、背後にはあの恐ろしいピーノが待つ邸宅がそびえ立っている。

 だが恐怖を感じるよりも先に、脳裏にレオの顔が浮かんだ。昨日彼がさんざん殴りつけてきたのは腹いせのためではなく、ジョンを逃がすためだったということはあきらかだった。
 ふと、ジョンはレオがそうした理由を確かめてみたくなった。ここを離れるにせよ、それを知らないままで済ませたくはなかった。

 もう一度足元を見おろしたが、道は相変わらず彼の下に横たわっている。
 ジョンはその上に乗った自分の足を見つめた。小さな足だ、彼はそう思った。
 子供のものだとかそういう問題ではなく、ただひたすらに、ひどく小さな足に思えたのだ。それだけではない。毛布にくるまれて連れてこられたせいで靴も履いていない足は、指のあいだやのび放題の爪の中に垢がたまり、生傷と煤けた汚れだらけだった。

 小さな足だ。ジョンはふたたびそう思った。だが足はふたつともあったし、ありがたいことに指もちゃんと五本ずつある。どんなに汚く、靴を履いてなかろうと、ちゃんと歩き出すことができる。
 心と身体が弱音を吐かないかぎり、どこにだって行くことができる。

 ジョンは顔をあげた。
 夜気を追い払った朝日が眩しかった。同時に生まれてはじめて、世界を美しいと感じた。

 ジョンは決断した。
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