第三章 13

文字数 1,793文字

 携帯電話の呼び出し音でわたしは我に返った。
 宙ぶらりんだった上半身を安全な場所まで引きずり上げると、わたしはポケットから携帯電話を取り出した。

「白線が見えた」前置きなしにジョンが言う。「白線がかたどったサム・ワンの姿が見えたんだ。それにきみの姿も。思っていたとおりの美人じゃないか」
「ジョン……そんな、本当なの?」

 わたしは訊ねたが、もちろんそれが嘘などではないことはわかっていた。サム・ワンが死に、わたしが生きている、それ以上の説明はいらなかった。
 わたしの問いかけに、屋上に立っているジョンが電話を耳から離し、両手を広げて首を振ってみせた。

「それより、どうやってここに?」
「彼が連れてきてくれたんだ」

 ジョンが振り返った先には、リッチーの姿があった。いつもどおり火のついた煙草を銜えている。片手をあげたリッチーに、わたしは頷いてみせた。

「きみの職場に行ったら彼とばったり会ってね。マクブレインを逮捕したそうだな、大手柄じゃないか。わたしの家がめちゃくちゃにされたことも聞いたよ。まったく残念だ。きみのためにワイナリーからとっておきの一本をふるまってやろうと思ったのに」
「それは本当に、残念ね」わたしは頷いた。なぜかはわからなかったが、ジョンとの会話を噛みしめたくなっていた。「でも職場と家を犠牲にして真相がわかった。あとはこれを終わらせるだけね」
「ああ。マクブレインは警察官としての落とし前をつけるべきだな。それからもうひとり、警察官ではないがそうするべきやつがいる」
「アルベローニね。でも、やつの居場所なんて誰も知らないんじゃ……」

 実際、リストの最後のページに載っていたアルベローニ本人の情報といえば、望遠で撮影された写真とその人物像ぐらいのもので、現住所などは書かれていない。
 しかしジョンはこう答えた。

「わたしは知っているよ」
「嘘でしょ?」
「本当さ。それこそが、わたしが最後まで隠していた情報だった。だからマクブレインはわたしに従わざるを得なかったんだ」

 わたしは携帯電話を耳から離すと、ジョンの目が見えないことを承知で彼に表情でうったえかけた。いや、きっと彼はわたしがそうしているのがわかっているのかもしれない。
 昔話をしたとき、アルベローニと会ったことがあるどころかその居場所さえ知らないと、ジョンは顔色ひとつ変えずに言ったが、それは真っ赤な嘘だったというわけだ。
 わたしはジョン・リップという男のしたたかさに、思わず笑みを浮かべた。不思議と悔しさや落胆は感じなかった。

「ならすぐにでも行きましょう。これを終わらせに」
「きみは来るな」

 冷厳に言うジョンの言葉に、出口に向かおうとしたわたしは足を止めた。

「なに言ってるのよ。最後まで協力させて」
「駄目だ。きみは来ちゃいけない」
「どうしてよ? 約束したじゃない!」
「約束か……きみの家でビールを飲んだときにも約束したが、わたしはふたつ目の要求をしなかったね。だから、これをその要求にしよう。ここから先にあるのは汚れきった世界……そんなところに行くのはわたしだけで充分だ。殺し屋は、殺し屋としてけりをつけてくるよ」
「そんな……勝手なこと言わないでよ! いままでさんざんわたしをふりまわしておいて! そんなの、ひどすぎる!」
「きみをいつまでもこんな世界にとどめておくほうがよっぽどひどいことだろう!」

 声を荒らげるジョンに、わたしは口を噤んだ。彼がここまで感情をあらわにするのを見たのははじめてだった。

「さあ、電話を切って。いつまでも殺し屋なんかと話しているんじゃない。きみはここでわたしに言ったな、未来に踏み出せと。なら、きみもそうするべきだ。きみも過去と決着をつけるんだ。故郷に帰って、母親に会いに行け」
「嫌よ。せっかくあなたとわかりあえてきたと思ったのに、こんなことって……」
「わたしもだ。きみと会えなくなると思うと寂しいよ」
「だったら!」
「それでも、お互いに違う道を進むべきだ。出会わなかったほうがよかったなんて言わない。短いあいだだったが楽しかった……礼を言うよ。きみがいたから、わたしはもう一度生きていこうと思えたんだ」

 そこからなにも言わずに、ジョンは電話を切った。わたしは彼の名を何度も呼んだが、とうとう最後まで振り向いてもらえなかった。電話をかけそうと思いついたときには、すでに携帯電話の電源は切られていた。
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