第三章 11

文字数 3,364文字

   4


 約束の時間が近づいていた。

 夜明け前、サム・ワンは拘束したわたしを連れて、身を隠していたジョンの射撃場をあとにした。
 捜索隊が射撃場の出入り口まで来たが、施錠された堅牢な扉に行く手を阻まれていた。彼らがドアをこじ開ける道具を取りに行く隙をついて、サム・ワンとわたしは地上へ戻ったのだ。
 前日からの混乱のせいで街の警察組織全体が人手不足なのだろう、射撃場の階段やエントランスに見張りはいなかった。

 助けてくれる誰かがいることよりも、誰にも出会わずにすんだことに幸運を感じる。
 誰であれ、サム・ワンの姿を見た者はただでは済むまい。
 死人が出るなら、それはわたしかやつだけでいい。巻き込まれた誰かが犠牲になるのは、もうたくさんだ。

 夜明け前の暗闇にまぎれて、サム・ワンは近くに停めていた車……裏通りの隅にぽつんと置かれていたあの一般車のトランクにわたしを押し込んだ。それから凶暴な暗殺者に似つかわしくない丁寧な運転で、車はニューオーウェルの街路を滑るように進んだ。

 自分がいまどこにいるのかわからなかった。トランクは完全に密閉されていたうえに、裏口を出る前に目隠しまでされたからだ。それでも車に向かうまでのあいだに夜明け前の独特なにおいを嗅ぎとることがてきたし、進行方向と角を曲がった回数から車が北に向かって走っているのもわかった。
 それから喧騒も。耳に飛び込んできたわけではないが、それは神経過敏の肌に直接触れてきた。

 街は慌しく落ち着かない夜を越え、不機嫌な朝を迎えようとしている。

 目的地につくと、サム・ワンはトランクからわたしを引きずり出し、とある建物へと入っていった。相変わらず目隠しはされたままだった。
 すぐにドアをもう一枚くぐり、段差をのぼっていく。音の反響からして、階段室かなにかだろう。だとするとこのビルにはエレベーターも設けられている可能性があり、建物自体にそれなりの高さがあるのだろう。
 だが、ニューオーウェルにはそんな建物はごまんとある。ジョンなら自分がいる場所を素早く判断できるのだろうが、普段から視力に頼りきりのわたしにそんな能力はない。

 ジョンとは前夜、ハインラインで落ち合うことを約束していた。彼はまだこの街のどこかにいるのか、それとももうこの世にはおらず、煉獄で神の慈悲を請うているのだろうか。
 わたしの胸の内に孤独が流れ込み、それが絶望感とないまぜになる。

 サム・ワンは呼吸をひとつも乱すことなく、わたしを連れて次々とフロアをあがっていった。
 刑事であるわたしも体力には自信があったが、とうとう階段の途中でへばってしまった。サムワンがそんなわたしを強引に引き起こす、それも片腕で……人間離れしたその怪力に、わたしは戦慄した。

 階段をのぼりきり、階段室を出て廊下を通ったあと、その先の部屋でようやくサム・ワンはわたしを解放した。

 サム・ワンは床に倒れこむわたしのポケットをまさぐって携帯電話を取り出した。
 ボタンを押すのと同時に、サム・ワンが自分のポケットからなにかを取り出す音……それから間……

「わたしなんだ……」

 突如、別の誰かの声が耳に飛び込む。
 誰あろう、聞き馴れたそれはジョンの声だったが、どこか精彩を欠いている。身をこわばらせるわたしをよそに、悲嘆にくれたジョンの声は続けた。

「わたしがここで死ねばよかったんだ。そうすればいまでも……」
「ジョン……」と、これはわたしの声だった。

 だしぬけに目隠しをはずされ、射抜くような光がわたしを突き刺す。
 顔をしかめながら最初に目にしたのは、鼻先に突きつけられたわたしの携帯電話だった。それを認めた直後、ディスプレイに表示されていた通話画面が消される。

「ジョンに電話したのね。いまの録音を彼に聞かせたんでしょ?」

 わたしはサム・ワンを見上げて問いかけた。あれは間違いなく、カルノー親子の死に場所を前にしたときのジョンの懺悔の言葉だった。
 わたしの問いに、モッズコートのフードに隠れた顔はなんの答えもしめそうとはしなかった。
 だがそこには希望もあった。サム・ワンがこうして電話をかけたということは、その相手であるジョンがまだ生きている可能性があるということだ。

