第二章 84

文字数 2,052文字

「でもね、海を越えても故郷には帰らない。いまさら帰ったところでなにも残ってないもの……それより聞いてよ。あんたの知り合いのレオって人、すごく親切よね。船のチケットだけじゃなくて、向こうで暮らす新しい家まで用意してくれたのよ。どこだと思う?」シシーはジョンの表情を窺うべく少し間をおいてから、「パリよ、素敵じゃない? 世界一の都市よ。まあこのあたりも捨てたもんじゃないけど、それでも華やかさでは一枚値が落ちるわね。あたしはそこで新しい人生をはじめるの。楽しみだわ。フランス語だって覚える。それからまともな仕事を見つけて、服を買って、将来の恋人と運命的な出会いをするの」
「シシー……」
「いまさら遅いわよ。未練がましくしたって駄目、もう決めたことなの。あんたはあたしを見捨てたつもりなんだろうけど、お生憎様。あたしがあんたを捨てたの」
「なあ、おい」
「さよなら。たぶんもう一生会わないだろうけど、あたしたちいつまでもお友達でいましょ」
「だったらなぜ泣いているんだ?」

 驚いたシシーが目を見開いた瞬間、そこから新しい涙がこぼれ落ちた。
 涙は頬を伝い、凍りついたように頬の途中で止まった。
 ジョンはそれを拭おうとそっと手をのばしたが、シシーは顔を逸らして俯いた。

「聞いてくれ、シシー」ジョンは手をのばしかけたまま言った。「きみはおれにとって大切な人だ。それはいまでも変わらない」
「よしてよ、優しいふりなんて。お客みたいにおべっか使わないで。そんな言葉でどうにかなるほど子供じゃない」
「違う。きみはおれに教えてくれたんだ」
「マッチのつけかた?」シシーは吸いさしの煙草を吐き捨てて言った。「あたしがあんたになにを教えたっていうの?」

 愛だよ。

 そう口を開きかけたが、ついに言えなかった。それは言葉にした瞬間、失われてしまいそうなほど心もとないものだったし、そもそもこれが愛だという確信を持てなかった。

 それでもシシーは、ジョンに大切なことを教えてくれたのだ。

「なにも言えないんじゃない。情けない」

 言いながら、シシーはジョンののばした手を両手で包み込んだ。
 冷たい手だった。ジョンの手も同じくらい冷えきっていた。少ない温もりを持ち寄るように、ふたりは互いの手を温めあった。

「なのにどうしてかしら。あたしがいままで会ったなかでいちばん情けなくて、いちばん格好悪い男なのに……あたし、あんたと離れたくないのよ」

 言葉と一緒にシシーの目から涙がとめどなくあふれていた。ジョンはなにも言えず、ただ彼女の手を握り返すことしかできなかった。

「時間だ」

 振り返ると、レオが立っていた。約束の時間を五分過ぎていた。

 ふたりはどちらともなく手を離した。シシーは毛皮のコートの前をかき抱くと、レオにうながされて埠頭を歩いていった。

 ひどい喪失感だった。身体の半分を持っていかれたような……いや、シシーこそジョンの青春の半身であり、その青春に終わりを告げた張本人だった。
 全身の力が抜け、いまにもくずれ落ちてしまいそうだったが、彼はそこに立ち続けた。

 ジョンから十五フィートほど離れたところでシシーが立ち止まる。レオがうながすように背中に手を添えたが、それでも彼女は動かなかった。

「どうしてだかわかる?」シシーはこちらを振り返らず、叫ぶように言った。「あんたといるときだけ、あたしは幸せを感じられたからよ」

 その場を駆け出し、追いついたシシーの背中を抱きとめることは……できなかった。
 ジョンにできたのは遠のいていく彼女の後ろ姿を見つめ続け、いなくなったあともそこに立ち尽くすだけだった。

 シシーは病に冒されていた。生まれつきのものか、彼女の生い立ちがそうさせたのかはわからない。
 わかるのは、内臓を腐らせ、やがては脳にまで達し、気がふれながら緩やかな死を迎えるこの病が治らないということと、シシーがその恐怖から逃れるためにドラッグに溺れていたということだけだった。

 囚われた恐怖から逃れるために最悪の手を打ってしまった憐れなシシー。だが彼女をいったい誰が責められるだろう。
 来るべくしてやって来た人々が集まり、成るべくしてそう成っていく、これがジョンやシシーが身をおいた世界だった。

〝ここがどんなに輝いて見えたとしても、そんなものは見せかけにすぎない〟いつかレオが口にした言葉がよみがえる。〝ここにいることをありがたがったりするな〟

 ならず者がしのぎを削る裏社会には素敵なことなんてひとつもありはしない。愛もロマンスも、ここでは犬の糞ほどの値打ちもない。

 その世界にはじめから身を置いていたせいで、ジョンにはかえって覚悟がなかった。病に冒されたシシーと共に歩み、遠からず訪れる残酷な別れを耐え忍び、それでも報われない結果が待ち受けている将来を受け入れる覚悟が。

 いつしかジョンは地面に座り込み、風にさらされるまま海を見つめていた。

 どこか遠く、船の汽笛に紛れて銃声が聞こえたような気がしたが、それもすぐに薄れて意識の外へと立ち去っていった。
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