第二章 70

文字数 1,706文字

「どうしたの?」

 声をかけられ、ジョンははっと我に返った。目の前で女主人が眉根を寄せている。深いしわが縦に入り、それだけで年増女の気配は消え去っていた。

「顔色が悪いわよ」
「大丈夫だ」言いながらジョンはぞっとするような考えをしめだそうと頭を振った。「恩にきるよ、話してくれてありがとう」
「どうってことないわ」
 ジョンは立ち上がりかけ、「ひとつ頼みたいんだが――」
「このことは誰にも話すな、でしょ。わかってるわ。店の娘たちにも釘を刺しておく。馴染みの客にもね。さすがに時間が経ちすぎてるから、噂がどこまで広まってるかわからないけど、協力するわ」
「すまない」
「ピーノ一家には恩があるけど、別にあんたたちのためじゃない。ここが安物のドラッグが出回る店だなんて知れたら、それこそ商売あがったりだもの」

 女主人の言葉に、ジョンはひそかに胸を撫でおろした。
 信頼できる言質だった。少なくとも下手に恩義や義理を見せびらかされるよりも、利己的な理由のほうがずっと信用できた。

 とにかくこのことをレオに知らせるのが急務だった。下っ端の構成員にとって、この問題は荷が重過ぎる。

 噂がどこまで広がっているかはわからない、と女主人は言った。実際そのとおりだ。馴染みの客は口止めできても、ふらりと店に寄った流れ者がドラッグを売りつけられていたらどうなるか。
 この手の噂はまるで野火だ。街を飲み込み、膨らみ続け、どこまでも拡大していく。おまけに真実と虚構が織り交ぜられ、立ち昇る大仰な陽炎で周囲まで歪めてしまう。

 そしてこの噂がいつアルベローニ本人の耳に入るかわかったものではない。時間は限られていた。いや、いまこの瞬間にも臨界を迎えかねなかった。

 すぐにでも行動を起こす必要があった。贖罪のために差し出す生贄はひとりで充分だ。
 そもそもがその大馬鹿野郎のせいなのだ、同情の余地はない。

「ねえ、ジョン」立ち去ろうとするところを女主人が呼び止める。

 ジョンは振り返りながら、この女主人に初めて名前を呼ばれたことに気がついた。

「時間があるときで構わないんだけど、シシーの様子を見てきてくれない? あんた、仲良くしてたでしょ?」
「シシー……」ジョンは呪文のようにその名前をそっとなぞったが、すぐに思い直した。「悪いがそんなことをしている余裕はないんだ。わかるだろう」
「ええ。だけど、最近ほとんど店に顔を出さないのよ。ふらりとやってきたかと思えば、客もとらないまま控え室にこもりきりなの。こんなんじゃ辞めてもらうしかないんだけど、顔を合わせないことにはね……わたしはなかなか店を離れられないし、ほんの五分だけでいいのよ」

 女主人はジョンをまっすぐ見つめた。それだけで、彼女は母に変貌した。彼女は娼婦のことを娘たちと呼んでいるが、それはあながち嘘ではないのかもしれない。
 この店で働いている娼婦の何人かは、実の娘なのかもしれないし、そんな娘たちと同じ数だけ父親がいるのかもしれない。
 とにかく、女主人にはジョンがそれまで触れたことのない感情が宿っていた。それが母性だとわかったのは、ずっとあとになってからだった。

「わかった」ジョンは頷いた。「彼女、どこに住んでいるんだ?」

 女主人はテーブルの上から帳簿を引き寄せ、白紙にペンを走らせた。

「ここよ」書きつけた内容をちぎってよこす。

 女主人をなだめるつもりで住所を訊いたものの、受け取ったメモを胸ポケットにしまったときには、シシーの家に行くことがジョンにとっての優先順位のかなり上位に食い込んでいた。
 彼女の身を案じるというのもあったが、それ以外にも理由はあった。

 集金のひとりだちを任されたとき、レオからいくつか心得を教わっていたのだ。
 そのなかには娼婦相手の心得もあった。曰く、娼婦の様子が変わったときそこには大きく分けて三つの原因がある。

 ひとつは男ができたとき、ひとつは商売から足を洗いたくなったとき。
 最後に、ドラッグに溺れたとき。

 ジョンは店をあとにした。
 メモを押し込んだポケットから手を離したとき、肩に吊るした拳銃に指先が触れた。そのことがジョンを心強くさせると同時に、不安をあおりもした。
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