「彼の家を爆破したのもあなたなんでしょ。なぜこんなことをするの?」

 サム・ワンはこれにも答えなかったが、その代わりにわたしの肩ごしに前方をまっすぐ指さした。道路を挟んだ向かいの建物。ちょうど目線とおなじ高さに、ビルの屋上が広がっている。
 それが一昨日の夜、わたしとジョンがおとずれた場所だということはすぐにわかった。一昨日の夜、わたしとジョンがたったいま録音で聞かされた会話を交わし、ワインを飲み交わし、抱擁を交わした場所。
 サム・ワンはそれらを目にし、会話を耳にしていた。そうしておきながら、わたしたちになにもしてこなかった。
 ふたりの秘め事を、この暗殺者はただじっと見聞きしていたのだ。その事実に思わず吐き気がこみあげてくる。

 と、そこでわたしはようやく自分がいまいる場所に考えをめぐらせることができた。それまでなぜ気づかなかったのか、ここはジョンの人生で初めての標的が立っていた場所、カルノー親子がその最期を迎えたペントハウスだったのだ。
 向かいの屋上を見つめていると、いまにもそこに、ライフルを構える若い殺し屋の姿があらわれてきそうだ。
 わたしはまた、生者が足を踏み入れてはいけない場所に立っていた。射撃場の奥と古い殺人現場は、わたしの立場になんの変化ももたらさなかった。

「なにが目的なの?」わたしは叫んだ。「たくさんの人が死んだ。わたしたちのほうも、あなたたちのほうも。こんなことしてなんの意味があるの? なにを望んでるっていうの?」

 サム・ワンはやはりなにも答えなかった。ただ、フードの奥の暗がりからくっくっと声を漏らすだけだった。火にかけた水が徐々に温度を上げ、気泡を生んでいくような音だった。

 直後、それが高笑いとなった。

 恐ろしい声だった。
 壊れる寸前まで回転し続けるエンジンのような、未開の地に生息する猛獣の遠吠えのような、冷たい墓場の地面をひきずられる空っぽの棺桶がたてるような恐ろしい声。
 だがなによりも恐ろしかったのは、サム・ワンがその声で歓喜を謳っているということだった。

 そこでわたしは理解した。サム・ワンはジョンへの反撃の狼煙として、彼の家を爆破したのだと。
 サム・ワンは爆弾でジョンの命を奪おうとと思ってもいなければ、彼が家にいないことも承知していたのではないか……もしくは、そんな安い罠で命を落とすような殺し屋はお呼びではないとでも考えていたのかもしない。
 きっとキャシーがジョンの家で見たという人影も、サム・ワンのものだったのだ。

 サム・ワンは爆破工作のあと、地下の射撃場にじっと身を潜めた。ジョンかわたしのどちらかがやってくるのを待つために。
 ジョンが来たのならその場で決着をつけていたのだろうか。いや、サム・ワンは思慮深いジョンが自宅に戻るなどとは、はじめから期待していなかった。

 つまり、爆破はわたしをおびき寄せるための罠だったのだ。のこのことその場にやって来たわたしは、サム・ワンにまんまとはめられた。やつはわたしを餌に、ここでジョンと決着をつけるつもりなのだ。

 もしもジョンがここに来なかったら。
 ジョンが生きていたとして、ここに来られないほどの大怪我を負っていたら。

 それとも……これがいちばん恐ろしい想像だが……ジョンがわたしを見捨てたとしたら。

 考えをめぐらせているあいだもサム・ワンは笑い続け、わたしの思考はその邪悪さにからめとられていた。

 どれだけの時間が経っただろうか、周囲を満たしていたサム・ワンの笑い声が突然ぴたりと止んだ。
 サム・ワンは懐から拳銃(AMTハードボーラーで、遊底の上に競技用スコープが取り付けてあった)を引き抜くと、二の腕をつかんで立たせたわたしの背後にまわりこみ、こめかみに銃口をあててくる。
 前夜、マクブレインに同じことをされたが、それとはくらべものにならないほどの危うさを感じた。

 そのとき、朝日に照らされるなか、向かいのビルで動きがあった。階段室のドアが開き、屋上にひとりの男があらわれたのだ。
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