第二章 97
文字数 1,975文字
「お客さん、なにかいいことありました?」
「どうして?」わたしは訊いた。リュックとボトルは座席に置いたが、グラスだけは手に持ち続けていた。
「いや、表情が明るいっていうか、柔らかい顔してると思ってね。長いことここで商売やってると、顔のかたい人ばっかり乗せるもんだから……ほら、寝ても覚めても金勘定ばっかりしてるような。お客さんみたいな表情の人はめずらしいんですよ。まあ、観光客もにこにこはしてますけど、あの人たちはどうもね。笑いに気が抜けてるっていうか」
「あなたがそう言うなら、いいことがあったのかもね」
「へえ、それじゃあ――」
「悪いけどお喋りはおしまい。黙って前見て運転しなさい」
わたしがそう言うと、運転手は肩をすくめて視線を前に戻した。それでも彼の口元には笑みが浮かんでいる。
わたしはといえば、自分自身の感情に驚かされていた。
なるほど、確かにお互いの過去をつまびらかにしたことは後悔を伴う行為だった。しかしジョンに自らの生い立ちを語り、彼の過去を知ることは、同時に満ち足りた気分をもたらしてくれていた。
殺し屋と刑事、分かり合えなくとも……いや、分かり合えないからこそ、今日という日が重要なものに思えた。
ジョンの自宅の前に止まると、運転手はこう訊ねた。
「ここでは待っていたほうがいいんで?」
「そうね。連れを呼んでくるんだけど、そこからもう一度移動したいの」
「なら待ちましょう。お代はそのあとで結構」
「助かるわ」
わたしはリュックを肩にかけると、担保代わりにワインボトルを座席に残して入り口へと向かう。エントランスでは、七色のランプの光に包まれたジョンが待っていた。
「行きましょう。外に迎えも来てる」
「いったいどこへ連れて行く気だ?」
「来ればわかるわ」
そう言ってわたしはエントランスを出た。タクシーのドアの前で待っていると、遅れてジョンも建物から出てきた。
ふたりで後部座席におさまると、わたしは運転手に行き先を告げた。それを聞いてジョンが無言のまま顔を向けてくる。わたしは気づかないふりをした。
車内をふたたび沈黙が支配し、お喋りな運転手も静かにハンドルを握っていた。相変わらず口の端は好意的に持ち上がってはいたが。
渋滞にもつかまらず、タクシーは二十分ほどで目的地に着いた。わたしは代金と一緒に多めのチップを手渡した。
「またいつでもどうぞ」
運転手はにこやかな表情とともに去っていった。
少なくとも今夜はこれ以上ハンドルを握らなくてもいいくらいの額を手渡したつもりだ。
彼の夜は終わる、と曲がり角に消えるテールランプを見送りながらわたしはそう思った。
いっぽうで、わたしたちの夜はまだ続いていた。
「わたしをどこに連れてきたんだ」訊ねるジョンの語尾は震え、彼は何歩か後ずさりまでした。
「アッパー・イーストの北端のあたり。さっきタクシーで番地も言ったんだからわかってるはずよ」
「わたしは帰る」
「待って!」
立ち去ろうとするジョンの腕をつかむため、わたしは危ういバランスを保ちながらワインボトルを小脇に抱えなければならなかった。おまけに肩には重いリュックをぶらさげてもいた。
頭上にはビルがそびえ立っていた。
数十年前、ある若者はこのあたりに立っていたのだろうか……暗い決意を胸に秘め、まだ両目とも見えていた若者は、ライフルケースを携えていたはずだ。
「おねがい」
「事件の犯人がこんなところをうろつけるわけがないだろう」
「怖いの?」
「違う。この上が殺人現場で、犯人は二十年以上経ったいまも捕まっていない。その理由は当時の犯人に戸籍がなく、用心深い彼自身がこの近辺をうろつくこともなかったからだ。いまさらその苦労を台無しにしたくない」
「そう……でもなにかお忘れじゃない、ジョン・リップ? わたしはこの街の刑事よ。それも殺人課のね」
わたしはまっすぐジョンを見つめた。いつもは彼がわたしにしていることだ。
わたしはことあるごとにジョンの目が見えているか、見ていている以上の能力を備えていると思っていたが、このときばかりはその神通力が消え失せていた。
「わかった」長い間をおいて、ジョンが深いため息とともにそう言った。「行こう。少なくとも屋上ならここより目立つこともなさそうだ」
そう言われて、わたしはまわりを見た。
街路は行き交う人々と車でいっぱいで、わたしと目が合った人は、皆一様に困ったような笑みとともに首を横に振りながら通りすぎていった。年の差カップルの痴話喧嘩とでも思われているのかもしれない。
「行きましょう」
ばつの悪い思いで歩き出そうとするとわたしの手を、ジョンが振りほどく。
「ひとりで歩ける」
「いいわ。それじゃあついでにグラスを持ってくださらない? あなたがここに不案内じゃなくて躓くようなことがなければ、ボトルをまわし飲みせずに済むわ」
「どうして?」わたしは訊いた。リュックとボトルは座席に置いたが、グラスだけは手に持ち続けていた。
「いや、表情が明るいっていうか、柔らかい顔してると思ってね。長いことここで商売やってると、顔のかたい人ばっかり乗せるもんだから……ほら、寝ても覚めても金勘定ばっかりしてるような。お客さんみたいな表情の人はめずらしいんですよ。まあ、観光客もにこにこはしてますけど、あの人たちはどうもね。笑いに気が抜けてるっていうか」
「あなたがそう言うなら、いいことがあったのかもね」
「へえ、それじゃあ――」
「悪いけどお喋りはおしまい。黙って前見て運転しなさい」
わたしがそう言うと、運転手は肩をすくめて視線を前に戻した。それでも彼の口元には笑みが浮かんでいる。
わたしはといえば、自分自身の感情に驚かされていた。
なるほど、確かにお互いの過去をつまびらかにしたことは後悔を伴う行為だった。しかしジョンに自らの生い立ちを語り、彼の過去を知ることは、同時に満ち足りた気分をもたらしてくれていた。
殺し屋と刑事、分かり合えなくとも……いや、分かり合えないからこそ、今日という日が重要なものに思えた。
ジョンの自宅の前に止まると、運転手はこう訊ねた。
「ここでは待っていたほうがいいんで?」
「そうね。連れを呼んでくるんだけど、そこからもう一度移動したいの」
「なら待ちましょう。お代はそのあとで結構」
「助かるわ」
わたしはリュックを肩にかけると、担保代わりにワインボトルを座席に残して入り口へと向かう。エントランスでは、七色のランプの光に包まれたジョンが待っていた。
「行きましょう。外に迎えも来てる」
「いったいどこへ連れて行く気だ?」
「来ればわかるわ」
そう言ってわたしはエントランスを出た。タクシーのドアの前で待っていると、遅れてジョンも建物から出てきた。
ふたりで後部座席におさまると、わたしは運転手に行き先を告げた。それを聞いてジョンが無言のまま顔を向けてくる。わたしは気づかないふりをした。
車内をふたたび沈黙が支配し、お喋りな運転手も静かにハンドルを握っていた。相変わらず口の端は好意的に持ち上がってはいたが。
渋滞にもつかまらず、タクシーは二十分ほどで目的地に着いた。わたしは代金と一緒に多めのチップを手渡した。
「またいつでもどうぞ」
運転手はにこやかな表情とともに去っていった。
少なくとも今夜はこれ以上ハンドルを握らなくてもいいくらいの額を手渡したつもりだ。
彼の夜は終わる、と曲がり角に消えるテールランプを見送りながらわたしはそう思った。
いっぽうで、わたしたちの夜はまだ続いていた。
「わたしをどこに連れてきたんだ」訊ねるジョンの語尾は震え、彼は何歩か後ずさりまでした。
「アッパー・イーストの北端のあたり。さっきタクシーで番地も言ったんだからわかってるはずよ」
「わたしは帰る」
「待って!」
立ち去ろうとするジョンの腕をつかむため、わたしは危ういバランスを保ちながらワインボトルを小脇に抱えなければならなかった。おまけに肩には重いリュックをぶらさげてもいた。
頭上にはビルがそびえ立っていた。
数十年前、ある若者はこのあたりに立っていたのだろうか……暗い決意を胸に秘め、まだ両目とも見えていた若者は、ライフルケースを携えていたはずだ。
「おねがい」
「事件の犯人がこんなところをうろつけるわけがないだろう」
「怖いの?」
「違う。この上が殺人現場で、犯人は二十年以上経ったいまも捕まっていない。その理由は当時の犯人に戸籍がなく、用心深い彼自身がこの近辺をうろつくこともなかったからだ。いまさらその苦労を台無しにしたくない」
「そう……でもなにかお忘れじゃない、ジョン・リップ? わたしはこの街の刑事よ。それも殺人課のね」
わたしはまっすぐジョンを見つめた。いつもは彼がわたしにしていることだ。
わたしはことあるごとにジョンの目が見えているか、見ていている以上の能力を備えていると思っていたが、このときばかりはその神通力が消え失せていた。
「わかった」長い間をおいて、ジョンが深いため息とともにそう言った。「行こう。少なくとも屋上ならここより目立つこともなさそうだ」
そう言われて、わたしはまわりを見た。
街路は行き交う人々と車でいっぱいで、わたしと目が合った人は、皆一様に困ったような笑みとともに首を横に振りながら通りすぎていった。年の差カップルの痴話喧嘩とでも思われているのかもしれない。
「行きましょう」
ばつの悪い思いで歩き出そうとするとわたしの手を、ジョンが振りほどく。
「ひとりで歩ける」
「いいわ。それじゃあついでにグラスを持ってくださらない? あなたがここに不案内じゃなくて躓くようなことがなければ、ボトルをまわし飲みせずに済むわ」